(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年〜1701年)

題:(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年〜1701年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1700年頃、この頃、東南アジアだけで、世界経済の4分の1
 を生み出していた。
  この経済的恵みと活力が、先進諸国の欲の対象となっ
 てしまった。
1701年1月、契沖(けいちゅう、国学者)が没した(1640年
 〜1701年)
  徳川光圀から託されて万葉集の注釈をし、『万葉代匠
 記』として完成した。
1701年3月、事件:赤穂〜吉良、刃傷
  赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城
 で吉良義央(よしなか)を傷害し、即日、切腹、領地没
 収となった。
1701年4月、赤穂城の城明け渡し、
  幕府は、脇坂安照と木下公定を赤穂城受渡使に任命し、
 長矩の弟の浅野大学を閉門とした。
1701年、経済政策:アイヌ交易
  根室アイヌ交易の場所が開かれた。
  因みに、1754年には国後にアイヌ交易所を設置した。
  ロシア人の千島列島の南下はこれ以降である。
  松前藩は、17世紀の初頭から、道東の厚岸(あっけし)
 を中継地として、千島交易を行なっていた。
  飛騨屋久兵衛が請け負っていた。
  ロシア人は、17世紀の末になってカムチャッカを征服し
 てから後に、そこを足場にして南下を開始した。
1701年、経済政策:集荷と流通の管理
  銀座加役として大阪に銀座を設け、集荷・流通を管理
 した。
  幕府は、この年に、輸出銅を確保するために、銀座加役
 として大阪に銅座を設け、産銅の独占をはかった。
  大部分が長崎輸出銅にあてられていた別子銅山の産銅
 は、18世紀に入り次第に減った。
  その為、銅を確保する必要があった。
  日本の銅は、高品質で、この日本産の銅で、イギリスは
 大砲を作った。
  この性能の良い大砲によって、イギリスは、イスパニ
 ア(スペイン)の無敵艦隊を破ることができた。
  イスパニアも、この銅を欲しがったが、イギリスが独
 占し、流出を防いだ。
  この無敵艦隊の敗れたことによって、世界史が大きく
 変わって行った。
1701年、産業:友禅染(ゆうぜんぞめ)
  この頃、宮崎友禅斎が、光琳の画法に学んで友禅染
 開いた。
1701年6月、イギリスの王位継承法が成立した。
  イギリスでは、17世紀の初めから、どろどろとした王位
 の継承についての争いが、約100年に渡って、国王と議会
 とで争って来た。
  それの終止符を打ちたいと言うのが「権利章典」だった
 ・・が、しかし・・、
  と言う事で、イギリスでは先に「権利章典」(1689年)
 によって王位の継承順位は定められていたが、しかし、
 アン女王に男系相続人が居なかった。
  そのため、王位がローマ・カトリック教徒で、勝手に
 大王位の継承者だと名乗るJ.F.E.スチュアートに王位が
 移る恐れが生じた。
  そこで、急遽、法律を作って補充した。
  ドイツのハノーファー家への王位継承を定めた。
1701年〜1714年、スペイン継承戦争(けいしょう)が起き
 た。
  スペイン(イスパニア)の王位継承をめぐり、イギリ
 スとフランスの対抗を主軸として、戦争がなされた。
  スペイン王に世継ぎの子供が無いのが原因だった。
  フランスのルイ14世の孫のアンジュー公フィリップ(
 後のフェリペ5世)を相続者と定めた。
  フランス・スペインに対して、イギリス・オーストリ
 ア・オランダの争い、そして、ユトレヒト条約が締結さ
 れた。
  フランスの強大化が嫌だったイギリスだった。
  1700年に、スペイン王が没すると、遺言によってフラ
 ンス王の孫が、スペイン領の全土を相続した(スペイン
 のハプスブルグ家が断絶し、ブルボン家が王位についた)。
  これを、オーストリアは認めなかった。
  イギリスとオランダは、スペイン領に関心を持ってい
 た。
  また、新大陸貿易を確保したいとの観点から、フラン
 スとスペインの提携に反対した。
  また、王位継承権を主張するオーストリアとも同盟を
 結んだ。
  そして、この3国は、宣戦を布告した。
  最初こそフランス優勢であったが、劣勢となった。
  そこで、ルイ14世は講和を決意した。
  しかし、最初の講和の妥協はならず、決裂し、戦争継
 続となった。
  しかし、一時的には、フランスも持ち直したが、常に、
 守勢だった。
  イギリスの政権が替わり、戦争終結へ機運が熟し、条
 約の締結へと向かった。
  この戦いの結果、フランスとスペインは、多くの領土
 を失った(ユトレヒト条約)。
  この後も、オーストリアは、戦争を継続ししたが、翌
 年に、ラスタット条約で終結した。
  なお、この戦争と並行して、新大陸では、アン女王戦
 争が戦われていた。
1701年、プロセイン王国(ホーエンツォレルン朝)成立。
  プロイセン王国は、首都がベルリンのブランデンブル
 ク選帝候国と、東のプロイセン公国とが合同して形成さ
 れた王国。
  1701年に、プロイセン王国と名前を変えた。
  鴨長明の「方丈記」ではないが・・、
  王位が欲しいと、戦いが頻発するヨーロッパ諸国の「
 かつ消え、かつ結びて・・」の世界だった。
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