(増補版)88C2/3:気になった事柄を集めた年表(1583年5月〜1585年12月)

題:(増補版)88C2/3:気になった事柄を集めた年表(1583年5月〜1585年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1584年3月6日、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の
 礼に来るように命令されたことを契機に、秀吉に反発し、
 対立するようになる。
  そして、3月6日に、信雄は、秀吉に内通したとして、
 秀吉との戦いを必死に諌めていた重臣の浅井長時・岡田
 重孝・津川義冬らを謀殺した。
  秀吉への宣戦布告であった。
  この時、徳川家康が信雄に加担した。
  さらに、家康に通じて長曾我部元親や紀伊伊賀党らも
 反秀吉として決起した。
1584年3月7日、家康は8000の精兵を率いて浜松城を出発し、
  3月13日に、織田信雄と会見した。
1584年3月13日、小牧・長久手の戦い
  秀吉が味方につけた池田恒興が、尾張犬山城を守る信
 雄方の武将・中山雄忠を急襲し、攻略した。
  小牧・長久手の戦いの最初の戦い。(7日説あり))
  また、伊勢においても、峰城を蒲生氏郷堀秀政らが
 落とすなど、緒戦は、秀吉方が優勢であった。
  しかし、家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。
  そして、小牧に堅陣を敷いた。
1584年3月17日、秀吉方の森長可が、尾張羽黒まで出て家康
 の武将・酒井忠次榊原康政と戦って敗れた。
1584年3月21日、秀吉は、敗報に接し、自ら30000余の軍勢
 を率いて大阪から出陣した。
  その他の軍勢を合わせて数十万となった。
  家康・信雄の連合軍は、16000〜17000であった。
  数の上では秀吉が有利であったが、ここの戦闘では、
 家康が戦巧者(いくさこうしゃ)であった。
1584年3月27日、秀吉が、犬山城に入った。
  そして、秀吉軍も堅固な陣地を構築し、家康・信雄軍
 と対峙した。
  この対峙している期間は長くなっている(小牧の戦い)。
  羽柴軍は10万、織田・徳川連合軍は3万だった(軍勢は
 諸説あり)。
1584年4月6日、秀吉の甥・三好秀次(豊臣秀次)を総大将
 にした森長可池田恒興らが、奇襲作戦を開始した(7日
 説あり)。
  目的は、三河の攪乱にあった。
1584年4月9日、しかし、この奇襲作戦の行動が遅かったた
 め、逆に、4月9日早朝に、徳川軍に追尾され、そして、
 待ち伏せられて奇襲される。
  激戦となる。
  秀吉の有力武将の池田恒興が、また、その長男の池田
 元助も共に戦死してしまった。
  また、森長可も戦死してしまった(長久手の戦い)。
  秀吉は、絶対的に兵力に勝るのに、この様な敗戦で、
 自らが攻略に乗り出さざるを得なくなった。
  秀吉は、加賀野井城など、信雄方の美濃における諸城
 を次々と攻略して行った。
  信雄・家康を、尾張に封じ込めようとの作戦だった。
  信雄・家康は、秀吉の圧倒的兵力と、財力も使った攻
 撃に圧倒されて行った。
  因みに、秀吉は、多大な貢献をした恒興の死を悼み、
 次男・輝政に池田家の家督を継がせている。
  輝政は、はじめ大垣城、のち岐阜城主となり、近世大
 名・池田家の礎を築くことになる。
1584年10月15日、戦いの最中であったが、秀吉が、初めて
 従五位下左近権少将に叙位任官した。
  この頃から、秀吉は、羽柴の苗字は使わなくなってい
 る。
1584年11月11日、信雄は、家康に無断で、秀吉と単独講和
 をした(15日説あり、また、秀吉が、犠牲が多くなるこ
 とを思って、得意の調略によって、信雄と単独講和した
 ・・ともある)。
1584年12月12日、家康も、信雄が講和したことで、秀吉と
 戦う大義名分がなくなり、三河に撤退する。
  そして、12月12日に、家康は、次男の於義丸を秀吉の
 養子(=人質)として差し出し、大阪に送った。
  「羽柴秀康(のちの結城秀康)」として講和した。
  この於義丸(おとぎまる)は、秀吉の側で遠慮して育
 ち、秀吉の養子として元服した。
  この様な事から、家康の後継者の候補からは外れた。
1585年3月10日、秀吉が、内大臣に任じられた。
1585年3月23日、秀吉の紀州根来寺と雑賀攻め。
