(増補版)87C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年6月〜1583年5月)

題:(増補版)87C2/3:気になった事柄を集めた年表(1582年6月〜1583年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1582年6月27日、清州会議(本能寺の変から25日後)
  お市たちの生活の場である清州城で、緊張感みなぎる
 中で会議は開かれた。
  会議に集まったのは、柴田勝家丹羽長秀池田恒興
 秀吉だった。
  滝川一益は、この会議の少し前の神流川(かんながわ)
 の戦いで敗れているので外されたらしい。
  参加者で一番下の秀吉だった。
  秀吉嫌いのお市の方は、信長の跡目は、次男の信雄か、
 三男の信孝が継ぐだろうと思っていた。(長男・信忠は
 本能寺の変で戦死)
  四男の秀勝は、秀吉の養子で、15歳になっていた。
  誰もがが、秀吉が、この秀勝を推してくると予想して
 いた。
  しかし、秀吉は、養子として織田家を出た人間(秀勝)
 には織田家を相続する資格はないと言った。
  皆の予想に反した秀吉の発言に、意表を突かれた。
  更に秀吉は言った、だから故に、信雄も、信孝も、後
 継者として認められないとした。
  信雄は北畠を継ぎ、信孝は伊勢神戸(かんべ)氏を継
 いでいる。
  そして、秀吉は、信長の嫡子・信忠の子・三法師が適
 任だとした。
  信雄と信孝は、母が違っても25歳、三法師は3歳だった。
  柴田勝家は、信孝の優れた資質を買って推していた。
  だが、会議は、秀吉に押し切られる形で三法師が後継
 者となった。
  この様にして、秀吉が、柴田勝家丹羽長秀らの宿老
 を押しのけてトップに躍り出た会議だった。
  因みに、三法師は、3歳、後の織田秀信、信長の長男・
 信忠の嫡男、最後は高野山で仏教に従事するが、下山療
 養したが亡くなる、享年26歳。
  信長の次男・信雄に伊勢と尾張を与え、父祖の地と言
 うべき尾張を貰ったという事で、信雄は満足した。
  信長の三男・信孝には、美濃が与えられ、信長の天下
 布武の根拠地となっていた岐阜城主になったことで、信
 孝も不承不承で承知した。
  信長の四男で秀吉の養子の秀勝は、明智の旧領である
 丹波国を相続した。
  勝家には、越前八郡の旧領に、秀吉の旧領・北近江3郡
 を加えて与えられた。長浜は勝家の希望だった。
  丹波長秀は、若狭の国を安堵の上で、近江国の2郡を加
 増され、
  池田恒興は、摂津の国から3郡を加増された。
  新当主である三法師には近江国坂田郡安土城を相続
 し、
  秀吉には、光秀の領国だった丹波山城国が新たに与
 えられ、秀吉の長浜は勝家に譲られ、それに代わる城を
 山城山崎を築く事になった。
  また、秀吉は、政治の中心の京都を得ている。
  この会議の後、お市の再婚話が、お市のところへ訪れ
 た信孝によって持ち出された。
  この時、勝家61歳、お市36歳、そして、結婚となる。
  「村井重頼覚書」には、信孝の再婚を勧める話が事前
 に同意されており、清州会議で正式に決定したとされて
 いる。
  そして、お市は信孝の居城である岐阜城に移動し、信
 孝の立会いの下で、お市と勝家の婚礼が執り行われたと
 いう。
  「細川忠興軍功記」には、1582年10月には、お市と三
 人の子供は、越前の北ノ庄へ向かったと記されている。
1582年7月3日、信孝が、本能寺の焼け跡で収集した多くの
 遺骨や信長の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定
 めている。
1582年9月11日、お市の方を喪主として、信長の百日忌が、
 妙心寺で、勝家と共に営まれた。
  葬儀が無くて、百日忌である。
1582年9月12日、秀吉が、養子としていた信長の四男・秀勝
 を立て、大徳寺で百日忌を行ったという。
  お市たちと一緒ではない。
1582年10月8日、秀吉の要請により、信長に従一位太政大臣
 が追贈された。
1582年10月頃、勝家は、滝川一益織田信孝と共に、秀吉
 に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。
1582年10月15日、信長の葬儀
  本能寺の変から4か月が経てなされている。
