(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年〜1563年)

 題:(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年〜1563年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1560年、石田三成(いしだみつなり、豊臣政権を支えた人、
  五奉行の一人、ご意見番は後世の創作)が生まれた
 (1560年〜1600年)
1560年、大久保彦左衛門(忠教、おおくぼひこざえもん、
 ただたか、江戸幕府の旗本、)が生まれた(1560年〜
 1639年)、彦左衛門に1626年稿の「三河物語」がある。
1561年1月、ベーコン(イギリス人哲学者、)帰納法を主
 張した(1561年〜1626年)
1561年春、清州同盟。
  桶狭間の戦い今川義元織田信長によって討たれる
 と、それまで今川氏に従属していた松平元康(徳川家康
 は、切腹を考えていたと伝わっている。その際、寺の住
 職より、太平の世を築く尊さを諭されたという。
  正式に同盟が締結されたのは、桶狭間の戦いから2年後
 の時、この時、家康が信長の居城である清州城を訪れ、
  信長と家康との会見がもたれ、同盟が締結された。
  徳川家康が、従来、ずっと敵対していた織田と和した
 時だった、そして、今川と絶縁した。
1561年5月、信長の隣国・美濃の斎藤義竜が病死した。
  信長は兵を送って攪乱を計った。また、1563年には、
 美濃への進出を計った。
1561年8月3日、秀吉結婚。
  秀吉が、おねと結婚した。
  秀吉とおねが、清州城下の茅葺きの裏長屋で祝言をあ
 げた。
  媒酌人は、友人の前田犬千代(後の利家)で、簀掻藁
 (すがきわら、スノコ代わりのワラ)の薄縁(うすべり、
 布の縁をつけたござ)を敷いた上で盃をかわすだけの、
 簡素なものであった。秀吉25歳、おね14歳だった。
  「平姓杉原氏御系図附言」では、二人は「野合(やご
 う)」によって結ばれたという。野合とは、秘かに結び
 つくこと、つまり、親も認めないうちに結婚すると言う
 事。
  おねの母・朝日は怒った。
  さらに、秀吉の卑賤を嫌って、二人の結婚を許さなか
 った。
  助け舟として朝日の妹・七曲(ななまがり)が七曲夫
 婦の幼女としておねを迎え入れ、秀吉と正式な結婚式を
 挙げさせた。
  秀吉は、七曲の夫・浅野長勝の浅野家へ入婿となった。
  秀吉は、おねとの結婚と同時に木下藤吉郎秀吉を名の
 った。
  おねの実家が木下姓であったためと推測される。
1561年9月、川中島の戦い
  甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の4回目の川中島
 大決戦。
1562年6月、加藤清正(かとうきよまさ、肥後熊本藩初代
 藩主)が生まれた(1562年〜1611年)
  主君:豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
  朝鮮での文禄・慶長の役の時に活躍した。
  江戸城名古屋城など数々の築城に携わった。
  熊本領内の治水事業も意欲的にやり、今現在でも多く
 の遺構がある。
  その土木技術は、非常に優れており400年後の現在も
 実用として使われている遺構も少なくない。
  また、その事業の多くを農閑期に行う事によって、そ
 の収入を計り、民百姓の事を思った。
1562年、琉球より三味線が渡来した。
1562年、この頃、堺・平戸・坊津などで鉄砲の鋳造が始
 まった。
1562年1月、信長、家康と同盟(1561年説あり)。
  徳川家康が自ら清州に出向いて信長と会見した。
1562年、ユグノー戦争(1562年〜1598年)
  キリスト教カトリックプロテスタントが40年近く
 戦った戦争。
  ドイツ人のルターが、キリスト教カトリック批判し、
 ドイツから始まった宗教改革運動は、フランスへ波及し、
 カルヴァンキリスト教が勢力を持った。
  カトリックユグノーと呼んだ。
  ユグノーは、カトリック勢力から卑劣な弾圧がなされ
 た。この年には、キリスト教にはお決まりの、虐殺事件
 も起きた(ヴァーシーの虐殺)。
  これを契機に戦乱状態になって行った。
  事を収められないキリスト教だった。
  「異教徒は殺せ」の教義の洗脳は本当に悪である。
  聖書の記述に、戦いを正義と書いてあるのが原因。
  「(キリスト教の)神の義があれは、人を誅してもよ
 い」とある。
  1572年にも、虐殺が起きている(サン・バルテルミの
 虐殺)。卑劣な宗教、極まりない。
  国王の暗殺まで引き起こされ、ドロドロと40年近くも
 争い、民は苦しんだ。
  異端の嫌疑の問題が飛び交った。
  そして、弾圧から逃れまわった。
  そして、「火刑法廷」という言葉が巷に満ちた。
  人々を幸せにできない宗教の姿。教会は熱狂にうなさ
 れ、民だけが迷惑し恐れた。陰謀も渦書いた、そして、
 処刑が待っていた。
1563年、細川ガラシャ明智光秀の三女、細川忠興正室
 キリスト教徒)が生まれた(1563年〜1600年)
  キリスト教の本当の情報に接しられなかった中世のキ
 リスト教徒。
  キリスト教に偏するNHKは、この女性を美しく大河ド
 ラマにした。城内の部屋に巨大な十字架を置いて祈るシ
 ーンとか、まったく史実無視の数々のシーンをドラマに
 仕立てあげ、影響力の強いNHKの放送媒体を使って日本
 全国の茶の間へ嘘放送をし続けた。
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