(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)

題:(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月〜1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年4月5日(3月13日)神仏分離神仏判然令)(〜1868
 年12月1日)
  新政府が、太政官布告で「神仏判然令」を出す。
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により
 神仏混淆がなくなる。
  神道振興で、諸社が格式をそなえ、神社と仏寺の習合
 が禁じられる。
  多くの仏寺が、神社として存続するが、廃滅を余儀な
 くされた寺もある。
  廃寺改称が30か寺にのぼる。順次移り変わる。
  ローマ法王が、日本の神道は良いが、仏教は駄目と言
 った。
  キリスト教の偏するNHKはその為、この明治の神仏
 分離令的な行為を現代でもしている。
  仏教を蔑視し、無視するNHKとなっている。
  明治の廃仏毀釈も酷かったが、今のNHKもひどい。
  神道の国教化の方針を採用し、神仏習合を排した。
  神道の神に仏具を供えること、また、「御神体」を仏
 像にする事を禁止し、
  神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じた。
  これをきっかけに、全国各地で廃仏毀釈の運動が起き
 た。
  各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
  神官や国学者が煽動した。
  西洋は、良いのだとか、西洋に追い付けの盲目の意思
 も働いた。
  尚、この様な破壊の例は、キリスト教宣教師が、民衆
 を扇動して行なった例がある。
  この時は、神社や仏閣のみさかいが無かった。
  豊臣秀吉から「何故、穏便にできないのか」とたしな
 められた位だった。
1868年4月7日(3月15日)川路聖謨(かわじとしあきら、幕
 臣)が没。
  川路聖謨が、この日、江戸城開城を悲観し、自邸でピ
 ストル自殺をした。
  河村修就と同様に幕府の外交官として、開国に向けて
 力を惜しまなかった人物の自害であった。
  徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき、海外事情に
 通じ開明性をもち続けた人だった。
  「天つ神に 背くもよかり 蕨摘み 飢えし昔の 人
 をおもへば」。
1868年4月7日(3月15日)有栖川宮熾仁親王が、筑前、津和
 野両藩の兵を率いて京都を出発した。
1868年4月、勝海舟江戸城地引渡しを談ず
  勝海舟、池上に行き、先鋒総督府江戸城地引渡しの
 ことを談ず(氷川清話)
1868年4月、陛下に御拝謁・・、
  大久保は、行幸の行在所の大阪本願寺別院で天皇陛下
 に拝謁した。
1868年4月12日(3月20日)徳川家処分に関し、三職会議(
 三条実美岩倉具視西郷隆盛大久保利通木戸孝允
 広沢正臣ら)
1868年4月12日、秋山真之(あきやまさねゆき、海軍中将)
 が愛媛県に誕生(1868年〜1918年)
  日露戦争(1904年)で東郷司令長官の参謀。
  戦略家として知られた。
  「天気晴朗なれども波高し」などの戦報の文章は有名。
  1897年にアメリカに留学し、翌年・1898年にアメリ
 =スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』
 号に乗組んでいる。
1868年4月(3月)徳川家事務を田安邸に移す(氷川清話)
1868年4月(3月)各藩に貢使を命ず(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)明治天皇が、親征と大坂行幸
 ため、京都を出発。閏4月8日京都に還幸。
  天皇大阪に行幸(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)英軍艦で将軍を亡命・・、
  1968年3月21日と27日の両日の「海舟日記」には、
  「英吉利人来訪、我が心理を話す、彼、善(よし)と
 称す」とか、「英公使パークス氏並海軍総督キップル
 を訪ふ、
  此程之趣意を内話す、英人大に感ず」と書き留めてあ
 る。
  これは、パークスが、海舟の立場に同情して、海舟に
 協力することを約束したのであり、
  横浜にある英軍艦アイロンヂック号の艦長キップル
 紹介し、その艦の出発を一か月延期して、品川に留めて
 おこうと言ったのであった。
  その意味は、もし西郷との談判が不調に終わって、戦
 争となったら、慶喜を坊主にして法衣を着せて、浜御殿
 から小舟に乗せてアイロンヂック号に運んで、そのまま
 イギリスに亡命させようという計画であった(氷川清話)
  そして、また・・、氷川清話
  勝海舟、英公使パークス氏を訪い、英軍艦の艦長キッ
 プル氏を招き、厚意を謝し、密事を談じ此の艦を1ヶ月
 滞船させることを約束。これは海舟の深思遠慮の所であ
 る(氷川清話)
1868年4月、軍艦4隻朝廷に納む。その余4隻徳川に賜る
 (氷川清話)
1868年4月、勝海舟、狙撃される・・、
  勝海舟半蔵門外で官兵に狙撃され落馬し死を免れる
 (氷川清話)
  慶応4年4月末に、官兵3、4人が小銃を以って俺を
 狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後ろ足で立ち上が
 ったものだから、俺はたまらず、あおむけざまに落馬し
 て、路上の石に後脳を強く打って、一時気絶した。
  けれども暫くすると、自然に生き返って、辺りを見回
 したら、誰も人はおらず、馬は平気で道端の草を食って
 いた。
  官兵は、銃丸が当たったものと心得て立ち去ったので
 あろう(氷川清話)
1868年4月16日(3月24日)パリにて、初めて邦字新聞が、
 発行された(石版刷「世の噂」)
1868年4月16日(3月24日)「九州鎮撫長崎総督府」が、九
 州の34藩の全てを管轄することになった。
1868年4月18日(3月26日)天皇陛下が、軍艦を観閲された。