  秀吉は、紀州へ兵を進めた。
  これは、昨年の小牧・長久手の戦いの時、根来(ねご
 ろ)と雑賀(さいか)が秀吉の出陣中の背後を伺ったた
 めだった。
  雑賀の太田城を水攻めにした。
  この時、秀吉は、「平百姓」は命を助けるから、在所
 に帰村すべしと通達した。
  農耕具や家財を与え、武器は取り上げた。
1585年3月23日、天正遣欧少年使節たちが、教皇グレゴリ
 ウス13世に引見し、九州の大名の大友宗麟有馬晴信
 大村純忠の書簡を渡した(?)。
  この少年の使節たちは、旅の途中で、日本人の女性た
 ちが、南蛮貿易で売られている姿をあちこちで目撃した。
  キリスト教宣教師たちが関与した南蛮貿易は、鉄砲や
 弾薬のもとの硝石の武器商人(死の商人)の役をしたり、
 この様な、人身売買をしていた。
  江戸時代末期に生まれた徳富蘇峰もこのことを記して
 いる。
  「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしい
 ばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内
 に押し込むゆえに、女たちが泣き叫び、わめくさま地獄
 のごとし。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義
 売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ
 人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日
 本女性を奴隷船に連れ込んで海外で売りさばいたボスの
 中のボスであった」と。
  キリスト教に偏するNHK放送大学は、キリスト教の美
 化ばかりを放送して、この件をまったく放送しない。国
 民をだます放送をしている。
1585年7月11日、秀吉は四国討伐の最中の事だった。
  この時、朝廷では関白職を巡る争いがあった。
  この様な中、秀吉は、漁夫の利を得るような形で、秀
 吉に関白の宣下があった。
1585年7月頃、五奉行の制
  小瀬甫庵の「太閤記」によれば、この年の秀吉の関白
 就任後に五奉行制が出来ている。
  (1593年の秀吉が病に際して、五大老制の設置に伴い
 置かれたとも)。
  この五奉行の制で、前田玄以京都所司代長束正家
 は知行財務、浅野長政石田三成増田長盛らが庶政を
 担当し、大事は5人で協議執行することと定められた。
1585年8月6日、秀吉が、長宗我部元親を破る。
  小牧・長久手の戦いの時に、家康・信雄に加担した四
 国の長宗我部元親を破って、四国を統一した。
  秀吉は、病気だったため、出陣は取りやめ、弟の秀長
 が総大将になり、1585年6月16日より四国への渡海を開始
 し、戦いが進められていた。
1585年8月20日、北国動座。秀吉が、佐々成政を征伐。
  この四国征伐の直後、同じく小牧・長久手の戦いの時
 に、秀吉に敵対した越中佐々成政(さつさなりまさ)
 を、秀吉自ら、10万の軍勢を率いて京を出発し、8月20日
 には倶利伽羅峠(くりからとうげ)を越えて越中に入っ
 た。「北国動座」という。
  大軍の来攻を見て、成政は髪を剃り降伏した。
1585年9月3日、秀吉の大陸征服。
  秀吉が「唐入り」、すなわち、中国・朝鮮への大陸征
 服を口にし始めた初見は、1585年9月3日のこととされる。
  この日、秀吉は、家臣の一人・一柳末安(ひとつやな
 ぎすえやす)に印判状で、「秀吉、日本国は申すに及ば
 ず、唐国まで仰せ付けられ候」と言っている。
1585年12月10日頃、秀吉の子・於次秀勝(信長の四男、養
 子で秀吉の元に)が、亀山城で没した。
  この於次秀勝は、秀吉の実子・秀勝の死(1576年)が
 忘れられず、信長からもらった10歳の養子の於継丸に秀
 勝の名を付けていた。
  信長の葬儀の時も、この於次秀勝を喪主にして大徳寺
 で盛大に執り行い、秀吉の後が期待されていた。
  秀吉によく付いて、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦
 いなどにも従軍し、丹波亀山城を城主として任され、期
 待されたが、この年に、亀山城にて没した。享年18歳。
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