(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月〜1581年6月)

題:(増補版)83C2/3:気になった事柄を集めた年表(1578年6月〜1581年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1578年10月、摂津国大阪府北部)有岡城荒木村重(あ
 らきむらしげ、元信長・秀吉の家臣)が叛いた。
  三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は、有岡城
 で突如、信長に対して反旗を翻した。
  謀叛の理由は諸説(信長公記フロイス日本史)ある、
  1、村重は、義昭や本願寺とも親しかったため、その
 両者の要請を受けて反逆した。
  2、村重の家臣が、秘かに本願寺へ兵糧の援助をして
 いたため、それが信長に発覚したのではと恐れた。
  3、信長の側近との軋轢・・など。
1578年11月、織田信長が、池田恒興に摂津・有岡城(兵庫
 県伊丹市)の荒木村重の謀叛に際し、有岡城攻めを命じ
 た。
  (いけだつねおき、尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美
 濃大垣城主、1536年〜1584年)
  恒興の母は、信長の乳母(めのと)で、故に、信長と
 恒興は、乳兄弟の関係にある。
  恒興は、幼いころから信長に仕えた。
  尾張平定の戦いのほとんどを従軍している。
1578年11月、信長が、毛利水軍を破った。
1578年10月、コサック兵が、シベリアへの進出を始めた。
  シベリアに、最初に進出したのは、ロシア皇帝の軍隊
 ではなかった。
  最初に進出したのは、ストロガノフ家という特権商人
 だった。
  ストロガノフ家は、コサック軍団を雇い、シベリアへ
 進出した。
  ストロガノフ家は、世襲的に領土を持っていて、そこ
 で集めた税を中央へ納めるという封建領主的な特権商人
 であった。
  そこで、その領土を防衛するために、皇帝の了解のも
 とに、やがて、兵を雇い、武器を保持した。
  ストロガノフ家は、イェルマーク(コサックの頭領で
 シベリアの探検家)へ、東進して植民化する許可を与え
 ていた。
  このイェルマークが、この1578年10月に、コサック軍
 を率いて東進した。
  イェルマークの軍は、1581年9月には、シビル=ハン国
 (ジンギス・カンに由来する西シベリアの国)の首都を
 攻略している。
1579年5月、安土城が完成した。
  安土城天守閣は、着工から3年後にほぼできたらしく、
 信長は、この時に、移り住んでいる。しかし・・、
  ルイス・フロイスは、自著の日本史に、この年に、安
 土城は落雷で本丸が焼失したと記している。
1579年5月2日、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ、家
 康の3男)が生まれた(1579年〜1631年)、将軍期間:
 1605年〜1623年、
1579年6月、明智光秀が、信長に謀叛した別所長治に味方す
 る丹波国京都府中部)の八上城波多野秀治ら兄弟3人
 を降ろし、丹波国を平定した。
1579年9月、荒木村重が、有岡城を脱出した。
  信長に、1578年10月に、反旗を翻していた村重が、織
 田軍に攻められ籠城していたが、
  この時に、単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城
 の尼崎城へ移った。
  毛利軍の将がここに居たため、その将へ尼崎への援軍
 要請であったという。
  村重は、その後、ここから西へ逃れることなく、この
 城で半年以上も抗戦する。
1579年10月5日、徳川家康の長男・信康(のぶやす、1559年
 〜1579年)が、家康や老臣との軋轢から切腹をさせられ
 た。
  桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から自立する動きを
 してからも、信康は、母(家康の正室)築山殿と共に駿
 府に抑留され、今川氏の人質になっていた。
  そして、1562年、人質交換で岡崎に引き取られ、
  織田信長の娘五徳(徳姫)と、1567年に、結婚した。
  家康が浜松城に移った後に、岡崎城主となった。
  家康が徳川姓を称した後も、岡崎信康、あるいは、松
 平信康と呼ばれていた。
  信康の居る岡崎城に残った母・築山殿と、妻・徳姫と
 の折り合いが悪く、また、運悪く、家臣から武田勝頼
 通牒する者が出るなどして、
  信長が、徳姫からの手紙で、この事を知って、家康に
 信康の処分を命じた。
  信康は、岡崎城を、1579年8月4日に出され、遠江堀川
 城、さらに二俣城へと移され、
  この二俣城で、1579年10月5日に、切腹させられた。
1579年10月、宇喜多直家が、秀吉に応じた。
  (うきたなおいえ、備前国岡山県東南部の戦国大名
 主君:浦上宗景毛利輝元織田信長、子に秀家)