  日本最初の観艦式が行われた。
  朝廷は、2月6日に、海陸軍務総督の名で7藩(鹿児島、
 山口、土佐、佐賀、久留米、福岡、広島)から各軍艦と
 汽船1〜3隻を徴発して集め、この機に在大阪の軍艦を一
 同に会わせて、3月26日に、天保山沖で天皇の親閲を行な
 う事を決めた。
1868年4月24日(4月2日)勝海舟らに、江戸の取締りを命ず。
 (4月29日説あり)
1868年4月24日(4月2日)ストーンウォール号(甲鉄艦)が、
 横浜に入港した。
  (官軍の海軍先鋒の大原俊実が、これを抑留した)
  ストーンウオール号(甲鉄艦)は旧名で、東艦(あず
 まかん、1872年12月7日に改名)と言った。
  この艦の艦歴は、1867年に幕府がアメリカに買取を約
 束したが、1868年に戊辰戦争が勃発し、幕府が崩壊する
 と、新政府側で買い取りたいと言い出した。
  旧幕府は、これに反発。
  横浜に至ったアメリカは、戦いの決着がつくまで売ら
 ないとした。
1868年4月、大原侍従・・、
  勝海舟が、横浜に出張し、大原侍従の旅館へ参謁(さ
 んえつ、参上して目上の人や尊貴な人に会うこと)、公
 の厚意を謝し、
  且つ、主家の至誠、又、臣節(しんせつ、臣下として
 守るべき節操)の重きを述ぶ(氷川清話)
  大原侍従は大原俊実のことで・・、
  佐賀藩の海軍奉行の島義勇は、この年3月(1868年4月)
 に、官軍の海軍編成を命じられている。
  そして、この月末に、彼(島義勇)は、勝海舟に面会
 し、勝を新政府側に帰順させようとした。
  海舟日誌に、以下の記述がある・・、
  「海軍先鋒・大原俊実、佐賀藩士・島団右衛門義勇を
 して旧幕府陸軍総裁・勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納
 れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」と。
  官軍、もしくは、佐賀藩主は、、徳川海軍をどうにか
 せよと命じたのだろう、そして、官軍の大原俊実と佐賀
 藩士・島団右衛門義勇が動いた。
1868年4月25日(4月3日)近藤勇・・、
  近藤勇が、下総流山にて、官軍に抗して虜となった。
1868年4月25日(4月3日)新聞の発刊・・、
  福地源一郎が、江潮新聞を発刊した。
1868年4月25日(4月3日)慶応義塾・・、
  福沢諭吉が、運営する英学塾を芝新銭座に移し、「慶
 應義塾」と改称した。(閏4月説あり)
  尚、1871年に、三田へ移転している。
  慶応大学のホームページには・・、
  「4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)
 に因んで慶應義塾と名づける。
   同月 長女里が生まれる。
  5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェー
 ランド経済書の講義をする。
  8月ごろ、幕臣をやめて帰農。
  この年、明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、
 固辞する」・・とある。
  新銭座移転後は、もっぱら民間で活発な著作活動を行
 なった・・ともある。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 は、その代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教に関わる実学を主張した。
  「独立自尊」の4字に集約される国民の創出に努め、
 政府及び民衆に比類ない影響と勇気を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的となり、国民
 主義に移行した。
  日本の偉大な教育家であり、思想家。
  福沢諭吉は、その著「文明論の概略」で説いたものは、
 西洋文明を見習えとは言ったが、福沢諭吉の主張すると
 ころ、説くところを突き詰めれば、西欧起源の近代科学
 技術であった。
  その思想や宗教とは違う。
  西洋文明を無批判に取り入れる、まだ、何も知らなか
 った明治初期において、福沢は、冷静にものを見分けて
 いた。
  しかし、この明治初期に、福沢の様に、ものがよく見
 分けられないでキリスト教に入って行った日本人が多く
 居た。
1868年4月26日(4月4日)江戸開城の勅使が参向した。
  勅使(ちょくし、勅旨を伝える使者)が下向。
 西郷は、勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、
 旧暦4月4日には、大総督府と徳川宗家との間で最終合意
 に達し、
  東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・
 西郷らが、兵を率いて江戸城へ入城した。
  橋本らは、大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶
 頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等
 を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
  そして、旧暦4月9日(1968年5月1日)には、静寛院宮
 が清水邸に、
  旧暦4月10日(5月2日)には天璋院が一橋邸に退去した。
  旧暦4月11日(5月3日)には、慶喜は、謹慎所の寛永寺
 から水戸へ出発し、同日をもって江戸城無血開城、大
 総督府が接収した。
  それより前、旧暦4月8日(4月30日)に東征大総督熾仁
 親王駿府を発し、旧暦4月21日(5月13日)に、江戸城
 へ入城した。
  ここに、江戸城は、正式に大総督府の管下に入り、江
 戸城明け渡しが完了した。
  また京都では、旧暦4月9日(5月1日)に、明治天皇が、
 紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を
 平定したことを報告された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive