(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年〜1673年)

題:(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年〜1673年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1672年3月、京都・大坂・堺の商人に金銀両替の制を敷いた。
  主として、金銀を取り扱う「本両替(ほんりょうがえ)」
 があった。
  資力の大きな両替商がなった。
  これに対し、銭(ぜに)両替があった。
1672年、令:長崎市法が制定された。
  長崎奉行によって制定された「貨物市法」が出来た。
1672年、繁盛する長崎貿易
  長崎貿易で相対売買を禁じられ、市法売買が命じられ
 た。
  特に、東南アジア各地からの、ジャンクと呼ばれた唐
 船の入港が急増する長崎貿易だった。
  また、朱印船の中心的な発着港としても栄えていた。
  代官の末次平蔵は、自ら朱印船貿易を営む大商人だっ
 た。
  幕府は、輸入品の価格を引き下げて、金銀の流出を防
 ぎたかった。そのため、
  この年の1672年に、市法(しほう)売買とよばれる貿
 易統制を行った。
  これは、オランダ・中国のもたらした品物を、五か所
 (長崎・京都・堺・大坂・江戸)の商人の目利き(めき
 き、鑑定人)が評価し、
  これに基づいて、長崎奉行所が、決定した価格を通知
 した上で取引を行うもの。
  利益が出たので、長崎の諸役人の給料にし、また、町
 にも配分した。
  この制度は長崎の町に多くの利益をもたらした。
1672年、物流:江戸・大坂をターミナルとする全国の年貢
 や特産物の流通が活発化した。
1672年頃、樽廻船就航
  この頃に、南海航路(大阪→江戸航路)に船足の早い
 樽廻船が就航した。
1672年、河村瑞賢が調査して、出羽〜江戸間の西廻り航路
 を整備・開発した。
1672年3月2日、事件:市ヶ谷浄瑠璃仇討
  宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の旧臣(宇都宮藩を脱藩
 した)奥平源八が、一族40人とともに、江戸市ヶ谷浄瑠
 璃坂の元藩士の奥平隼人邸を襲い、父の仇敵の隼人を殺
 害した。
  原因は、前藩主の法要での口論だった。
1672年〜1674年、第三次英蘭戦争
  イギリスのチャールズ2世は、1672年から1674年にかけ
 てのフランスの始めたオランダ侵略戦争に予定通り協力
 した。
  そして、局地戦の形で第三次英蘭戦争を開始した。
  海戦が多かった。
  イギリスは、オランダ海軍との海戦で敗北した。
 そのため、イギリスのオランダへの侵攻は不可能となっ
 た。
  フランスとの連携が出来なくなった。
  イギリス議会では、オランダがフランス側に付くと経
 済的にまずいという声が高まった。
  親仏路線撤回へと動いて行く。
  そして、2年後の1674年には、オランダと和睦した。
  イギリス王のジェームズ2世は娘・メアリーを、1677
 年に、オランダ王へ嫁がせ、同盟を結んだ。
  この三度のイギリスの無謀な戦争で、オランダは大打
 撃を受けた。
  1688年のイギリスに起きた名誉革命は、このオランダ
 から王を迎える事となる、が・・しかし・・
  この懲(こ)りない両国は・・第四次の英蘭戦争
 (1780年〜1784年)をする・・何が名誉なのか?
1673年2月、保科正之(ほしなまさゆき)が没した(1611年
 〜1673年)、
  熱烈なる朱子学の徒であった。
  これによる政治を行った。
1673年、隠元いんげん、明から渡来した僧)が没する。
  (1592年〜1673年)黄檗宗の開祖。
1673年、演芸:歌舞伎を開く
  初代・市川團十郎が、江戸中村座で荒事を演じ好評を
 得る。
  荒事(あらごと)は、歌舞伎で、武士や鬼神などの荒
 々しさを誇張して演じることを言う。
1673年、経済:越後屋呉服店が創業した(三越)。
  伊勢松坂の三井高利が、江戸と京都に越後屋呉服店
 開き、後に、「現金掛値なし」の商法で繁盛した。
  また、幕府払方御納戸(おなんど)呉服御用達(ごよ
 うたし)を勤めた。両替店も兼営した。
  1691年に、大阪御金蔵銀御為替(おかねぐらぎんおか
 わせ)御用達の地位を得て、最大の御用商人となった。
1673年、阿部正能(あべまさよし、1627年〜1685年))が、
 老中となる。
  1652年に、阿部忠秋の養子となっている。
1673年、令:田畑分割が制限(分地制限令の公布)
  農民の分割相続を禁止する分地制限令が発布された。
  そして、田畑の分割が制限された。
