(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年〜1637年)

題:(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年〜1637年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1635年、ザクセン(ドイツ、新教公国)の立法家とうたわ
 れたベネディクト・カルプツォフ
 (1595年〜1666年、キリスト教ルター派)は、
 裁判官としての長い経歴の間に、2万通を越える『死刑
 宣告書』に署名した。
  この卑劣な男は、1635年に、1書「刑法の実際」を出
 版した。
  その中の魔女に関する部分は、正にプロテスタント
 の「魔女への鉄槌(てっつい)」であった。
  「魔女への鉄槌」と言えばキリスト教カトリック
 殺人の書で、こちらが本家であるが・・、
  プロテスタント以上に卑劣だったキリスト教カトリッ
 クの殺人の書であったが・・、
  この書によっても、多くの女性方が殺された。
  プロテスタントも、愚かにも、これを真似(まね)た。
  このキリスト教プロテスタントのこの本も、相も変わ
 らずカトリックと同じ様に「魔女の空中飛行」「魔女集
 合」「魔女との性交」「魔女マーク」という記述である。
  裁判の方法については、17種類の拷問法を挙げている。
  「指締め」「梯子」「ローソクであぶる法」「爪の間
 に木のクサビを打ち込む法」などなど卑劣な拷問方法が
 並ぶ、卑劣な事を考え、行なう、キリスト教だった。
  プロテスタントも、これまた、カトリックと大同小異
 の残酷さだった。
  その一つを説明すると、「魔女マーク」とは何かとい
 うと、
  キリスト教裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が、
 魔女にされた女性を調べる方法の一つに「魔女にはマー
 クがある」と言った。
  そのマークに針を刺しても痛がらないのだと言った。
  そして、そのマークがある訳だと、女性の体のあちこ
 ちを針で刺した。
  この様な卑劣な拷問をキリスト教聖職者は、教会の中
 の裁判所と称する『実態は卑劣な拷問所』でやっていた。
1635年、イギリス艦隊が、中国・清のマカオに到着した。
  中国貿易でうまい事をしているポルトガルに代わって、
 うまい汁が吸いたいとの行動だった。
  後に、このイギリスは、この地・中国で、「アヘン戦
 争」という、イギリスの不正な行為から起きた戦争を起
 こす。
  因(ちなみ)に、アヘンは、麻薬の一種で、ケシの未
 熟な果実からとれた乳液を、乾燥させた茶褐色の物質で、
 モルヒネを多量に含む、
  一度、使うと中毒となり、廃人への道へと落ちて行く。
  絶対に使ってはならない。
1635年、その後のイギリスは・・、
  イギリスとポルトガルは、中国貿易の覇権を争って、
 小競り合いを繰り返した。
  イギリスは、ポルトガルが拠点としていたマカオを去
 り、広東へ向かった。
  この地・広東で、支那(中国)と戦争となり、イギリ
 スは支那の砲台を占領した。
  イギリス国旗を掲げ、勝利を示した。
  支那は、イギリスに広東を窓口として通商を許した。
  これが後に、大きな傷口を開けて行く。
1635年、ボーナス制度の始まり
  この頃から、参勤交代の折に、諸大名が大奥中の女性
 に祝儀を贈る習慣が始まった。
  これは、春日局がつくったボーナス制度。
  当時、大奥の女中たちの収入は「御切米」と呼ばれる
 給料だけで、身分の低い女中たちは、晴れ着の新調もま
 まならない生活だった。
  ある時、大老の坂井忠勝が、これを禁止するとした(
 倹約の意味)。
  困った春日局は、老中と掛け合い、祝儀の代わりにま
 とめて将軍に献金させ、「それを上様から『御合力金』
 として頂戴する」ことにした。
  これが、今でいうボーナスとして幕府から支給される
 ようになり、大奥女中たちを潤した。
1636年4月、酒井忠世が没した(1572年〜1636年)
1636年6月、経済政策:銀座を置き、寛永通宝が鋳造された。
  金・銀・銭の三貨制が確立した(金1両=銀50匁、のち
 60匁=銭4貫文)。
1636年6月、廻船・積荷の規則を出した。
1636年6月、伊達政宗が没し(1567年〜1636年)、15人が殉
 死し、さらに、その殉死者に対して5人が殉死した。
1636年8月、箱根の関令が制定された。
1636年、江戸城工事:江戸城の内部、外郭が完成した。
