(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年〜1642年)

題:(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年〜1642年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1642年、関孝和(せきたかかず)が生まれた(1642年頃〜
 1708年)和算家(数学者)、
  経歴の不明部分の多い人、
  上野国群馬県)の生まれ、徳川家宣が6代将軍になる
 と直参として江戸詰めとなる。
  素晴らしい所は、和算が中国の模倣から超えて、独自
 の西洋を越えるほどの発展をした点。
  世界で最も早い時期に、行列式終結式の概念を明示
 した。
  また、世界より200年も早く、円周率の高い近似値を求
 めていた。
  また、驚異的な事は、ベルヌーイ数は関孝和の発見で
 あり、数学史を塗り替える業績である。
  その他にも、広い素晴らしい業績が多くある。
1642年、井原西鶴(いはらさいかく)が生まれた(1642年〜
 1693年)大坂の浮世草子人形浄瑠璃作者、
  代表作:「好色一代男」「好色一代女」「日本永代蔵」
 「世間胸算用
1642年、倹約令を発した。
  絹を用いる事が禁止され、木綿を用いる様にした。
1642年、譜代大名の江戸在勤の制を定めた。
  譜代大名70人の江戸の在勤期間を定めた。
1642年、諸国が飢饉となった(寛永の大飢饉)。
  全国的な異常気象により大飢饉となった(大雨、洪水、
 旱魃、霜、虫害)。
  また、蝦夷駒ヶ岳が噴火し、降灰により、陸奥国津軽
 地方が凶作になった、
  また、初夏に畿内、中国、四国地方が日照りによって
 旱魃となった、
  そして、秋には大雨、北陸では長雨、冷風などがあり、
 全国的な異常気象となった。
  百姓の逃散や身売など頻発した。
  家光は、諸大名へ領地へ帰国し、領地の飢饉対策をす
 る様に指示した。
  また、諸国へ対し、倹約のほか、煙草作付けを禁止し
 て米作を奨励した、
  また、身売り禁止、酒造統制、雑穀を用いる製造を禁
 止した。
  また、救民のための「御救小屋」を設置した。
  また、諸国へ米の常食を禁止して、うどん・そば・饅
 頭の商売を禁止した。
  飢饉は、1642年〜1643年に最も甚だしい状態に達した。
1642年、農業政策、
  幕府農政が、小農の保護・育成に転換した、
  小家族労働力による集約経営への農村の変貌始まる。
1642年、諸大名へ農民の救済を命じた。
1642年、旗本に知行地の農民の救済を命じた。
1642年、郷村諸法度を公布し、農民に各種の制限を加えた。
  倹約の意味があるが、飢饉対策でもあった。衣類への
 制限、酒・たばこの禁止など
1642年、参勤交代制に改正を加えた。
  譜代大名の交代期は6月に、
  特に、関東の譜代大名は、在府・在国半年に、8月ない
 し2月交代となった。
  他に、対馬の宗(そう)氏は、三年一勤(4か月在府)に、
  水戸藩や老中などの役付大名は、江戸定府(じょうふ)
 となった。
1642年、倉敷が江戸幕府の直轄地「天領」になった。
1642年、番士(ばんし、京都などの警護をする兵)の家督
 を定めた。
1642年、勘定奉行が、制度として成立した。
1642年、伊奈忠次に関東諸代官の支配を命じた。
  幕府は、伊奈忠治に対して関東代官の統轄と、河川の
 改修、築堤の専管を命じた。
  これによって関東郡代が事実上成立した。
1642年、イギリス
  ピューリタン革命(1642年〜1649年、1640年〜1660年
 とする説もあり)と、名誉革命(1688年〜1689年)の二
 つの革命が、この時期に、イギリスにあった。
  シュチュアート朝君主の圧政に対して、議会勢力が抵
 抗し、国王を処刑し、共和制を確立した(ピューリタン
 革命)、
  クロムウェルの議会軍が、ピューリタンを中心勢力と
 したのでその名があるが、
  保守的な長老派と、急進的な水平派などを弾圧し、
  1649年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 どした、
  新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
  しかし、クロムウェルの厳格な政治は不評判であり、
  1660年に、王政復古となるが、
  フランス亡命から戻った新王が、再び、反動政治を行
 ったため(キリスト教カトリックの復活政策と議会無視
 をした)
  やり方は、さも、正義な様なことを言った、「信仰の
 自由」である、
  そして、この「信仰の自由の宣言」で、実は、カトリ
 ックを復活させようとした(王と教会の戦い)、
  トーリー、ホイッグ両党は協力して、ジェームス2世王
 を廃位にした。結果的に、王は国外へ逃れる。
  王の娘・メアリとその夫・オランダ統領オレンジ公ウ
 ィリアム(キリスト教プロテスタント)を王に迎える。
  (ウィリアムは、1万3000の兵と共に、イギリスに上
 陸した、そして、ロンドンを目指して進軍した、
