(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年〜1486年)

 題:(増補版)56B:気になった事柄を集めた年表(1456年〜1486年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1460年代〜1499年、一向宗浄土真宗)の蓮如(れんにょ
 )が活躍する。蓮如は1499年に没した。
1467年、応仁の乱が起こった。〜1477年まで続いた。
  足利義政の時、細川勝元山名宗全らの守護大名が、
 東西に分かれて京都で戦ったが、後に、全国へ広まった。
  西軍:山名宗全畠山義就、斯波義兼、足利義尚、総
 勢12万人。
  東軍:細川勝元畠山政長斯波義敏足利義視、総
 勢16万人。
  足利義視は、伊勢へ逃れ、翌年、叡山に走った。また、
 公家や僧侶が戦乱を逃れて地方へ下って行った。
  室町時代には、農民は、荘園の枠を超えて、地縁的に
 結合していった。
  有力名主は、作人・下人を使役して力を蓄え、作人・
 下人も、名主へ成長する者が現れるなど、階層分化が進
 んだ。
  百姓請も行われるようになり、惣的結合が進んだ。
  地頭・荘官は、守護の被官となって、領地の安堵を受
 け、守護との間に主従関係が生じ、地頭請に代わって守
 護請が盛んとなった。
  この様にして、公領も荘園も守護に併呑され、守護は、
 その領国のすべての土地・人民に領主権を及ぼすように
 なった。
  やがて、守護は、大名化し、守護大名となって行った。
  この様にして、荘園は弱まり、その後の太閤検地によ
 り、大名知行制の基礎が確立するにともない、荘園は名
 実ともに消滅した。
1469年頃、ヴァスコ・ダ・ガマが生まれた(1469年頃〜
 1524年)
  ポルトガルの航海者。インドのゴアにて没する。
  インドへの航路をヨーロッパ人として初めて発見した。
1470年頃、この頃、日明貿易により、明より銅銭が多く輸
 入された。
  倭寇と区別するため、正式な遣明使船であることが確
 認できるよう勘合(勘合符)を使用した。
  博多や堺などの有力商人も同乗し、明政府によっての
 買い上げや、明政府が許可した商人との間で私貿易が行
 われた。
  室町幕府の将軍が、明の皇帝から日本国王として冊封
 を受ける形であったため、
  足利義満は、名分を捨て実利と取ったが、
  後に、この点が問題となり、義満の死後、4代将軍・足
 利義持の時は、貿易を一時停止した。
  義教の時に復活する。
  その後に、倭寇による密貿易が中心となった。
1473年、細川勝元が没した(1430年〜1473年)
1474年、特許制度が始まった(世界最古の成文特許法が公
 布された)。
  東西貿易の拠点にあったヴェネチアの特許制度が始ま
 った。
  技術・工芸の創作者に、10年間の独占権を与え厚く保
 護した。
  10年間は、当時の徒弟制度における技術取得の為の年
 限と一致する。
  ヴェネチアは、オリエント諸国に伝わる技術の粋が特
 許制度によって吸い寄せられ、驚異的な発展を成し遂げた。
1477年、応仁の乱が終わった。
  数十万の武士が都に集結し、11年間、戦いを続けたが、
 勝敗がつかない和睦で決着した。
  悲惨な戦闘が繰り返されたという訳でもなかった。
  戦いが広がったのも、し烈な戦いという意味ではなく、
 後方攪乱的な広がりだった。
  将軍の権威は失墜し、公家が没落した。
  荘園制度の崩壊が加速した。京都を去る公家も現れた。
  京都の町の大半が消失したが、疎開先は、京都周辺及
 び周辺都市の山科、宇治、大津、奈良、堺であった。
  この乱の後、疫病が発生した。
  諸将の多くが国に帰った。
  戦国時代が始まった。
1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サンティアゴ・デ・
 コンポステラの巡礼は、エルサレムへの巡礼と同等の価
 値があると言ってから、この地への巡礼が増えた。
1479年、スペインとポルトガルの間で、アルカソヴァス条
 約が結ばれた。
