(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月〜1577年12月)

題:(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月〜1577年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1575年11月28日、織田信長の長男・信忠が、信長から家督
 を譲られた。
  信長は、形式上は隠居の身となった。
  信長は42歳。「人生五十年」を意識していたのか?
  この信忠、信長の後継者としてしっかりやっていた。
  この家督を譲られてからの7年後の1582年6月2日に、本
 能寺の変に会う。
  信長と共に、備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍
 に向かうべく、この日、京都の妙覚寺に滞在しており、
  光秀が、信長を強襲したと知るや救援に向かうが、信
 長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく諸将らと二
 条新御所に移動した。
  そして、わずかな軍兵と共に籠城し、善戦したが、そ
 の効なく、明智軍に攻め寄せられ、自害した。
1576年、大砲が伝来した。
  キリスト教宣教師から火縄銃や硝石などと共にフラン
 キ砲を輸入したのが、日本での最初の大砲と言われてい
 る。
  キリスト教宣教師は、武器の供給役だった(死の商人)。
  この時、買ったのはキリシタン大名と言われる大友宗
 麟。
  宗麟は、この武器頼みでキリシタン宣教師に近づいた。
1576年、織田信長が、租税を軽くし、民力を養った。
1576年、信長が、1569年以来続けてきた皇室領・廷臣量の
 調査を終えて領有を確認した。
  これにて皇室の財政は一応安定した。
  また、1571年以来続けてきた京都市民からの利米で、
 皇室財政を賄(まかな)う事は止めた。
1576年1月、この頃から丹波長秀を総普請奉行にして、安土
 築造工事が始められた。
  3年かかった(1579年5月、完成)。
1576年2月23日、信長が、安土城の築城のため、岐阜から移
 る。
  織田信長は、安土城を築くにあたって、西洋の法を参
 考にし、摂取した。
  そこで、諸国が模倣し、城制が大いに変わった。
  西洋諸国は専ら鉄砲で攻守する。
  それで、築城法が大変革した。
  吉田松陰は、信長を西洋式の軍事技術、特に、築城術
 の先駆的な採用者とみなしていた
  松陰は、信長を高く評価していた。
1576年〜1579年、織田信長は、「天下布武(てんかふぶ)」
 を掲げた。
  そして、安土山(標高199メートル)に、安土城を天下
 取りの布石として築いた。
  しかし、本能寺の変(1582年)の後に焼け落ちた。
  昭和の干拓事業で、安土山から湖岸まで6キロほど離れ
 たが、当時は、周辺が湖に囲まれ、東山道などを押さえ
 る水陸の要衝だった。
  天守は、5層6階地下1階で、宣教師のルイス・フロイス
 は、「難攻不落の城をもった新市街を築き、自らのあら
 ゆる栄光を発揮せんとした」とある。
  税の免除や、自由交易を促す楽市楽座などの施策で、
 町は急速に発展した。
  また、フロイスは、「住民は気高く、その気高さは、
 他のあらゆる市(まち)を凌駕(りょうが)していた」
 と讃えた。
1576年2月、義昭が、備後へ移り、毛利へ呼び掛けた。
1576年4月、信長が、石山本願寺を攻撃(本願寺が再起)。
  信長が、明智光秀らに石山本願寺を攻撃させたところ、
 本願寺は、毛利氏からの兵糧などの支援を受け、木津川
 河口の戦いでは、織田水軍が毛利水軍に敗れた。
  ここでの戦いは、本願寺との戦いと言うより、対毛利
 に拡大され、秀吉は、信長から中国経略という大役を仰
 せつかり、「中国方面軍司令官」というポストに付けら
 れた。
1576年4月、安土の城壁と天守閣の造営。
  この月から安土の城壁と天守閣の造営が始められた。
  尾張・美濃・三河・越前・若狭・畿内諸国の侍、京都・
 奈良・堺の大工・職人が召し寄せられ、莫大な石材が集
 められた。
  近郷の村々は、家ごとに土木用具や塀のすさの材料ま
 で持って徴発使役された。
  こうして、「昼夜、山も谷も動くばかり」の大動員で
 あった。
1576年5月、信長が、謙信と和睦。
  信長と謙信の間を見抜いたからか、本願寺は、1575年