  葬儀は、大徳寺で、この月の上旬から17日まで行われ
 た法要の中の一環だった。
  信長の葬儀は、秀吉が信長からもらった養子(信長の
 四男)の於次秀勝が喪主となった。
  しかし、実際、喪主としてのふるまいは秀吉だった。
  この葬儀にお市の方とその子供たちは参加していない。
  また、信長の次男の北畠信雄や、三男・信孝、そして、
 柴田勝家も参加していない。
  清州会議からこの4か月で、この様な状況が生まれてい
 た。
1582年10月20日堀秀政宛ての秀吉の書状の宛名に、羽柴
 の名字が使用されており、堀秀政に羽柴の名字を与えた
 ことを示している。
  この事により、秀吉が、信長の家臣に、この様な事に
 よって、自分の陣営に取り込みを行っている事が分かる。
1582年、天正遣欧使節が長崎から出発した。
  ポルトガルリスボンに、1584年に、到着した。
  そして、この「天正少年遣欧使節」は・・、大友宗麟
 大村純忠有馬晴信らの九州キリシタン大名が派遣した
 と言われているが違う。
  これは、キリスト教宣教師ヴァリニャーノが、インド
 に帰るにあたり、船が長崎を出帆する直前に、立案した
 もの。
  だから、大友宗麟使節と言われる「伊東マンショ
 は、まったく関係してない。造り上げられた話。
  そしてまた、大友宗麟が、ローマに届けたと言われて
 いる書状は、書いてもいないし、勿論、届けられてもい
 ない。これも、作り上げられた話。
  NHKや放送大学は、キリスト教に偏していて、嘘の
 放送をしている。
1583年、大阪城の築城
  この年に、羽柴秀吉が、石山本願寺跡地に大阪城築城
 に取り掛かっている。
  大阪城天守がそびえているが、天守が作られたのは、
 織田信長安土城が初めてだった。
  秀吉は、信長の後継者と自認していたが、城造りも信
 長の安土城をモデルとしたが、すべての面でそれを凌駕
 する事を目指した。
  秀吉の大阪城は、本丸の築造に約1年半を費やし、その
 後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、徐々に難攻
 不落の巨城へと造り上げて行った。
  堀や石垣が、二重三重に、複雑かつ立体的に、防御的
 に取り囲んで城造りがなされて行った。
  また、同時に、町づくりも行われた。
1583年1月、反秀吉派の滝川一益が、秀吉方の伊勢峰城を守
 る岡本良勝や、関城や伊勢亀山城を守る関守信らを攻め
 た。そして、破っている。
1583年2月10日、秀吉が、1月の滝川一益の行動に対し、北
 伊勢に侵攻した。
  秀吉軍は、手こずったが3月に降伏させている。
1583年2月28日、勝家軍の前田年長が出陣した。
  3月9日には、勝家が自ら3万の大軍を率いて出陣した。
1583年3月11日、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
  秀吉軍が、北伊勢は蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3
 月11日のこの日に、柴田軍と対峙した。
1583年4月13日、秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路
 正国が勝家方へ寝返った。
  初めは勝家方が優勢であった。
1583年4月20日、早朝に、勝家の重臣・佐久間守政が、秀吉
 が、秀吉に対し挙兵した織田信孝を討伐するために美濃へ
 赴いた隙を突いて、奇襲をかけた。
  奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死した。
  砦は崩れた。
  しかし、勝家の命に背いて砦に陣を敷き続けた佐久間
 守政は、中国大返しと同じく、迅速に引き返して来た秀
 吉の反撃に会い、さらに、前田利家らの裏切りもあって、
 柴田軍は大敗を喫した。
  柴田勝家は、越前に撤退した。
1583年4月24日、柴田勝家は、正室お市の方と共に自害し
 た。
  秀吉は、さらに加賀国能登国も平定し、それを前田
 利家に与えた。
1583年5月2日、信長の三男・織田信孝が自害した。
  やがて、滝川一益も降伏した(異説あり)。
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