  イギリス北部には、これに呼応して反乱が起こった、
  そして、貴族が兵と共にはせ参じたり、
  寝返る貴族も現れたり・・の、混乱が起きた。
  ウィリアムがロンドンに入った直後、王は、フランス
 へ逃れた。
  あまりにも支持される様な政治をしていないため、
  臣下や民心の心が離れていたため、
  大きな争いも起きなかった。
  これが無血に近い状態で終わった理由だった)。
  流血をあまり見なかったので、名誉革命と言われてい
 る。
  しかし、議会は、彼ら新王の即位の条件として、権利
 宣言(後に、権利章典)の受諾を求めた、
  新しい王はこれを認め、ここに議会主義の確立を見た。
1642年12月、ニュージーランド発見。
  ヨーロッパ人が、ヨーロッパ人として、初めてこの島
 を発見した。
  以後、この島の歴史には、「ヨーロッパ人の考え方・
 行為が、それのみが正義だ」としての話が展開する。
  今・現在でも、この考え方が、世界中を荒らしまわっ
 ているが・・。
  オランダ人のアベル・タスマンは、二隻の船でこの島
 へやって来た。
  この島には、既に、先住の方たち、『先住民』のマオ
 リの方たちが居た。
  マオリの方たちは、このオランダ人より、遠の昔の「
 800年以上も以前の昔」に、9世紀の頃から、この島に移
 り住んで生活し、幸福に暮らしていた。
  この後、このキリスト教徒のヨーロッパ人は、この主
 権を無視する、牛耳る歴史を刻む。
  このオランダ人は、この時、この先住の方たちと戦い、
 そして、殺戮し、去った。
  マオリの方々は、9世紀頃こそ採集生活をしていたが、
 国を持つ立派な社会だった。
  そして、プライドを持って戦う政府を持っていた。
  そしてまた、立派な国名を持っていた。
  その国名を「アオテアロア」と言った。
  翌年の1643年には、オランダ東インド会社の総督のヘ
 ンドリック・ブラウエルが来た。
  彼は、ラテン語の「新しい海の土地」という意味、英
 語のニュージーランドに当たる名を付けた。
  それから126年の時が流れた、
  1769年になると、イギリス人のジェームズ・クック
 来た。
  彼は、「ニュージーランド」と呼んだ。(あなたにと
 ってだけが「ニュー」なのだ)。
  彼は、島全体と周辺の調査をし、捕鯨遠征をはじめさ
 せた(あなただって捕鯨やっているでしょう)。
  それからこの島へ、イギリスはじめヨーロッパ各地か
 らのヨーロッパ人の流入が始まった。
  1830年に、ロンドンに、植民地会社が組織されるに及
 び、ヨーロッパ人の流入はさらに増加した。
  これを、ヨーロッパ人は、移民と称した。
  相手の国の承認のない勝手な流入である。
  「侵入・侵略」と言える行為である。
  当然、マオリの先住の方々との間で争いが絶えない状
 態が続くことになった。当然のことだ。
  進んだ武器を持たないマリオの方々は、多くの方々が
 亡くなった。良く戦ったと思う。
  侵入者・侵略者とマリオの先に住んでいた方々との戦
 いである。
  当然、正義はマリオの方々の方にある。
  1840年に、イギリスは、争いを止めたい意味もあり、
 先住民のマオリの方々と条約を結んだ(ワイタンギ条約)。
  その条約の内容は、
  「すべてのマリオ人は、イギリス女王の臣民となり、
 ニュージーランドの主権を王権に譲る」
  「マリオ人の土地の保有権は保証するが、その土地の
 売却先はすべてイギリス政府にする、その他の売却は出
 来ない」
  「マリオ人はイギリス国民としての権利を認める」だ
 った。
  「ていの良い乗っ取り」だった。
  そして、イギリスの植民地とした。
  マリオの方々に、当然、与えられるべき「主権」と言
 う語が無く、そこに問題が発生した。
  この問題は、今・現在でもこの問題が存在している。
  マリオの方々は、「すべての土地は自分たちのもの」
 と考えている、当然だ。
  条約締結の後、3年後の1843年から、30年間も続くマリ
 オの方々の反乱が起こった。
  遅れた武器で良く戦ったと思う。
  弱い者いじめの反乱は武力によって鎮圧された。
  しかし、根本的問題の解決はしてない。
  その問題を放棄し、無視し、100年以上に渡ってそのま
 まにした。
  やっと、1975年に至り、審議が開始され、強奪した土
 地の一部を返還した、
  そして、マリオ語も公用語にした。
  それまでは英語だけだった。
  マリオの方々の主権を認めていなかった。
  もし、あなたの家へ、見ず知らずの人がどんどん入っ
 て来たら、あなたはどうしますか?
  そして、あなたに言います、あなたは私の女王の臣民
 になれと、権利をその女王へ譲れと。
  基本的に、たとえ無人島であっても、良く権利関係を
 確かめなくては、勝手に侵入・侵略してはいけないでし
 ょう。
  家宅侵入罪になります。国際法でもそうです。
  酷いことをしておいて、「悪くはなかった」と、こじ
 つける行為は糾弾されなくてはいけません。
  この様な行為を、キリスト教徒は世界のあちこちでや
 っている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/