  諸大名に江戸城総構え、天守の改築を課した。
1636年、出島を築きポルトガル人を置いた。
1636年、後金が清と改めた。
1637年1月、家光は病気がちで、しばしば政務を休んだ。
  ことに、この年は正月から健康がすぐれず、政務はも
 とより儀礼の席にも出なかった。
  6月には、朝廷で、将軍病気平癒の祈祷が行われた。
  将軍の病気は、翌1638年3月頃まで続いた。
  幕府は、将軍抜きでこの重大事態に対処せざるを得な
 かった。
  この危機を克服したのは、堀田正盛松平信綱・阿部
 忠秋ら閣老を中心とする幕臣たちであった。
  この頃、閣老を頂点とする行政組織はほぼ制度を整え
 た。
1637年2月、本阿弥光悦が没した(1558年〜1637年)
1637年12月、島原・天草の乱、(〜1638年4月)
  島原の乱は、過酷な年貢負担と、飢饉災害が重なった
 窮状の中で百姓一揆として起きた。
  また、大勢いた旧領の浪人が加わり、その浪人・土豪
 の指揮で農民一揆が大きくなっていった。
  また、天草も同様の経緯で起きた。
  この百姓領民に多くの旧領時代の浪人たちも加わる形
 だった。
  当然、戦死者たちはキリシタン殉教者ではない。
  キリシタンは、他の地方より多かった程度で、ほんの
 一部を形成している程度。
  強いて一揆をおこした人たちの宗教を言うのなら、そ
 のほとんどは仏教徒だった。
  宗教戦争では、まったくない。
  キリスト教の迫害に立ち上がったという話はまったく
 の嘘。
  また、この乱に天草四郎が語られるが、実在の人物で
 はない。
  キリスト教宣教師が語った人物像、言いふらした話に
 過ぎない。
  キリスト教は、しきりに天草四郎を実在の人物の様に
 プロパガンダするが、嘘宣伝である。
  (この人が天草四郎だという後付け話はあるが、無理
 筋の話となっている、16歳の少年が、旧領主の小西行長
 の旧領の侍たちに推挙されたという、まったく不明な人
 物の話なのだ)。
  戦死者数も、ひたすら島原・天草側の死者数をひたす
 ら誇大に言うのは、また、嘘で間違い。
  幕府側も、同じ人数の戦死者が居る。
  この戦いで幕府軍の重責を担った板倉重昌も戦死して
 いる。
  幕府軍の総大将は松平伊豆守信綱。
  キリスト教に偏するNHKはまったく罪作りな放送局
 だ。嘘ばかりを放送する。
  NHKは、ひたすらキリスト教徒が大勢死んだと放送
 する、そして、殉教だと放送する、あたかもキリスト教
 の代弁者の様に放送する。
  NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし
 続けている。
  文献に「扇動とは大ウソにならない範囲で事実と異な
 ることを言うこと」とあるが、NHKは、扇動をしてい
 る。大ウソとなっている。扇動以上だ。
  この地方の領主だったキリシタン大名有馬晴信も、
 キリスト教宣教師からもらえる武器・弾薬が欲しかった
 だけ、
  隣国の龍造寺隆信に滅ぼされそうになっているので、
 家を守るのに必死だった。
  そしてまた、晴信は、武器弾薬以外にも、食糧や金な
 どすべてを貰っていた。
  晴信は、関ケ原の戦いの時、キリシタン大名の小西行
 長を攻撃している。宗教心なんてまったくない。
  また、キリスト教に偏するNHKの放送が、あまりに
 もデタラメだという事が新聞に報道されていた。
  (読売新聞、2015・5・20)に・・、
  NHKは、荒木村重の妻をキリシタンと放送した。
  村重の妻が処刑されるときに「十字を切って」、さら
 に、「イエズス・マリア」と唱える演出をした。
  この村重の妻は、「はっきりした仏教徒」だと分かっ
 ている。
  この村重の妻は、「大坂(本願寺)の川奈部左衛門尉
 (さえもんのじょう)という者の娘」で、れっきとした
 本願寺門徒だ。
  辞世も、
 「磨くべき、心の月の曇らぬは、光と共に、西へこそ行
 く」という西方浄土への仏教の往生を詠じている。
  どこがキリシタンなのだ?
  イエズス会の宣教師フロイスが、「異教徒として即座
 に幾つかの詩句を作って朗吟し」て処刑されたと書いて
 いる・・と報じている。
  NHKの、歴史も何もあったもんじゃないの放送は、
 まったく呆れる。
  どこまでキリスト教に偏するNHKなのか? 大ウソ
 をついてまでして・・、こんな事ばっかりしている放送
 局なのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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