(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年〜1566年)

 題:(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年〜1566年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1563年、織田信長今川義元を倒し、家康と結び、東を顧
 慮することなくひたすら西へ進めるようになった。
  この年・1563年に、小牧山に要害を築いて東美濃攻撃
 の根拠とした。
1563年3月、信長の娘と家康の子・信康の婚約が結ばれた。
  戦国時代には珍しく、最後まで変わる事が無かった織
 田と徳川の同盟が成立した。
  この時、協定したと思われることが、信長は、美濃・
 伊勢へと西へ出ること、そして、家康は、遠江駿河
 東を目指すことだった。
  これはずっと守り続けられた。
1563年7月、信長が、小牧に要害を構えた。
1563年7月、信長が美濃への進出を計った。
1563年7月、信長が、居城を小牧山に移した。
  美濃への前身拠点とするため、居城をそれまでの清州
 から小牧山へ移した。
  信長の覚悟のほどがうかがわれる。
1564年、三浦按針=ウィリアム・アダムスが生まれた。
 (1564年〜1620年)イギリス人航海士・水先案内人・貿
 易家。
  乗っていたリーフデ号とともに、1600年4月に、豊後
 に漂着した。
  取り調べ中、キリスト教宣教師たちが来て、即刻、処
 刑するように要求した。
  5月になって、家康が、ウィリアム・アダムスと、ヤ
 ン・ヨーステンに引見した。
  彼等は、ポルトガルとスペインのキリスト教のカトリ
 ック国と、イギリス・オランダのプロテスタント国の戦
 争や紛糾を臆せず話した。
  家康は、彼らを気に入って誤解を解いた。
  そして、執拗に処刑を要求するキリスト教宣教師らを
 黙殺した。
  そして、後に、家康は、彼らを江戸に招いた。
1564年、信長が、ほぼ尾張を統一した。
  信長が、木曽川を隔てて美濃に対する犬山城を捕り、
 ほぼ尾張を統一した。
  犬山城織田信賢(前・岩倉城主)を降ろし、丹羽長
 秀(織田の家臣)を入れて尾張統一を完成した。
1564年、秀吉が、蜂須賀小六と出会う。
  この年に、秀吉が、斎藤方の武将の誘降に成果を上げ
 たことは、蜂須賀小六と出会ったこととつながりがある
 と考えられる。
  秀吉は、放浪時代こうした濃尾国境付近の土豪と何ら
 かのつながりを持っていたであろう。
  そして、その旧知の間柄の蜂須賀小六らに美濃土豪
 の橋渡しを依頼し、それが功を奏したと考えられる。
1564年2月、竹中半兵衛重治が、稲葉山城を奪取した。
  美濃・稲葉山城において一つの騒動が持ち上がった。
  斎藤龍興の家臣で菩提山城主だった竹中半兵衛重治が、
 稲葉山城を奪取した。しかし、すぐに城を返している。
1564年3月、信長が、浅井長政と結んだ。
  信長は、近江の浅井長政と結んで、妹のお市と結婚さ
 せた。
1564年8月、信長が、東美濃に進出した。
  この時、斎藤方の内紛に乗じ、信長は秀吉に命じ、斎
 藤方の武将で美濃・松倉城の(岐阜県川島町)の坪内利
 定を寝返らせることに成功している。
  さらに、秀吉は、この坪内利定を東美濃侵入のための
 案内役とし、斎藤方の諸将の誘降を計った。
  秀吉の大活躍により、鵜沼城・猿啄城・兼山城・関城
 などが信長方となり、信長勢による美濃攻略の足場が確
 保された。
1564年9月、信長が、皇室領の回復の勅命を受けた。
  立入宗継(朝廷の倉を預かる御倉の家)が尾張に下っ
 た時に、信長へ、皇室領の回復について、天皇の意思が
 伝えられた。
  これは、織田信長の西上の志を刺激した。
1564年、ミケランジェロが死んだ(1475年〜1564年)
  ミケランジェロの死後、
  彼が描いた「最後の審判」のキリストとマリアの裸体
 の描写について、キリスト教の高い位の聖職者(枢機卿
 が、削除せよのクレームがつけた。
  それによって、修正画家の手によって、局部を隠す修
 正の作業が行われた。
1565年5月、将軍・義輝が殺された。
  三好義継と松永久秀が、将軍・義輝を殺した。
  その弟で、当時、興福寺一乗院にいた覚慶(還俗して
 義秋、次いで義昭と改名)は、近江甲賀土豪・和田惟
 政(これまさ)のもとに逃れた。
  彼が、亡命先から大名たちに争いを止めて将軍家復興
 に協力するように呼び掛けている様は、まるで将軍の様
 であった。
1565年11月3日、信長の知行安堵状。
  信長は、坪内利定らに知行安堵状を出した。
  この時、副状が出され、差出人が秀吉になっていた。
  これは、織田家中において、秀吉が、足軽大将でなく、
 その存在が認めれれている地位にいたことを示す。
1565年11月、織田信長が、武田信玄と結ぶ。
  信長は、信玄と結んで、信長の養女をその子・勝頼に
 嫁せした。
1565年、フィリピン:スペイン人のレガスピが、1565年に、
 マニラを占領した。
  スペインのキリスト教略奪者は、奪った土地に「イエ
 スの最も聖なる御名の村」と名付けたりした。
  同盟を結ぶふりをしてだましたりの卑劣な行為もし、
 そして、戦いが起これば重装備のキリスト教徒軍の勝ち
 は目に見えていた。
  奥地へフィリピンの方たちを追い、支配に応じないも
 のを拷問したり、処刑したりした。
  そして、税を取立てた(黄金を奪った)。
  マニラは陥落し、以後、スペインの植民地となる(ス
 ペイン人のフィリピン征服)。
1566年4月、朝廷が、義昭を左馬頭に任じ、従五位下に叙
 した。
  さすがの松永久秀もそれは何ともならなかった。
1566年8月、信長が、足利義昭から幕府回復の命を受ける。
1566年8月、信長が、義昭から出兵を求められると、いよ
 いよ斎藤を目の上の瘤と感じ、
  斎藤竜興(義竜の子)は竜興で、信長との和解を命じ
 られたが、信長の出兵を指をくわえてみている訳がなく、
  信長は、すぐ美濃に攻め込んだが、風雨や洪水に悩ま
 され、竜興に反撃されて敗退した。
1566年9月、秀吉が、墨俣城を築く。
  信長が、この時、美濃の墨俣に砦を構えた。
  秀吉は、美濃の斎藤竜興を攻めるため、長良川の西岸
 に一夜城として有名な墨俣城を築き、信長の信頼を得た。
  美濃の足場を得た信長は、次に打った手は墨俣に砦を
 作ることだった。
  この地は、木曽川長良川揖斐川(いびがわ)の3本
 の川が接近した低湿地で、斎藤方の妨害もあり、築城は
 困難を極めた。
  はじめ、老臣の佐久間信盛が命じられ、ある程度、完
 成したところを壊され、2番手の柴田勝家も同様に失敗し
 た。
  家臣たちは怖気(おじけ)づき、この後に、この大役
 を買って出るものがいなかった。
  秀吉は、この大役を買って出て、蜂須賀小六ら濃尾国
 境付近の土豪など1000人余を集める事に成功し、組頭を
 定め、櫓・塀などの用材を筏(いかだ)に組んで木曽川
 を通して運び込み、また、現場では築城の関わる人数と、
 斎藤方の攻撃を防ぐ人数に手分けし、分担協業の方式で
 工事を急がせ、見事に完成させた。
  秀吉が、1566年9月に、墨俣に城を築いた。
  7月5日から8月20日の47日間を要したと言われ、長屋
 が10棟・櫓10棟・塀2000間という規模だった。
  しかし、この墨俣城築城は『絵本太閤記』の著者の竹
 内確斎の創作と思われる。
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