(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年〜1668年)

題:(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年〜1668年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1667年、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん、大阪の両替
 商)が生まれた(1667年〜1736年)
  鴻池財閥を形成した。
  11代目は、日本生命保険の初代社長に就任した。
1667年2月、幕府が、本田畑での煙草の栽培を禁止した。
  諸藩は、経済・産業政策の上から木綿・煙草・菜種な
 どの商品作物を栽培したかった。
  また、この頃、各地で米の生産量が増えて米価が低迷
 してきていたので、より高価な商品性のある作物を作り
 たかった。。
  つまり、米を生産しないで商品作物を作り、その売却
 益で年貢米を購入した方が良いというパターンが出て来
 ていて、その様な事をする行為が出始めていた。
  諸藩として、商品作物の栽培を奨励し、農家の収入を
 増加させ、納税先の藩の財政を安定させるのが良かった。
  幕府は、あくまで石高制を採用しているので、米主体
 の経済政策の基本の米の生産を多くしたいだった。
1667年、令:城米廻船取締規則が、公布された。
  幕府の廻米(かいまい)は御城米(ごじょうまい)と
 言った。
  御城米は、御城米船により、諸藩の蔵米は廻米船によ
 り、民間米は買積(かいづみ)船により輸送された。
  この御城米船の場合、幕府から公布された取締規則に
 よって、厳格な廻船雇用・運航が義務付けられていた。
1667年、社会資本整備:小貝川
  幕府代官頭の伊奈忠次が、小貝川に豊田堰を築造する。
  周辺地域の農業用水の確保、灌漑を目的とした。
  水量維持の重要な役割を持った。
  農業利水の関東三大堰と言われている。
1667年、番士の具足(ぐそく、武具)改めを命じた。
1667年7月31日、ブレダの和約。
  第二次英蘭戦争をしていたこの二国が、この条約によ
 って講和した。
  オランダは、現在のニューヨークのニューアムステル
 ダムを含む北アメリカ植民地をイギリスへ割譲した。
  しかし、この間、オランダは、ギアナなどの領土を得
 ていた(南米の北岸の領土獲得)。
1668年、令:倹約令
  幕府は、厳しい倹約令を上下各階層に発した。
  この倹約令は、社会の全体層を対象とし、諸藩政へも
 強く反映させたりして、前後に比を見ぬほど厳しく、また、
 大名や諸役人への監察強化も厳しかった。
  そのうち、旗本・町人に対する条文において、
 「長押(なげし)、杉戸、付け書院、櫛形彫り物、組み
 物、床縁、桟、塗り、唐紙張付」を禁じている。
  この厳しさは、1666年に大老職へ就任した酒井忠清
 批判は向けられて行った。
1668年、長崎の輸入を制限する。銀輸出禁止令。
  インドは、可哀想な事にイギリスなどに国益が、富が
 好きなように持ち出され、吸われていた。
  日本も、一時は、日本の銀が世界の流通量の半分を占
 めるくらいに持ち出されていた。
  幕府も生糸に糸割符法を適用して、無制限な流出を締
 め、止めていたが、生糸価格操作などをされたりした。
  幕府は、1655年に、糸割符を廃止した。
  しかし、自由貿易に移行して行われたのだが、銀は大
 量に流出するという状態となった。
  幕府は、禁止していた金の輸出を、1664年に、許可し
 たりしたが、この金の流出も急増し、日本の輸出の半分
 が金という状態となった。
  幕府は、この年の1668年に、銀輸出禁止令を出し、輸
 出入の品目を制限した。
  日本は、ただ、しゃぶられるだけの国ではなかった。
  政府がしっかりと令を出し、国の叡智が、国益の維持・
 確保に頭を使っていた。