  ポルトガルに遅れたスペインは、アフリカ西岸の島々
 の奪取を画策し、ポルトガルと戦争となった。
  そして、この年、条約を結んだ。
  カナリア諸島だけが、スペインのものとなった。
  そして、それ以外の広大なアフリカの地域・海域の特
 権は、ポルトガルのものだという改めての確認(境界画
 定・デマルカシオン)がなされた。
  愚かな事に、今・現代でも、この状態となっている。
  また、このコロンブス登場以前のポルトガルの関心は、
 アフリカ西海岸に向けられていた。
1480年、タタールのダヤン・ハーン(〜1524年)、モン
 ゴルの再統一。
  トゴン・テムルが、1368年に、中国・大都(今の北京)
 から、モンゴル高原に撤退して、後のモンゴル帝国(北
 元・ほくげん)となったが、この国について、漢文資料
 では韃靼(だったん)と呼び、日本ではタタールという
 名称も用いられている。
  そして、この撤退後、クビライの血を受け継ぐ皇帝が
 殺害され、皇統は断絶したが・・、
  そして、皇帝の後継を名乗る大ハーンが立った。
  チンギス・カンの末裔として、ハーンなる資格を唯一
 有する家系とみなされるボルジギン氏にバト・モンケは
 生まれた。
  チンギス・カンの子孫の生き残りとして、1480年に、
 バト・モンケは結婚し、
  1487年に、バト・モンケは、ダヤン・ハーンと称し、
 これは元朝再興を目指す意思を表すとされ、
  1488年に、大軍を率いて中国北辺を侵した。
  1510年に、オイラトを屈服させ、モンゴル繁栄となっ
 た(モンゴル再統一)。
  1524年に、ダヤン・ハーンは死去する。
1481年、一休宗純(いっきゅうそうじゅん、僧)が没した
 (1394年〜1481年)
  天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われた。
  墓は、宮内庁が、御廟所として管理している陵墓とな
 っている。一般の立ち入りは出来ない。
1483年、東山山荘(銀閣慈照寺)が、第8代将軍・足利
 義政によって、京都郊外に建てられた。
  能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が
 花開いた東山文化。
  この文化は、次第に庶民にも浸透し、日本的な文化と
 心を生み出した。
  地方へ帰る、また、地方へ逃れる人たちによって、地
 方へ伝播した。
  幽玄、わび・さびの美意識の世界。
1483年11月10日、ルター(マルティン・ルター)が生ま
 れた。
  キリスト教カトリックの堕落に抗議し、目を覚まさ
 せた人。
  「異議を申し立てる事」や、「抗議」の語意のあるプ
 ロテストの言葉から、プロテスタント(反抗する者、抗
 議者)の意味を持つ組織が生まれた。
  この宗教改革を行った人。
  それまでのキリスト教の悪どい財政的収奪や聖職売買
 に抗議した。
1484年、ローマ法皇のインノケンティウス8世が、回勅(
 指令)で、魔女の逮捕と裁判をキリスト教裁判所の異端
 審問として行うことを正当だとした。
1485年12月、山城の国一揆が起こり、自治を行った(〜
 1492年)
  映画の「7人の侍」の様に、地侍(じざむらい)・名
 主(みょうしゅ)を中心に、農民や国衆(15歳から60歳
 の人々)が、一致団結して起こした一揆
  土地を荒らす戦争をする武士たちへ、抗議し、交渉す
 る事を集会で決議し、毅然たる態度で交渉を行い、軍を
 退陣させ、結果は成功した。
  8年間に渡り、守護による支配を排除し、自治を打ち立
 てた。
  まったく民主的な、民の声を聞く耳を持った誇るべき
 歴史的事実。
1485年、この頃の室町幕府の規定、声聞師・河原者に棟別
 銭(家屋の棟数別に課された税)を免除した。
1485年、ポルトガル人が西アフリカのギニア湾にあるガボ
 ン共和国のガボン川を発見した(ポルトガルの版図拡大
 行動)。
1486年冬、江戸城の乱、江戸城は上杉氏の所有となる。
  太田道灌が死んだ。詳細は不明の事件。
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