(増補版)92C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年12月〜1592年4月)

題:(増補版)92C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年12月〜1592年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1591年1月、秀吉が兵船を造らせた。
1951年2月15日、秀吉の弟・豊臣秀長が没した。
1591年3月、秀吉は、日本以外の地への侵攻軍の基地として
 名護屋城(現・唐津市)の建設を始めた。
1591年4月21日、千利休が没した(1521年〜1591年)
  この切腹の本当の理由は謎で、秀吉の弟・秀長の死で
 豊臣政権内に権力争いが起きたためだとか、
  茶器の売買で不当な利益を上げたためだとかと、色々、
 言われている。
  また、利休の娘の側室にする話があり、利休がよい返
 事をしなかったという説が有力とされている。
  秀吉が通る門の上に、利休の像を置いたという話は、
 有力ではないようだ。
1591年5月、朝鮮国王の返書。
  秀吉の使いである僧の玄蘇と、宗義智の家臣・柳川調
 信が、朝鮮国王の返書を持ち帰った。
  昨年の11月に、秀吉の朝鮮国王宛ての書状の返書であ
 る。
  秀吉の書状の概要を書くと、
  「日本60余州が乱れていたが、我は悲憤慷慨し、3,4
 年で叛臣を討ち、掌握した。
  我は、胎児の時、慈母が夢に太陽が懐中に入った、占
 い師は、壮年になれば四海に威名を轟かせようと、
  事実、この母の夢は正に正夢だった。
  我に敵意持つ者あれば滅びる。
  戦えばすなわち勝たないことはない。
  攻めて取れないものはない。
  天下は大いに治まり、百姓(全人民)を撫育し、孤児
 孤老を憐慰している。
  民は富み財は十分だ。
  本朝は開闢以来の朝廷盛事、都は壮観で太陽の如く盛
 んだ。・・と書いて、
  入貢を促している。
  そして、自分は大明に入る太陽だと言っている。
  そして、日本国関白秀吉と結んでいる。
  「士卒をひきいて軍営に臨む」とま言っているのだが
 ・・、いい返事は来なかった(半分、無視的で、添削み
 たいにされ、本気にされていなかった)。
1591年6月、秀吉が、朝鮮国王に要求を突き付けた。
  秀吉が、先月の朝鮮からの返書を不満とし、宗義智
 朝鮮に使いにやり、朝鮮国王に要求を突き付けた。
  こうした事態のもとで、朝鮮側は「秀吉の出兵近し」
 と判断、全羅道慶尚道の城郭を増築したり、修築した
 りした。
1591年7月25日、豊臣秀吉が、ポルトガル領インド副王に
 宛ててイスパニア王の来日を要求した。
1591年8月21日、秀吉は、統一事業が進んできたことから、
 百姓の土着を定めた。
  これは、人返しが習慣的に行われていたため。
  また、秀吉が、兵農商工の身分を定めている。
  これは、江戸時代の幕藩体制の基礎になって行く。
1591年9月2日、秀吉の天下統一が成った。
  南部氏の一族の九戸政実(くのへまさざね)が乱を起
 こした。
  秀吉が送った秀次を総大将とする鎮圧軍によって、こ
 の日に、政実が降伏している。
1591年9月、朝鮮出兵の命令。
  秀吉が、朝鮮への出兵の命令を下した。
1591年9月15日、秀吉が、スペイン領ルソン島へ、朝廷(お
 よび秀吉)への入貢と服属を要求している。
  そして、この書状には、既に、朝鮮と琉球は、日本に
 入貢していると述べている。
  この書状は、マニラの総督のもとに届けられた。
  秀吉のこの書状を持って使いの原田は、返書を受け取
 り帰国している。
  翌年、総督の使節が、秀吉の下に来て謁見している。
1591年9月22日、秀吉の長男の豊臣鶴松が没した。
  「群臣亦た皆断髪して、以て哀情を示す」とある。
1591年10月10日、名護屋城の普請が始められた。
  朝鮮出兵の基地をしての肥前名古屋城の普請が、こ
 の日から始められた。
  また、渡海のための軍艦建造も始めている。
1591年、秀次が関白になった。
  秀吉が、関白を秀次に譲ずり、自身は太閤(たいこう)
 と呼ばれた。
1592年1月5日、秀吉が、朝鮮・明への出陣命令を下した。
  秀吉が、朝鮮を経て明にまで兵を進める出陣命令が諸
 大名に出した。
1592年1月、秀吉が小西行長と宋義智へ、朝鮮へ再度服属と
 唐入りへの協力の意思を確認せよと命じている。
  そして、もし、朝鮮が従わないなら4月1日から「御退
 治あるべし」と命じた。
  4月7日に朝鮮側の拒絶の意思が日本に伝えられた。
 小西らは侵攻準備を開始した。
1592年3月、秀吉が、36ヶ国人掃令を出す。
  人掃(ひとばらい)令は全国的な戸口調査である。
  村々の身分別人口調査で、朝鮮出陣のための動員でき
 る人的資源を調査したものだった。
1592年3月26日、文禄の役
  秀吉が、京都を出陣した。
  1ヶ月の後に名護屋城へ到着した。
  この名護屋城佐賀県東松浦郡鎮西町)を中心に諸大
 名の陣屋が120数ヶ所つくられていた。
