(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月〜1573年9月)

題:(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月〜1573年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1572年12月、信長が、小谷城の『水攻め』の準備をする。
  信長が、小谷城の水攻め準備をするが、これは必要だ
 ったのか? 信長の本心は・・?
  信長は、小谷城の周りを少しづつ攻略し、そして、各
 地の諸将を、信長側に降ろして来た。
  そして、あちこちに砦を築き、小谷城の『必敗の姿』
 を見せてきた。
  ここに、「小谷城よ!降りよ!」の本心があったと感
 じられる。
  あの比叡山を、一気に駆け上がり、すべてを焼き払っ
 たのは・・、
  小谷城に、この様な姿に、やればできるのだと、見せ
 ていた、知らせていたのだろう。
  妹がいる、そして、甥や姪もいる、幸せな生活をして
 いる小谷城なのだがあった・・、
  信長は、この様に小谷城を見ていたのだろう、感じて
 いたのだろう。
  小谷城・城主・浅井長政の頼りとしている朝倉義景は、
 義景の着陣後、義景の重臣の前波吉継(まえばよしつぐ)
 父子が、そして、その他の将が、次々と信長に降りていた。
  その様な状況から、朝倉義景は、この12月、越前へ引
 き上げてしまった。
  義景に、「信長は一揆で疲弊している、討つなら今だ」
 と書状を送っていた強気の浅井長政、降りればいいのだ
 が・・、
  それでもなお、信長は、なおゆっくりと、慎重に、横
 山と虎姫山の間の八相山・宮部に要害を構え、
  そして、虎姫山と宮部間に、幅三間の道を高く作り、
 それにそって小谷城側に高さ1丈(3メートル強)、延長
 50町(1町が1200メートル、故に、60キロメートル)と
 いう超長い築地(ついじ、土だけを突き固めた土手や土塀)
 を作り、水攻めの準備をした。
  何故?信長が、こんな大変な事をしているのか? 
  手間もかかり、時間もかかることをしているのか?
  待っていたのだろう。
  妹婿・・降りろと、降りてくれと、
1572年12月22日、三方ヶ原の戦い
  武田信玄は、この時、遠江・三方ヶ原に徳川・織田軍
 を破った。
  徳川・織田軍の敗け方はひどかった。
  武田軍2万7000〜4万3000、徳川・織田軍1万1000〜2万
 8000、武田軍は1.5倍〜2.5倍の軍勢だった。
  信玄の西上作戦の途上の(スタートの)戦い。
  (西上作戦は、1572年9月に、信玄の重臣三河へ先攻
 させ、信玄は10月に出陣したのがスタートだった。最初は
 出城などを落としていた。そして、三方ヶ原に至った)。
  将軍・義昭は、1571年に、信長討伐令を出し、第二次
 信長包囲網を敷いた。
  信玄は、この翌年の1572年に、この将軍の令に応える形
 で信長側の徳川領国である遠江国三河国の侵攻を行った
 のであった。
1573年4月12日、武田信玄が没する(1521年〜1573年)。
  三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血。
  当然、進撃は、突然、停止する。
  軍が甲斐へ引き返す途上、4月12日に、没した。53歳。
  歴史は、信長に流れていた。
1573年7月18日、義昭、降伏。
  義昭軍が、この日に、信長軍に降伏した。
  そして、この後、信長は、将軍・義昭を追放した。
  信長包囲網を築くこともしたが、追い詰めもしたが、
 この時、京都から追われ、備後の国に逃れた。室町幕府
 滅んだ。
  晩年、義昭は、豊臣秀吉の時代になって、山城填島1万
 石を与えられ大名として過ごしている。
  この年・1573年に何があったかというと・・、
  この年の正月、信長は、義昭に折れている。
  あの信長が、義昭を将軍として立てた。
  この正月、信長は、自分の子供を人質として義昭に入
 れ、和睦を申し入れている。
  しかし、義昭は、これが信じられなかったのか、この話
 を一蹴した。
  そして、義昭は、近江の今堅田城と石山城に、幕府の軍
 勢を入れ、はっきりと『反信長の旗』を示した。
  義昭は、武田軍が来ることを頼りにしていた。
  しかし、信長軍の攻撃を受けると、この義昭の両城は、
 あっけなく陥落した。
  京に陣を張っていた信長には降りる武将(細川藤孝
 荒木村重)らがいた。
  状況判断が出来ている武将たちだった。
  しかし、それが出来ず、また、義昭は、信玄の死を知
 らないため抵抗を続けた。
  将軍を立てる信長は、再度の和睦を要請した。
  しかし、義昭は拒否。
  信長は、威嚇の行動をして、義昭に圧力を掛けた。
  そこに、優しさがにじむ信長が居た。
  そして、朝廷に和睦の工作を奏上した。
  天皇の勅命によって、4月5日に、講和は成立した。
  しかし、それから3ヶ月ののちに・・、
  義昭は、7月3日に至って、一方的に講和を破棄した。