 半ば頃から、次第に謙信に近づき、1576年5月に、加賀一
 向一揆と共に謙信と和睦した。そして、出馬しての西上
 を求めた。
  加賀門徒との和解は、越中門徒との和解となり、年末、
 謙信は能登に入った。
1576年5月、信長が、毛利と絶縁。謙信は本願寺と結ぶ。
1576年7月、信長が、毛利水軍に破られた。
1576年7月15日、秀吉が、京に入る。
  この日に、秀吉は、長浜を出発して京に入っている。
  そして、得意の調略で姫路城の小寺孝高を寝返らせて
 いる。
  小寺孝高は、赤松氏の一族で、当時、播磨御着城(ご
 ちゃくじょう)の城主・小寺則職(のりもと)の重臣で、
 後の秀吉の懐刀と呼ばれた軍師・黒田官兵衛孝高(如水
 と号す)である。
1576年10月14日。秀吉の子・秀勝が死ぬ。
  秀吉の子・秀勝の死は、秀吉を大いに悲しがらせた。
  秀吉は、秀勝の死んだ日に、城下の徳勝寺と知善院に
 寺領30石を与えて、その菩提を弔(とむら)わせた。
  また、秀勝の墓のある妙法寺にも秀吉の朱印状が残る。
  秀勝という名が多いので、この子は、石松丸秀勝とい
 う。
1576年10月14日、信長からもらった養子・於継丸。
  秀吉は、我が子・秀勝の死での落胆が大きく、信長は、
 秀吉へ10歳の於継丸を養子としてあげる。
  秀吉は、この子に秀勝の名を付けさせた。
  秀吉は、この於継丸秀勝を、自らの後継者としようと
 した。
1576年11月、信長が、右近衛大将のまま正三位内大臣にな
 った。
  信長は、この月にはさらに、廷臣・門跡の所領を増し、
 また、山城・大和にある興福寺領を安堵した。
  こうして、信長は、単に、朝廷に取り入ったのではな
 く、朝廷や貴族・社寺の保護者になっていった。
1577年、南蛮寺が京都に建った。
1577年2月、信長が、紀伊雑賀一揆を討った。
1577年8月、秀吉の加賀攻め。
  秀吉は中国征討から呼び戻され、加賀攻めに加えられ
 た。
  この時、柴田勝家と意見が合わず、秀吉が戦線を離れ
 るという様な事もあった。
1577年8月、松永久秀が叛く。
1577年9月、上杉謙信が、加賀に柴田勝家を破る。
1577年9月、上杉謙信が、能登に凱旋。
  この月に、上杉謙信は、織田派と上杉派に分かれて内
 紛を続けていた七尾城を攻め落として、ほぼ能登を平定
 した。
  ついで、加賀に進んで、柴田勝家軍に相当な打撃を与
 えて能登に凱旋した。
  「(信長は)案外に手弱の様体(ようてい)」などと
 勝ち誇った。
  織田軍と最初の、そして、最後の衝突であった。
1577年10月、秀吉が、松永久秀攻め。
  秀吉は、信長の命を受けて大和信貴山城の松永久秀
 めに行く。
  この頃、信長は、四方に敵をかかえていた。
1577年10月、秀吉が播磨、明智光秀丹波に入り、本格的
 に中国経略を始めた。
1577年11月、信長が、右近衛大将のまま従二位右大臣にな
 った。
  また、10月には、信長の長男・信忠もまた、従三位
 近衛中将に叙任されて公卿に列した。
1577年12月3日、秀吉が、西播磨を平定した。
  秀吉は、松永久秀を滅ぼしたその足で、中国経略の拠
 点である姫路城に戻り、またたく間に、西播磨を平定す
 る事に成功した。
  ただ、上月城だけは容易に落ちなかった。
  そこで、自ら兵を率いて城を囲み、ついに、この日に
 落城させた。
  そして、ここに尼子勝久・山中鹿之介幸盛を入れた。
1577年、イギリスは、辺境は地の小国だった。
  その国が、海賊王フランシス・ドレークの掠奪した儲
 けから芽が出て来る。
  例えば、1577年に、海賊・フランシスは、イギリスを
 出航し、行く先々で強盗を働く、
  イギリスに、1580年に帰ってきた。
  その時、世界中から略奪して来た貨物の価は2億フラン
 に達した。
  エリザベス女王も分け前を貰って、大いに喜んだ。
  フランシス・ドレーク爵位を与えた。
  イギリス以前には、この様な同じやり方で稼いでいた
 ポルトガルやスペインだった。
  そして、この不埒(ふらち)な金を、さらに、キリス
 ト教が巻き上げていた。
  キリスト教会は、「来世は幸せになります」と来世の
 幸福を約束したり、「先祖が天国に行くことが出来ます
 ようにとりはからいます」と、先祖の天国行きの切符を
 売り言葉にして、この金を巻き上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009