  陣屋は6キロ四方んぽ広がりを見せていた。
  ここには、10万を越える兵力がいつも居り、各大名は
 米を国元から運ぶとともに、百姓を同行させて、山野
 を開いて野菜を作らせた。
  また、陣屋周辺には商人も集まり、一般人も5万〜6万
 人にのぼった。
  山野は、大都市に変革した。
  秀吉は、茶室を大阪から運ばせていて、茶会も行われ
 ていた。
  また、秀吉は、能に興味を持っていて、能楽師を連れ
 て来ていて稽古に励むという様子だった。
  大阪城で、淀殿が秀頼を産んだ。
  秀吉は、大変喜んで大阪へ向かい名護屋城を離れた。
  そのまま大阪城に居て、秀吉は名護屋城に戻ることは
 しなかった。
  「太閤様軍紀のうち」には、秀吉は、美しく装って名
 護屋城へ下向とある。
1592年4月12日、秀吉の朝鮮出兵軍が上陸し、釜山城を落
 した。
  この秀吉の朝鮮出兵について、韓国の論調として悪く
 言う話も伝わって来るが、
  朝鮮が中国・元とともに、日本を侵攻して来た事もあ
 った。
  つまり、この秀吉と逆の形もあった。
  1回目に攻めて来た時は、神風が吹いて、天が日本に味
 方したが、
  2回目は、完全に日本の武士の力が勝っていて、防御が
 勝っていたので撃退した。
  この様に、この秀吉の場合も、悪く言われるいわれは
 ない。
  この時、朝鮮・中国の連合軍が強かったら、日本軍は、
 散々打ちのめされ、殺され、日本人も連れ去られていた
 事になっていた。
  日本も、一歩間違えばその様になるところだったのだ。
1592年4月12日〜1593年7月、文禄の役
  豊臣秀吉が主導する日本の遠征軍と、朝鮮および朝鮮
 の救援に来た明軍との間の朝鮮半島における戦い。
  当時の李朝の社会は乱れ、人々の大半が農奴や奴隷状
 態の人だった。
  民心は離反していた。
  その為、日本側に協力する民衆が多数いた(キリスト
 教宣教師のルイス・フロイスも記している)
  因みに、当時の李氏朝鮮の人口は500万人、明朝は1億
 5000万人、日本は2200万人だった。
  また、イベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050
 万人、イギリス(ブリテン諸島全体)625万人、オラン
 ダ150万人である。
  この日に、先鋒の小西行長・宋義智・有馬晴信が、対
 馬から700隻以上の船に、1万9千の兵を乗せて出港し、
 その日の内に釜山に上陸した。
  秀吉軍16万弱、朝鮮軍17万強、明軍5万強。
  損害:秀吉軍5万(ほとんどが病死と餓死で、戦死は
 わずか)、朝鮮軍方・数十万(文禄・慶長両役の総計)
  秀吉には大きな考えがあり、「唐入り構想」の「征明」
 の道案内を、朝鮮に、命じたところ拒絶された。
  そして、その経緯の中で豊臣秀吉の軍が、朝鮮の釜山
 に上陸した。
  そして、わずか20日あまりで漢城(今のソウル)を占
 領した。
  この勝利の報に接した秀吉は、関白・秀次に、世界征
 服計画を明らかにした。
  それは、「大唐の都・北京に後陽成天皇を移す。
  明後年には、天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十
 ヶ国を進上する。
  そして、甥・秀次を大唐国の関白としてすえ、都周辺
 の百ヶ国を渡す。
  日本の国内の天皇には、皇太子良仁親王か、弟亭帝知
 仁親王かのいずれかどちらでもよい。
  日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家のいずれかと
 する。
  朝鮮には、織田秀信宇喜多秀家をおき、
  九州は、羽柴秀俊。
  また、朝鮮は、羽柴秀勝宇喜多秀家かに支配させる。
  そして、秀吉自らは、まず、北京に入り、
  その後、寧波(ニンポー)に居を定める。
  そこから諸侯各位に、予が命令せずとも天竺(インド)
 を好き勝手に切り取らせるようにする」・・と。
1592年4月17日、秀吉の朝鮮出兵軍が、釜山上陸から慶州を
 通過した。
  この時、加藤清正は、特に、部下を戒(いまし)め、
 「この新羅の旧都の建造物・その他を破壊したり、いっ
 さい手をつけるな」と軍令を下した。
1592年4月17日、秀吉の朝鮮出兵軍の第一軍司令官は小西
 行長であったが、
  小西軍の2万5000の兵と、第二軍司令官の清正軍が、
 忠州で落ち合った。
  第一軍が朝鮮の物を持っていたので、清正が、みずか
 ら行長の軍営に行って、「かような物は焼き捨てられよ」
 と言い、それを積み上げ、焼かせ、軍紀を締めた。
  秀吉も軍令で、厳しく「乱暴は一切してばいけない」
 「放火をしてはしてはいけない」「人さらいをしてはい
 けない」「地下人(じげにん、庶民)に対して勝手な労
 働をさせてはいけない」と通達していた。
  そして、「これに違反したものは厳科に処する」とし
 ていた。
  清正はよくこれを守った(司馬遼太郎街道をゆく2)。
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