  下剋上を繰り返ししながら、下剋上の人であり、その
 様な胸中に生きた人。
  この年の1979年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、
 中国方面に進軍して来る。
  これに対抗した直家は、1579年5月に、信長に内応した
 として東美作の後藤勝基を滅ぼしている。
  しかし、この年、1579年10月に、毛利家と手を切って
 信長に臣従した。
  以後、毛利と各地で戦うが、1581年に病死した。53歳。
1580年1月17日、秀吉の兵糧攻めにあっていた別所長治が、
 兵庫県播磨の三木城で、城兵の助命と引き替えに、妻子
 兄弟と共に自害した。
1580年3月、信長は、本願寺光佐と和睦する。
1580年4月、柴田勝家が、信長の命により、北陸一揆の最大
 拠点の加賀一向一揆を討った。
1580年5月、秀吉が、第一回の鳥取城攻め。(6月説あり)
  秀吉は、三木城を陥落させたのち、因幡に入った。
  第一回の鳥取城攻めである。
  この時期、秀吉は忙しく活躍している。
  この城には、因幡国守護職(いなばのくに、鳥取県
 部)である山名豊国が籠もっている。
1580年8月、本願寺光寿降伏、本願寺消失。佐久間信盛・林
 通勝・安藤範俊ら追放。大和諸城破却。
1580年9月、山名豊国は、秀吉の鳥取城の包囲の3か月後の
 9月に降伏する。
  山名豊国は、信長に臣従した。
1580年9月、しかし、鳥取城へ毛利輝元が攻めよせて来た。
  今度は、豊国は毛利に対して降伏した。
  鳥取城の家臣団は、毛利家への従属を主張して豊国と
 対立する。
  この時、豊国が、信長と内通していることが発覚した。
  家臣団は、城主である豊国を追放して、新たな城主を
 迎え入れる決定をした。
1581年3月18日、鳥取城の城主として、豊国の代わりとして、
 吉川経家が入城した。
1581年6月25日、秀吉が、鳥取城へ再度、派兵する事を決断
 し、この日、2万の兵を率いて出陣した。
1581年6月29日、秀吉が、因幡国(2度目の鳥取城攻め)に
 侵攻した。
  秀吉は、帝釈山に本陣を構えた。
  そして、砦を14〜15をまたたく間に築き、4万の兵によ
 る鳥取城の包囲陣を完成させた(秀吉は。この包囲網を
 7月12日に完成させている)。
  そして、毛利輝元の将・吉川経家と睨み合った。
  秀吉は、また、兵糧攻めにする。
  吉川経家は、11月まで持ちこたえれば、鳥取は雪に埋
 もれるため、秀吉の大軍は包囲を続けることは出来なく
 なるだろうと読んでいた。
  この時、鳥取では米の不作による高騰に、鳥取城は、
 これに流されて兵糧米の備蓄を鉄砲や弾薬と交換してお
 り、米の備蓄が乏しかった。
  また、秀吉は、事前に、この地域の食糧を買い占めて
 いた。これもあって米価は高騰していた。
  前年の豊国の籠城の時は十分にあったが、経家の赴任
 するまでの間、前城主の追放の間の城主不在の時に、兵
 糧の多くが流出していた。
  また、秀吉は、毛利の鳥取城への兵糧送り込みを徹底
 的に阻止した。
  また、秀吉は、鳥取城を応援する支城を攻撃し、敵の
 兵站線を遮断して、城への補給の手を完全に絶つ作戦を
 講じた。
  また、村人が鳥取城へ逃げ込むように仕向けた(鳥取
 城は、尾根伝いに雁金山城、丸山城と二つの支城を持っ
 ていたが、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を強硬に
 攻めて落城させたため、鳥取城には雁金山城の敗残兵や
 周囲の村人が入る形となっていた)。
  鳥取城の兵糧は、6月の進軍からわずか1ヶ月後の7月に
 は尽きて来た。
  9月頃から兵糧が底をついた。城内は、草の根や木の皮
 などで飢えをしのぐ様となったという。
  それを、食べつくすと馬を食べ、この頃から餓死する
 者が出る様になったという。
  餓死する者4000と伝えられている。
  「甫庵太平記」に、「真黒にやせ衰えた男女が多数よ
 ろめき来たりて・・」とある。
  攻め手の秀吉側には人的損害はなかった。
  秀吉の道案内した豊国は、このあまりにも悲惨な状況
 を目にした事から、俗世を絶って武人から文人となった。
  この時期の秀吉の作戦には、キリスト教に感化された
 黒田官兵衛に作戦を関わらせた。これ以後、ヨーロッパ
 によくあるキリスト教的な悲惨な酷(むご)い作戦が多
 くなっている。
  この黒田官兵衛が、NHKの大河ドラマになったが、
 キリスト教に偏するNHKは、史実無視的に、一切、放
 送しなかった。
  ただただ、キリスト教を巧妙に美化して放送する放送
 局だった。
  黒田官兵衛が、キリスト教を捨てていることも放送し
 なかった。
  そして、因みに、この山名豊国は、秀吉亡き後、徳川
 幕府に入り、家康と秀忠のお伽衆を務め、1601年には、
 家康より但馬国に6700石を貰っている。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009