(増補版)124D1/3:気になった事柄を集めた年表(1664年〜1666年)

題:(増補版)124D1/3:気になった事柄を集めた年表(1664年〜1666年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1665年7月、諸寺社法を制定する。
  日蓮宗不受不施派が弾圧を受けた。
  地下組織化の道をとった。
  内信といって外見上他宗他派を装う信徒も出た。
  明治政府によって禁制が解かれるまで続いた。
1665年、教育:山崎闇斎(やまざきあんさい、儒学者)が、
 会津藩主の保科正之の侍講となった。
1665年、旗本の困窮事情を調査し、番方の諸士に対して勤
 務手当を支給した。
1665年、制度:幕府に出していた人質を止めた(証人制廃
 止)。
  保科正之の提言によって、諸大名が幕府に出していた
 証人(人質)を停止した。
  幕藩体制も安定し、下剋上の世の中から転換していた。
1665年、日用座(ひようざ):江戸に日用座が置かれた。
  江戸市中の日傭(日雇、日用)人を管理するために設
 けた機関。
  世の中が譜代奉公から、口入屋(くちいれや)、桂庵
 (けいあん)、日用座(ひようざ)を通じて雇用される
 百姓や町人による給金を目的とした一季(いっき)、半
 季の出替(でがわり)奉公や月雇(つきやとい)、日雇
 へと移りかわって行った。
  最初、幕府は、軍役の確保のため譜代奉公につとめた
 のだった。
1665年、人事:水戸藩主の徳川光圀が、朱舜水を水戸に招
 聘した。
  朱舜水(しゅしゅんすい)は、明朝再興の運動に参加
 し、日本の支援を得るため、また、軍資金を得るため日
 本にも来た。
  また、南明政権の魯王を支援し、また、台湾の鄭成功
 も支援した。
  1659年7月の南京攻略戦にも参加した。
  しかし、復明が叶わないと、1659年に、日本へ亡命し
 た。
  筑後儒者に援助されたりしていたが、この時に、
 水戸藩から招聘を受けた。
  水戸学への思想的影響を与え、大日本史の編纂にも参
 加した。
  山鹿素行らの学者とも交友した。
1665年、出版:浅井了意(あさいりょうい、仮名草子作者)
  浅井了意著の「京雀」刊行。
  これは地誌(自然・地形・気候・人口・交通・産業・
 歴史など様々な諸要素を記す)。
  著作が多い人、また、経歴の不明点が多い人(武士か
 ら僧侶になった)、仏書の注釈も多い、
1665年、出版:山鹿素行(やまがそこう、儒学者兵学者)
  官学の朱子学の抽象性を批判して、古学を唱える山鹿
 素行の「聖教要録」がなった。
  江戸に出て儒学兵学神道・仏教・歌学などを修め、
 古学(論語孟子などの経書の本文を直接に研究してそ
 の真意を解明しようとするもの)を提唱した。
1665年、流通:津軽藩が、初めて江戸に年貢米を廻送した。
1665年、ロンドンで気象観測開始。
1665年〜1667年、第二次英蘭戦争
  イギリスが、北米のオランダ植民地・ニューアムステ
 ルダムを占領したことが発端となって始まった。
  フランスが、1666年に、オランダと同盟を結んで宣戦
 布告した。
  この戦争が始まると、イギリスではペストが流行した
 り、ロンドン大火になったりして財政難に陥った。
  イギリスには、厭戦気分が漂った。
  イギリスは敗北していたが、フランスが南ネーデルラ
 ンド(現在のベルギー・ルクセンブルグ)に侵攻すると、
 オランダとの同盟関係が怪しくなった。
  オランダが、イギリスと協力するという方針転換が起
 きた。
  1667年7月にブレダの和約が結ばれ、戦争は終結した。
  フランスとも和睦した。
  オランダは、現在のニューヨーク州の北米植民地をイ
 ギリスへ割譲した。
  しかし、まだ、懲りない面々は・・?・・第三次の戦
 争へ・・
1666年、酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、陶芸家)
 が没した(初代の柿右衛門、71歳)、
  肥前国佐賀県)有田の陶芸家、代々、この名は、世
