(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年〜1338年)

 題:(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年〜1338年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1335年7月23日、護良親王足利尊氏に反目し、建議を得
 て、鎌倉に配せられ、幽閉されていたが・・、
  そして、この日に、護良親王中先代の乱の際に殺さ
 れた。
  護良親王(1308年〜1335年、後醍醐天皇の第一皇子)
 は、元弘の乱には僧兵を率いて活躍した。
  その間、復職して名を大塔宮(おおとうのみや)から
 護良(もりなが、または、もりよし)と改め、熊野・吉野
 あたりに潜行し、国々に令旨を発し、勤王の兵を募った。
  建武の中興政府が成るや征夷大将軍となり、兵部卿
 任じられた。
  間もなく、足利尊氏に反目し、天皇が、1334年、親王
 を鎌倉に幽閉され、足利直義の監視下に置かれた。
  中先代(なかせんだい)の乱に際し、足利直義の家臣
 によって殺された(1335年7月23日)。
  その家臣は、北条時行軍の手を逃れ、鎌倉がおちる際、
 秘かに、足利直義の命を受けた家臣が、護良親王を殺し
 たという、直義の独断だったという。
1335年、足利尊氏天皇に叛いた。
  尊氏は、反乱鎮圧のために下った鎌倉で、天皇への叛
 意を明らかにしたという・・、
  その因として、武士として活躍しているが、その割に、
 恩賞が少なかった・・という一説がある。
  しかし、この時ではなく、後に決断したとの説もある
 が、その説が正しそうである。
  尊氏は、過去に、後醍醐天皇征夷大将軍の官職をの
 ぞんだが許されなかったことがあった。護良親王は征夷
 大将軍になっている。
1335年8月2日、尊氏は、天皇の許可を得ないまま、軍を
 率いて鎌倉へ向かった。
  天皇は、やむなく征討将軍(せいとうたいしょうぐん、
 臨時の称号)の号を与えた。
  足利尊氏は、足利直義の軍勢と合流し、相模川の戦い
 で北条時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
1335年8月19日、足利尊氏が、鎌倉を回復した。
  足利直義の意向もあって、尊氏は、そのまま鎌倉に本
 拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都からの上洛の命
 令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。
1335年11月、足利尊氏は、新田義貞を君側の奸であるとし
 て、後醍醐天皇にその討伐を要請するが・・、
  天皇は、逆に、新田義貞尊良親王(たかよししんの
 う、後醍醐天皇の皇子)をともなわせて、「尊氏討伐」
 を命じた。
  さらに、奥州からは、北畠顕家も南下を始めており、
 尊氏は、赦免を求めて隠居を宣言し、寺に引きこもり断
 髪したという。
  しかし、足利直義や、高師直(こうのもろなお、武将、
 尊氏の執事)などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏
 は、彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意した。
  「直義が死ねば、自分が生きていても無益である」と
 宣言し、出馬した。
  尊氏は、12月に、新田軍を箱根・竹之下で破った。
1335年12月、箱根・竹下の戦いが起きた。
  この戦いの後、尊氏は、京都へ進軍を始めた。
  この間、尊氏は、光厳上皇と連絡を取り、叛乱に至っ
 た意味を説明している。
1336年1月11日、足利尊氏が入洛した。
  後醍醐天皇は、比叡山へ退いた。
  しかし、ほどなくして、尊氏は、奥州から上洛した北
 畠顕家と楠木正成新田義貞の攻勢に晒される。
1336年1月30日、この日の戦いで、尊氏は敗れた。
1336年2月11日、尊氏は、この日の、摂津豊島河原の戦い
 (大阪市箕面市池田市)で、新田義貞北畠顕家軍に
 大敗を喫した。
  尊氏は、京都を目指すことを放棄し、海路で鎮西(九
 州)へ向かった。
  途中、播磨国兵庫県姫路市)の赤松則村らに助けら
 れ九州へ下った。
  九州では、肥前国佐賀県佐賀市)守護の少弐頼尚
 しょうによりひさ、武将)らにむかえられた・・
 ・・が、九州の諸豪族の大半は宮方に味方した。
  そして、そこで待ち受けていた菊池氏・阿蘇氏ら2万
 の大軍を、尊氏は、多々良浜(たたらはま、福岡県)の
 戦いで破った。
  一度、宮方についたが、尊氏に加勢する者も出た。
  尊氏の戦法も積極的で、不利な状況を逆転して行った。
  この戦いで、九州のほぼ全域が、尊氏側に付くことと
 なった。
  尊氏は、戦いを勝つと、再び、体勢を整え直して・・、
 京を目指して、東上を始めた。
1336年4月13日、多々良浜の戦い
1336年、足利尊氏が、また、東上した。
  追討を命じられた新田義貞は、赤松氏の拠る白旗城(
 兵庫県赤穂郡)や、足利氏の武将が籠もる三石(みつい
 し)城(岡山県備前市)を攻めあぐねていた。
  そんなことをしているうちに、新田勢が守る福山城
 広島県福山市)が、陸路を進撃する足利直義の攻撃を受
 けて落城してしまった。
  退却した新田義貞は、楠木正成と共に湊川(みなとが
 わ、兵庫県神戸市)で決戦を挑(いど)むが、海路を進
 んで来た足利尊氏の上陸を許して、敗退した。
  湊川の戦いで楠正成が戦死した(43歳)・・が起きた。
  比叡山に逃れていた後醍醐天皇も、入京した足利勢に
 降りた。
1336年5月25日、湊川の戦い楠木正成戦死。
1336年8月15日、足利尊氏が光明院を擁立した。光厳上皇
 の院宣によるものだった(北朝の始まり)。
  光明天皇は、まだ幼かったため(4歳)、兄である光厳
 天皇院政が行われた。
  囚われた後醍醐天皇は、この即位をいったんは認めた
 ものの、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇へ神器
 を剣璽渡御(けんじとぎょ)を迫られたが、天皇は奈良へ脱出さ
 れた。
1336年10月10日、後醍醐天皇が吉野へ遷幸した(南朝
 権の樹立)。花山院に幽閉。
1336年11月1日、足利尊氏が、花山院に後醍醐天皇を訪ね
 て行く。
  南北朝の統合の話だった。
  後醍醐天皇の皇子の成良親王を、光明天皇の皇太子と
 することを条件に、神器を戴きたいという奏上だった。
  つまり、光明天皇の次に成良親王(なりながしんのう)
 を即位するという奏上だった。
1336年11月7日、建武式目17条を制定した。
  尊氏が発布したこの式目に、室町幕府の施政方針が示
 されている。
  中原是円(ぜえん)・真恵(しんえ)らの公家・僧侶・
 武家の法曹家に諮問して政治方針としてまとめたもの。
1338年7月2日、新田義貞(にったよしさだ)が没した(
 1301年〜1338年)。
  越前国福井県越前市)で交戦中に戦死した。
  東国の一御家人だった新田義貞
  鎌倉幕府を滅ぼして中央へ進出し、その功績は多大で
 あった。
  南朝の総大将として重責を果たし、忠節を尽くして来
 た新田義貞の生涯が、やはり、戦いに場で幕を閉じた。
  義貞の首級は京都に送られ、引き回され獄門に掛けら
 れたという。義貞に恩を受けた多くの人が、嘆き悲しん
 だという。
  また、義貞の死後、義貞の息子らも戦乱に倒れたとい
 う。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009