  節操なく、自分さえよければ良いのだと、無制限にし
 ゃぶり続けるヨーロッパの集団と対峙していた。
  可哀想なのはインド・インドネシアなどだった、
  巨利を得たいのだのイギリス・オランダ・フランスな
 どが暗躍していた。
  この後・1715年に、日本は、海舶互市新例(正徳長崎
 新令)を再び定めて貿易量を制限している(大幅な輸入
 超過で、金銀流出が過大だったため、国内流通量も減り、
 経済・景気を圧迫したからだった)。
  イギリスは、中国との貿易の時、イギリスの銀の支払
 いが過大になったので、中国へアヘンと言う麻薬を売り
 込んだ。
  そして、銀の支払いを押さえた。
  この様な卑劣な汚いことをした。
  アヘン戦争となった。
1668年、教育:足利学校
  足利学校大成殿が造営され、日本最古の孔子廟となっ
 ている。
  中国の明代の聖廟を模したものと伝えられている。
1668年、教育:郷学閑谷学校(しずたにがっこう)
  岡山藩主・池田光政が、郷学閑谷学校を開設した。
  郷学(ごうがく)とは、教育機関の一つで、藩校に準
 じた藩士の子弟を対象としたものと、庶民を対象とした
 ものとの2種があった。
  庶民まで分け隔てなく、教育に心配りした日本の教育
 だった。
1668年、経済政策:寛永通宝
  寛永通宝が、以前より大量に鋳造され、流通させた。
  この事によって、銭貨の流通は平静円滑になった。
  経済の回転、景気の回復。
1668年、諸国の特産物・津留および枡を調査する。
  津留(つどめ)は、領主が自領内の港・関所での物資
 の移出入を禁止または制限したこと。
  港で行ったのでこの名がある。
1668年、検地:この年前後、関東幕領の総検地を行なう(
 寛文の総検地)
1668年、江戸大火のその後
  大火のための復興費用と、幕領の金銀の採掘量が減少
 した事が相まって、幕府の財政の窮乏は深刻化した。
1668年、農業:綿花栽培
  近畿・東海地方で、綿花の栽培が隆盛に向かい、灯火
 (とうか)用の油では綿実油と菜種油との競争が激化し
 た。
1668年、農業:金肥(きんぴ/かねごえ、購入肥料)
  金肥として油粕・干鰯の使用も盛んになる。
1668年、処罰:殉死したので減封
  宇都宮城主の奥平忠昌が没し、家臣の杉浦右衛門兵衛
 が禁制を破り殉死した。
  そのため、幕府は、忠昌の子の昌能を2万石減封の上、
 山形に移封し、また、杉浦の2子を斬罪に処した。
  これ以後、殉死の風習は激減した。
1668年、処罰:苛政なので改易
  政治に熱心でない島原城主の高力高長(こうりきたか
 なが)が、領民の訴えで苛政を理由に改易された。
  その後、嫡男は下総国匝瑳郡(そうさぐん)を与え
 られ、家督を継ぎ、子孫は旗本として存続した。
1668年、第三次英蘭戦争へ続く事態が起きた。
  初め、フランスのオランダへの侵略の意図が明らかに
 なると、
  オランダの指導者ヨハン・デ・ウィットは、1668年に、
 英仏蘭の間で三国同盟(1668年)を結んだ。
  しかし、フランスのルイ14世は、オランダの妨害を根
 に持つと、絶世の美女ルイーズ・ケルアイユをイギリス
 のチャールズ2世へ与えて籠絡した。
  そして、イギリスを味方につけた。
  チャールズ2世は、フランスのルイ14世と「ドーバー
 密約」を結んだ。
  するとこの密約がばれ、発覚し、三国同盟が破綻した。
  すると、1672年に、フランスとスウェーデンの軍事同
 盟(仏瑞同盟)が結ばれた。
  そして、その年1672年に、フランス軍はオランダに侵
 攻した。
  フランスは、オランダの国土の大部分を占領した。
  オランダ側は、堤防を決壊してオランダを水浸しにし
 た。
  この事によって、フランス軍によるアムステルダム
 領を防ぐことはできた。
  オランダは、オーストリアとスペインと同盟を結んで
 フランスを包囲した。
  フランス軍は撤退した。
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