  農地の零細化による貢租(こうそ、年貢)収入の減少
 を防ぐのが目的だった。
  この令が、この年に出されるまで、幕府の方針は、小
 農民経営の増大と維持にあった。そのため分割相続も公
 認してきた。
  この令によって、従来の農民政策の転換をした。
  また、この頃以降から、小農の田畑質入れによって、
 地主〜小作(質地小作)関係が広く成立して行った。
  そして、商品作物の生産が発展することによって、水
 飲み百姓の年季奉公に基礎を置く、大規模な「地主手作」
 経営が発達した。
  地主手作とは、貸付地を所有する者が、人を雇ってみ
 ずから耕作を行なう事。
1673年、文学:山鹿素行が「武家事記(ぶけじき)」を著
 (あらわ)した。
  歴史書武家故実書で読者層を武家に想定している。
  武家に必要な語句などの詳細な解説が記されている。
  故実(こじつ):昔の儀式・法制・作法などの決まり
 や習わし。先例となる事例。
1673年、文学:北村季吟(きぎん)が、「湖月抄(こげつ
 しょう)」を著した。源氏物語注釈書、
1673年、社会資本整備:椿海干拓(つばきうみかんたく)
  下総の椿海が干拓された。
  1661年〜1773年に、江戸の町人の白井次郎右衛門が、
 江戸幕府に出願した。
  しかし、代官の伊奈半十郎の検分を受けたが不許可に
 なった。
  (不許可理由は、砂地で水の供給が覚束ないだった。
  また、こちらに水を回すと、他の田が被害を受けるだ
 った、この判断は正しいと今現在でも言われている)
  白井は、幕府大工棟梁の辻内刑部左衛門と、再出願し、
 許可され、普請奉行の任命を経て工事が着手された。
  以上の話を、もう少し詳しくすると・・
  辻内棟梁は、京都二条城の工事で、幕府に功績を認め
 られる、幕府の信頼の深い人物だった。
  この人物が、干拓の話に乗り出してくれたのだった。
  辻内の人脈がモノを言った。
   幕府の中心の人たちが動いた。
  そういう動きの中で、再検分が行われた。
  この時には、幕府内では、開発しようという方針にな
 っていたようだった。
  故に、この検分も、干拓の可否ではなく、具体的に排
 水路をどの様に設けるかの、実施の可能性に対しての検
 分だった。
  幕府の偉い所は、上から目線ではなく、地元の農民の
 意見をよく聞いている所だった。
  水源の調整が、話し合われている。
  既存のすでにある農村が、用水で困らないかを打ち合
 わせている。
  当然、農家の方たちは、水さえ確保されれば反対理由
 はないと答えている。
  用水の確保さえ得られば、既存の農民の方々の反対は
 ないとみた幕府は、排水計画の具体的測量に入った。
  しかし、ここで、この排水によって、田畑が潰される
 ことを知った農村の方々は反対し始めた。
  「農家260軒、1550石の本田が失われる」と訴えた。
  幕府の調査団の団長の妻木彦左衛門頼能は、計画を変
 更した。
  これが、現在の三河堀の排水路線となっている。
  話しは丸くおさまり、椿海干拓は正式に決定された。
1673年、出版の認可制
  この年には、軍書・歌書・暦・噂事・人之善悪・好色
 本を対象に、珍しいことを新板に印刷するときには、町
 奉行の指示を受けよ・・という令が出た。
  書籍出版が、社会的にかなり影響力を持つ存在となっ
 て来た事を物語っていた。
1673年、イギリス船が通商の復活を求めた。
  インドでうまい汁を吸うからいいやと言って、日本は
 遠い国である上に、利益の効率の低い日本との交易を止
 めて、去って行ったイギリスが、この年に来て通商を求
 めたが、幕府に拒絶された。
1673年、この、イギリス船が、追い払われたこと・・、
  イギリス船のリターン号が、長崎港に現れて、そして、
 追い払われたのは、
  日本が、通商をオランダに限っていたからではなく、
 イギリス王チャールズ2世が、ポルトガル女王と結婚し、
 日本がイギリスを恐るべきカトリックの協力者と見て、
 また、敵性国とみなした事が、主な原因だった。
  キリスト教に、日本を自分の領土にしたいという意思
 があることを知っていた(イギリス人のウィリアム・ア
 ダムスなどからも聞いたりして、すべてを知っている幕
 府だった)。
  同じ頃、日本は、タイ国王の申し出に応えて、40年間、
 絶えていた関係を再開しているから、日本の外交が、外
 の世界を、一切、拒否し、接触を絶とうとしていたとい
 う証拠にはならない。
  それどころではなく、徳川幕府は、17世紀から18世紀
 にかけて、朝鮮の李王朝と琉球王朝とを手なずけ、東ア
 ジアに日本中心の外交秩序を作ろうとしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/