 襲され、極めて高い技量も引き継がれて行った。
  乳白色の地肌に、赤色系の上絵を焼き付ける卓抜たる
 柿右衛門様式を確立し、世界へ衝撃的影響を与えた。 
  その作品は、ヨーロッパへも輸出され、マイセン窯で
 模倣品が作られるほどの影響を与え、
  また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯へも影響を
 与えた(景徳鎮伊万里)、似た作品が作られヨーロッパ
 へ輸出されたほどだった。技術の日本だった。
1666年7月、徳川光圀が、由緒正しい寺院を支援し、保護す
 る趣旨から古刹や廃寺を修復したりした。また、新寺は
 壊した。
  神社についても同じく、修造を助けたりし、神主を京
 へ派遣して、神道を学ばせたりした。
1666年、経済政策:座・占売りを禁止する。
  業種など諸商品の座・占売りを禁止した。
1666年、経済政策:綿仲間が成立した。
  大阪三郷綿仲間が成立した。
1666年、1万石以下の従者数を削減する。
1666年、役料制を実施する(1665年〜1666年)
  幕府が、役付きの者へ、その役職に対する手当てとし
 て支給した。
  蔵米で与えられた。
  初めは、武士の勤役は、領知、知行を給付されている
 ことに対する義務として行われるべきもので、特別な手
 当てを給されることはなかったが、
  困窮する者が少なくなかったため、役職に応じて一定
 の役料が支給されることになった。
1666年2月、治山治水:畿内と近国諸代官に水源と川筋の
 保護を命じた(諸国山川掟、しょこくさんせんおきて)。
1666年、令:草木乱伐・川筋新田・新規の焼畑禁止(諸国
 山川掟)
  幕府は、今・現代でも通じる法令を出した(諸国山川
 掟)である。
  賢明なる幕府の家臣は、森林の乱開発に心を痛めてい
 た。
  また、それが、土砂の流出の原因になっている事、災
 害の源になっている事を見抜いていた。
  山の上流の、木立が無き所には苗木を植えよと、
  もって土砂流出を防げと。
  また、土砂の流出によって災害に会いやすい所には、
 新田や田畑の耕作はするな・・と禁じた。
  幕府が、諸国山川掟を定め、草木乱伐・川筋新田・新
 規の焼畑を禁止した。
  この賢明なる法令を作ったのは、老中の久世広之、稲
 葉正則、阿部忠秋酒井忠清の連名で発せられた。
1666年3月、酒井忠清が、大老となった。
  酒井忠清阿部忠秋が老中を辞し、忠清は大老となる。
1666年、令:酒造制限令が出された(以後も出される)
  1642年に、寛永飢饉の対策の一環として、まず幕府領
 の農村に酒造制限令が出され、次いで全国の在方・町方
 に出されたのが始めとして、以後、幕末までに約60回
 発せられた。
1666年、出版:オランダ風説書(現存で邦文最古のもの)
 の初め。
  幕府が、海外情報収集のため、オランダ商館長に提出
 させた。
  幕府は、オランダ船が出島に来るたびに世界情勢の情
 報提供をさせた。アンテナをピンと張っていた。
  また、通詞が入港した船に出向いて聞き書きもした。
  オランダ人は、幕府が他の情報を持っていて、その情
 報と比較していることを知っていたので、かなり正確な
 情報を提供していた、また、そうせざるを得なかった。
  幕府の官吏がしっかりしているのに馬鹿にした書き方
 をしている情報があるから注意を要する。
  幕府の官吏は、同時に、オランダが、スペインやポル
 トガルと同様な領土的野心を持ったり、
  その様な野心を持つスペインやポルトガルと同盟した
 りしていないかなどの面もチェックしていた。
1666年、処罰:山鹿素行(やまがそこう)が罰せられた。
  幼少時に江戸に出て、林羅山に学んだ山鹿素行だった
 が、幕府は、この年に、山鹿素行を赤穂に配流した。
  山鹿素行の「聖教要録」が、幕府の朱子学批判にある
 ために、播州赤穂に幽閉した。
  後、許されて江戸に帰った。
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