  そして、南山城の要害・填島城(山城国)に移って、
 挙兵した。
  この城は、信長軍・7万の軍勢によって包囲され、7月
 18日に信長軍に攻撃を開始されると崩れ、義昭は家臣に
 促(うなが)されて、しぶしぶ降伏した。
  そして、填島城を、義昭は出た。
 この戦いにしたって、温かい信長だった。ヨーロッパ
 の様な卑劣な殺戮はしていない。
  信長は、この戦いの後、足利将軍の後継者として立て
 ると義昭に約束し、足利義尋を手元に置いている。
1573年8月8日、信長と朝倉義景の戦い。
  信長が、3万の兵を率いて近江に侵攻した。
  これに対し、義景も朝倉軍を率いて出陣しようとするが、
 それまで色々な失態をしてきた義景は家臣の信頼を失い
 つつあった。
  出陣命令を拒否する重臣・朝倉景鏡や魚住景固らが出る
 という始末だった。
  それでも、義景は、2万の軍を率いて出陣した。
  激突した結果は、朝倉軍の大敗だった。
  信長軍の追撃は、厳しかった。
  その結果、朝倉軍は壊滅的な状態となった。
  義景は、有力な武将の多くを失った。
  最後は、10人程度の側近が義景を守るという状態とな
 った。
  それでも、義景は、一乗谷に留守を守る兵の所へ帰還
 した。
  ところが、悲しいかな、義景の壊滅を知った留守を守る
 将兵の大半が逃走した後だった。
  総てを失ったと悟った義景は、自害をしようとしたが、
 近臣に止められた。
  8月16日から、義景は逃れる行軍が始まる。
  その道々、援軍の要請をするが応じてくれるものはなか
 った。
  防備に不安ありという事でまた逃れるという状態であ
 った。
  そして、8月18日、織田軍の柴田勝家の先鋒が一乗谷
 攻め込み、これによって、朝倉家100年の栄華は終わった。
1573年8月20日、そして、8月20日の早朝、朝倉の家臣が、織
 田軍に通じて裏切り、この家臣の襲撃によって、ここに至
 って義景は自害した。41歳だった。
1573年9月1日、小谷城の戦い・・浅井長政が滅びる。
  小谷城の戦いは、8月8日に始まり、この日・9月1日に、
 終結している。信長の辛い決着をつける日だった。
  この8月8日、浅井長政重臣山本山城の城主・阿閉
 貞征が織田方へ寝返った。
  これを機に、織田軍の侵攻は開始された。
  朝倉軍は、小谷城の北方近くまで進出して来た。
  しかし、朝倉軍は前哨戦で敗北し、織田軍に追撃され、
 壊滅的敗北を被(こうむ)った。そして、義景自害へ至る。
  こうして越前を制圧した信長は、小谷城へ引き返し、8
 月26日に、虎御前山の本陣に帰還した、そして、時を移
 さず、全軍に小谷城の総攻撃の命令が下した。
  水攻めはなされなかった。
  織田軍の厳しい攻撃が加えられた。
  長政は、嫡男万福丸を家臣を付けて城外に逃がした。
  さらに、お市の方と3人の娘と共に、織田軍に引き渡し
 た。
  そして、9月1日、長政は自害し、小谷城は落城した。
 浅井氏は3代で滅亡した。
  桶狭間の戦いの1560年、この奇襲戦に今川義元を討っ
 た後、天下を治める夢を見た信長は、上洛への道筋にある
 北近江の雄・朝倉氏の懐柔に乗り出した。
  そして、浅井長政お市の婚約が整ったのだった。
  そして、永禄10年、お市21歳は、2つ年長の長政に岐阜
 から嫁いだ。
  織田家は、美男美女の血筋で、お市も目鼻立ちがきり
 りとしていて美しかった。 
  浅井氏は、南に接する六角氏との戦いでは常に敗れ、
 越前の朝倉氏の援助を受け続けて来た。
  家臣は、六角氏の傘下に甘んじ、軍事的手腕に欠ける
 父・久政を嫌って引退を強要し、長政は、16歳で浅井氏の
 跡目を継いだ。
  この長政とお市の結婚には、父・久政は賛成ではなか
 った。しかし、長政は信長との同盟を選んだ。
  六角氏を共に攻め、希望ならば美濃の国もやろう、また、
 朝倉・浅井両氏は、昔からの深いかかわりもあるから、
 無断で朝倉氏を攻めたりはしないとの誓紙まで信長が入れ
 て来た。
  信長の誠実さを感じた長政は、それで、お市を城に迎
 えたのであった。
  長政とお市の結婚生活は6年間に過ぎない。
  お市には、3人の娘と2人の息子が居る(嫡男の万福丸
 お市の子ではないという・信長公記)。
  しかし、信長が、悪かった。
  信長と長政の仲がおかしくなったのは、誓紙に背いて
 信長が、浅井の領内を通って、越前の朝倉を攻めに向か
 ったことに始まる。
  お市が嫁いで、3年目の事だった。
  長政は、信長に理解を示していた。信長がこれに甘えた
 のか?
  朝倉氏との同盟を重視する父・久政との間に立った長政。
  長政も、筋の通らない信長をかばい切れなくなったのだ
 ろう。
  次第に、小谷城は、信長との対立を深めて行った。
  そして、浅井氏は、信長が命からがら逃げる様な戦さ
 を信長に行った。
  これは決定的だった。
  この後から、信長の厳しい振る舞いの話が出て来るよう
 になる。
  浅井長政が没した(1545年〜1573年)28歳だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009