(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年〜1641年)

題:(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年〜1641年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1637年、江戸城の本丸修築が完成した。
1637年、社会資本整備・釜無川
  幕府代官の平岡和由、釜無川に四ヶ村堰を築造する。
1637年、北上川に大洪水が起こり、伊達領内の被害が14万
3000石にのぼった。
1637年、五人組制度を実行した。
1638年11月、初めて大老を置いた。
  徳川家光が、土井利勝酒井忠勝大老に格上げした。
  大老に就けるのは井伊・酒井・土井・堀田の4家に限定
 された。
  4家以外の大老大老格と呼ばれた。
1638年、堀田正盛が、老中の職をとかれた。
1638年、阿部重次が老中となった。
1638年、太田資宗若年寄から奏者番(そうじゃばん)に
 移った。
  奏者番武家の礼式を管理する役職。
1638年、オスマン帝国が、バクダッドを占領してイラク
 併合した。
1639年4月、大久保彦左衛門忠教(ただたか)が没した。
 (1560年〜1639年)旗本。
  家康・秀忠・家光の3代に仕えた。
  関ケ原の戦いでは家康本陣で槍奉行を務め活躍。
  余生は「三河物語」を執筆した。
  死の間際に、家光から、5000石の加増の話があった時、「
 余命いくばくもない自分には有り難いが不要」と固辞し
 た。
  将軍の家光に事あるごとに諫言したという逸話は、後
 世の講談や講釈の創作。「大久保彦左衛門と一心太助
 も創作。
  多くの浪人たちを養い、その就職活動に奔走したとい
 う。
1639年7月、ポルトガル人の来航禁止。
  布教の裏に、スペインとポルトガルの領土的野心が、
 見え隠れしていることが分かって禁教体制となって行っ
 た。
  イギリス・オランダのプロテスタントの新教国の幕府
 への、旧教のカトリック教国の報告が、常に、流れてい
 た。これが影響している。
  特に、オランダが情報をもたらしていた。
  とは言っても、文化的情報は、かなり豊富に入って来
 ており、また、日本の知識人は、それに鋭敏に反応もし
 ていた。
  オランダと中国以外の貿易の禁止。
  この時の令は、ポルトガル船の来航を禁止し、ポルト
 ガルとの断交をしたに過ぎない。
  徳川幕府は国を閉ざしたのではない。
  日本は、鎖国で、内に閉じこもって居たという事では
 ない。
  勝海舟は、その著の氷川清話で、「出島の蘭館にはオ
 ランダ人が居り、中国人はそれ以上にたくさんいた」と、
 国際感覚を持とうと思えば、長崎に行けばと、その気に
 なれば知識は得られると言っている。
  第一、「鎖国」という言葉が、当時、存在しなかった。
  「寛永10年の令」「寛永16年の令」と言うものがあっ
 て、渡航を禁止したり、蛮族を打ち払うという令がある
 が、鎖国の意思はまったくない。
  例えば、明が滅亡した直後、明の家臣が、日本に助け
 を求めて来た。
  その時、将軍の家光は、鎖国で閉じこもるなんて態度
 では、まったく無かった。
  2万の大軍を大陸に上陸させて、彼等を救おうとした。
  明を再興させようと、本気で考えていた。
  実際は、明の家臣たちの反乱が失敗におよび、駄目だ
 との情報が入って、実施には至らなかったが・・、
  日本の姿勢は、鎖国の様な姿勢ではなかった。
  『いざとなったら出兵するぞ』という体制だった。
  この様な日本を示す事を、多くの明の知識人も知って
 いて、日本に救いを求めて亡命して来た。
  例えば、水戸光圀に庇護された朱舜水(しゅしゅんす
 い)などがよく知られている。
1639年、このポルトガル人が、日本への来航が禁止された
 のは、ポルトガル人が日本の法律に従わないためだった。
  日本の法律を尊重しないため、遵法でなかったために
 追放されたのだった。
1639年、ジャガタラ追放を行う。
  南蛮人の追放に伴って、日本人妻と子供も追放処分と
 なった。
  幕府は、1633年に日本人の海外渡航を禁止し、
  1636年に、ポルトガルと日本女性との間の混血児287人
 もマカオに、
  1639年に、オランダ人などとの混血児32人もジャガタ
 ラ(オランダ領のパタピア・・現在のジャカルタ)に追
 放処分にした。
1639年12月、渋川春海(しぶかわしゅんかい)が生まれた。
 (1639年〜1715年)天文暦学者、囲碁棋士
  幕府より21歳ですでに禄を受けていた。
  御城碁に出仕した。
  初手に天元に打つ碁をした。
  1690年の52歳の時、日本で最初の地球儀を作った。
1639年、宗門改めを行った。
1639年、旗本が窮乏である事の原因調査をした。
1640年1月、贅沢禁止令、おごりを禁止、
  大名・旗本に倹約令を出し、旗本などの「おごり」を
 禁止した。
1640年、宗門改役を設置した。
1640年、切支丹奉行を設置した。
1640年、綿花・煙草の作付けを禁止した。
  幕府は、この頃から繰り返して本田畑への綿花・煙草
 の作付けを禁止した。
1641年1月、江戸大火(桶町火事)、
  京橋桶町より出火、芝・木挽町・御成町・麻布が延焼
 した。
1641年4月、殉死、
  熊本藩主の細川忠利が没し、18人が殉死した。
1641年5月、人返し阻止
  徳川幕府は、この時の布令に・・、
  「他領に年久しくありつき、祭祀を持っているものま
 で召し返すことが、近年あるように聞き及ぶが、領内の
 ものであっても数年他領に住みつき、その上科(とが)
 もないものを呼びかえすことは、 今後あってはならぬ」
 とした。
  幕府は、人返しを止めさせた。
1641年5月21日、オランダ人も長崎の出島に移した。
  オランダ商館を、平戸商館から出島に移し、オランダ
 人も糸割符制下に組み込まれた。
1641年9月、家光の長男・家綱が生まれる
 (1641年〜1680年)
  後の江戸幕府の第4代将軍である。
  家光は、生まれた時から家綱を自らの跡継ぎと決めて
 いたという。
  それは、自分が世継ぎ争いの経験があったからという。
 また、やっと生まれた待望の男児だったためともいう。
  9歳の時、1651年4月に、家光が48歳で逝去すると、8月
 に将軍の宣下を受けている。
1641年、利根川水系、物資輸送の大動脈になる。
  江戸川の開削がほぼ完成する。
  一連の利根川水系の川筋付替えにより、利根川・江戸
 川は物資輸送の大動脈になる。
1641年、オランダ人がマラッカを占領した。
  マラッカ海峡を占領したので、江戸幕府の1639年のポ
 ルトガル船来航禁止令がなくても、ポルトガル船は日本
 に来られなくなった。
1641年〜1649年、イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の
  国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受していた。
  この様なイギリスに陽が当たって来るのは、アメリ
 大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、インド
 への航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマ喜望峰
 回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ、おいしい収奪した利益が
 流入し始めた。
  それまでのフランスを侵略して得るという利益から、
 濡れ手で粟の利益へと転換した。
  世界の海洋の上に、利益を得て、持ち来たる海洋国家
 となった。
  イギリス本国では、1641年〜1649年に、ピューリタン
 革命が起き、キリスト教イギリス国教会に反対して宗
 教革命をしたキリスト教徒のピューリタンが、議会派を
 形成して、チャールズ1世を処刑して共和国を樹立してい
 た。のち、ピューリタンはイギリスを追い出されてアメ
 リカへ至った。
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