(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年〜1541年)

 題:(増補版)63C1/3:気になった事柄を集めた年表(1536年〜1541年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1536年、伊達稙宗(だてたねむね)が家法の「塵芥集」を
 定めた。
  稙宗が書かせたという事ではなく、代々伝えられてき
 た家法をまとめ、制定させたという事である。
  条文は171条におよび、戦国家法で最大の法典。
  分国統治の裁判規範としての性格が濃い。
  この「塵芥集」には、馬・牛が他人の耕地を荒らした
 時の規定や、鷹の餌に犬を捕ることなどの条項もある。
  塵芥(じんかい)は「ちり・あくた」の意味であるが、
 家法を定める時、色々と「ちり・あくた」の様に色々と
 いやになるほど条項にすべき事があったというのだ。人
 間とはその様なもの。
1536年4月、今川義元(いまがわよしもと、駿河国遠江
 国の巨大な守護大名)が、家を継ぐ。
  武田信玄北条氏康とは義兄弟と、血が濃い関係。甲
 駿同盟、駿相同盟がある。
  桶狭間の戦いで、その巨大な大名を弱小の織田信長が、
 地の利を考えて、奇想天外な作戦で討ち取る話は有名。
  弱小大名から人質を取るほどの力があった(幼少の家
 康は、長い間、今川の人質だった。この桶狭間の戦いで、
 義元が討たれ、その混乱に乗じて、家康は岡崎城へ戻っ
 ている。信長のお蔭)
1537年、足利義昭(あしかがよしあき、室町幕府第15代
 将軍)が生まれた(1537年〜1597年)
  織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する(
 第13代将軍の足利義輝松永久秀らに暗殺されていた)。
  しかし、この恩ある信長と対立する。
  武田信玄朝倉義景らに呼ぶ掛けて、信長包囲網を築
 き上げた。そして、信長を追い詰めもしたが・・、
  義昭自身が京都から追われ、備後国広島県の東半分)
 へと下向した。これを以って室町幕府滅亡という説があ
 る。
  将軍職は続けたが、秀吉の代になった時、将軍職を辞
 し、秀吉から山城填島(京都府南部)1万石を貰い、大名
 として認められた。
  貴人と遇される時を送った。
1538年、本田正信(ほんだまさのぶ、武将、徳川家康の重
 臣)が生まれた(1538年〜1616年
  主君:徳川家康松永久秀徳川家康
  はじめ鷹匠として家康に仕える。三河一向一揆が起き
 ると一揆方を応援し家康に敵対する。
  そして、家康のもとを出奔。大和の松永久秀に仕える。
  久秀に重く用いられたが去る。諸国を流浪する。
  苦労をして後、家康へ帰参を大久保忠世を通じて嘆願
 する。
1538年、北条氏政(ほうじょううじまさ、武将、後北条の
 第4代当主)が生まれた(1538年〜1590年)
  父・氏康から、1559年に、家督を譲られても、父と共
 に、父存命中はずーっと氏康と氏政の両頭体制を続ける
 親孝行な息子だった。民意を重視し、徳政も行った。
  最後は、豊臣秀吉小田原征伐により、数か月の籠城
 に耐えたが、降伏して、切腹した。後北条氏は滅亡した。
1538年、大久保忠佐(おおくぼただすけ、駿河沼津藩主、
 徳川氏の家臣)が生まれた(1537年説あり)(1538年
 〜1614年)
  父(忠世)や兄(松平広忠)とともに、家康に仕えた。
 武勇に優れ、戦い功あって2万石の大名になったが、嫡
 男は早世していた。
  その為、幕府の旗本でもあった弟の忠教を養子にして
 家を継がせようとした。しかし、忠教は「自分の勲功で
 はない」と固辞した。
  そして、当然の結果が、世継ぎが無いので沼津藩は改
 易(かいえき、所領没収)となり、御家は断絶した。
1538年、前田利家(まえだとしいえ、戦国大名加賀藩
 前田氏の祖)が生まれた(1538年〜1599年)
  主君:織田信長→秀信→豊臣秀吉→秀頼
  小姓として、はじめ織田信長に仕えた。
  槍の名手で「槍の又左」と言われた。柴田勝家の与力
 (よりき、大名や有力武将に従う下級武士)として各地
 で活躍。能登の23万石を拝領する大名となった。
  本能寺の変後に勝家に付くが、秀吉に臣従した。豊臣
 家の家老となる。秀吉の日本平定へ従軍、そして、加賀
 国と越中国を与えられて加賀藩百万石となる。
  後、五大老の一人となり秀頼の後見人に任じられた。
  秀吉の死後、仲裁役として働くが、秀吉の死の8ヶ月後
 に病死。
1539年、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか、土佐国
 高知県戦国大名)が生まれた(1539年〜1599年)
  主君:彫塑影国親(父)→豊臣秀吉→秀頼
  土佐の国人(くにうど、その土地に住む人)から戦国
 大名となり、阿波・讃岐(三好氏)・伊予(西園寺氏
 河野氏)らと戦い四国を手に入れる、そして、四国の覇
 者となる。
  しかし、織田信長の手がおよび、秀吉に敗れて土佐一
 国の減地となった。
  その後の戦いで最愛の息子を戦死させると、気が荒く
 なり、家中を混乱させたまま世を去った。
  国盗りの野望が成ったと思ったら、元の木阿弥となり、
 愛する子も失った元親だった。
1540年、諸国に疫病が流行した。
1540年、天皇真筆心経を諸国一宮に奉納した。
  優しい天皇陛下の心づかいだった。
  疫病流行を憂(うれ)え、般若心経を写経されて奉納
 された。
1540年、カリブ海インディオが絶滅した。キリスト教
 のスペインの蛮行。
  欲の皮が突っ張ったこの輩の黄金や銀の積み出しルー
 トとして非常に重要な役割を持った地だった。
  ここから、本国スペインへの黄金が積み出されて行っ
 た。
1540年6月、織田信秀が、伊勢外宮の造営費を寄進した。
1540年9月27日、教皇パウルス3世が、イグナチオ・デ・
 ロヨライエズス会を正式に認可した。
1541年、北条早雲の子・氏綱が死んで孫・氏康が後を継い
 だ。
1541年6月、甲斐の武田信晴(信玄)が、父・信虎を追い、
 自立する。
  父・信虎もびっくりしただろう、信虎が信濃の国から
 戦いに勝って凱旋し、娘婿の今川義元を会おうと、駿州
 往還(すんしゅうおうかん、甲斐と駿河を結ぶ街道)を
 駿河に赴いたところ、
  晴信は、甲駿国境を閉鎖して、信虎を強制的に駿河
 隠居させてしまった。
  信虎は、今川義元の元に身を置がざるを得なくなって
 しまった。
1541年、カルビン(カルヴァン)が宗教改革を唱えた。
  パリで、1534年に、事件が起きるとプロテスタント
 の弾圧が烈しくなり、一時、彼はスイスのバーゼルへ亡
 命した。
  キリスト教聖職者が、世俗にあるべき政治権力を奪う
 神権政治を行った。
  市民の日常生活においても、キリスト教会の規律を厳
 格に求めた。
  また、カルヴァンは、異端者だと言って告発した旅行
 者や神学者らを、生きながら火刑に処した。
  それが、キリスト教の改革だと称した。
  当然、カトリック陣営とも熾烈に争った。
  「神中心主義」などとも言った。
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