(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年〜1569年)

 題:(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年〜1569年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1568年10月、堺が、信長の矢銭(やせん、軍事費)を断わった。
  信長は、1568年に、上京し、摂津・和泉を平定すると、
 各地に矢銭(軍事費)をかけた。
  石山(大阪)本願寺は5000貫、堺は2万貫をかけけら
 れたが、堺は断わり、信長の意に従わなかった。
  そして、能登屋・紅屋などの豪商を大将にし、36人の
 会合衆(えごうしゅう)が中心になって、やぐらを高く
 したり、堀を深くしたり、浪人を集めたりして、防戦の
 準備をした。
  また、摂津の平野郷(今の大阪市東住吉区)へ、共同
 で防戦しようと申し入れた。
  しかし、信長はあえてこれを攻めなかった。
  この話に後日談があり、
  会合衆たちが、三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を
 見せたのだが・・、
  堺の商人・今井宗久(いまいそうきゅう、千利休らと
 共に茶湯の天下三宗匠と言われる)が、この要求を受け
 入れる様に仲介し、無事に話をまとめている。
  かえって、堺にとって、この結論の方がよかった。
  この後、鉄砲鍛冶工を集めて鉄砲や火薬製造の重要地
 になり、また、塩の権益を受けたり(1569年)、生野銀
 山の支配もできたりと(1570年)、堺が栄える事にもな
 った。
1568年10月、信長の検地。
  近江平定早々の1568年10月に、蒲生郡安吉郷(あきご
 う、今の竜王町)に属する村々は、信長の奉行の村井貞
 勝・丹羽長秀に、当郷「指出(さしだし)」に不正なく、
 もし今後、不正があれば、どんな処分でも受けると誓っ
 ている。
  信長や戦国大名の検地は、実は、ほとんどの場合、領
 主から土地台帳の写しを「指出」させるだけのものであ
 った。
1568年10月9日、義昭が仁和寺に所領安堵し、それに信長
 の添え状を付けている。
1568年10月18日、義昭が将軍となったが・・、
  義昭の将軍任命を見て、信長は、いったん帰国しよう
 とすると、
  義昭は、信長を招いて、能楽を張り、酒宴を催した。
  義昭は、信長の恩を感じていた。
  酒宴の席で、義昭は、信長に鼓(つづみ)を望んだ。
  信長は、きっぱり断った。
  また、宴が始まった時、義昭は、副将軍でも、管領
 もない信長の望みしだいに任命すると言い出し、
  これも信長に断わられた。
  さらに、翌日、義昭は、信長に与えた内書(将軍が、
 いわば非公式に出す文書)3通のうちの一つで、
  性懲りも無く、「今度の忠恩」により、信長を幕府の
 3管領家の筆頭である斯波の家督にすると伝えた。
  もはや陪臣(ばいしん、臣下の臣)扱いではないが、
 あくまで管領、すなわち将軍家の家臣扱いであった。
1568年10月20日、この日に、義昭と信長に、山科言継(
 やましなときつぐ、公家)の旧領を返すようにとの勅命
 があった。
  翌日、幕府は、「上下京中」に皇室領の諸役を勤める
 よう命じた。
  それには、信長と和田惟政の添え状があった。
  以後、幕府の貴族・寺院に対する所領安堵が多し。
  この史実は、政治の実権が、あたかも戻って来た様な
 行動であり、それを、信長の威を借りて行っているとい
 うところとなっている。
  所領安堵を、どんどん勝手にやっている。
1568年、ネーデルランド独立戦争
  1568年から1648年までの戦争で、八十年戦争とも言
 う。スペインに対してオランダが挑んだ。
  結果、ネーデルランド連邦共和国が独立した(オラン
 ダ独立戦争ともいう)。
  神聖ローマ帝国時代に、キリスト教プロテスタント
 が伝わり、普及したため、異端審問が行われるようにな
 った。
  暴力と、権力の乱用の時代だった。迫害行為もあった。
  キリスト教の両派は、いがみ合った。
  また、増税や、中央集権強化でさらに締め付けが強ま
 った。
  新たな課税を否定し、スペイン軍の撤退を求める抗議
 の集団との摩擦が強まって行った。
  異端審問の卑劣さが反乱のきっかけだった。
  あるキリスト教が、対抗するキリスト教を異端だと断
 定する行為は卑劣で、蔑むものだった。
  皇帝の統治権を否認する布告を出したりした。
  このドロドロした戦いが長く続くが、一時、インドな
 どの植民地からの甘い利益が流れ込む一時期、停戦が、
 12年間あったが、結局、80年間の殺し合い、戦いが、
 そこにあった。
1568年、キリスト教宣教師のオルガンティノが、京都に南
 蛮寺(永禄寺)が建立した。
1569年1月、信長が、堺を脅す。
  信長が率いる織田軍が、美濃に帰還した隙をついて、
 三好3人衆(三好長逸三好政康・石成・いわなり友通)
 が、堺を根拠に京都に攻め入った。
  足利義昭の仮御所を攻撃した。
  しかし、信長は、雪の中をわずか2日で戻り、三好・斎
 藤軍を敗退させた。
  1月10日には、三好軍と共同して決起した高槻城を攻
 め、入江春景は降伏したが、再度の離反のため処刑し、
 高槻城和田惟政を入城させた。
  そして、この日、信長は、堺へ2万貫の矢銭と服属を
 要求した。これに対し、堺の会合衆は抵抗した。
  これに対し信長は、堺が浪人を抱えて三好を助けたこ
 とを攻め、一軒残らず焼き払った。
  そして、皆殺しにすると脅した。
  町衆の動揺は大きく、婦女子を非難させ財産を疎開
 た。そして、36人衆は、今後、浪人を置かないこと、三
 好に通じないことを誓った。
  そして、矢銭2万貫を出して、やっと許された。
  日本の戦いにはさらっとしたところがある。一度は許
 すという所もある。欧米の陰湿さはない。
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