(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年〜1180年)

 題:(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年〜1180年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1179年、この頃、京都を中心に広く経済界の混乱が起きて
 きた。
  「近日、天下上下病悩ます、これを銭病(ぜにやまい
 と号す」
  日宋貿易によって、宋銭がおびただしく輸入され、こ
 れが原因であった。
  この頃、各地の特産物の生産と、その交換が盛んとな
 り、宋銭輸入の必然性もあったが、
  急激な宋銭の輸入と、その流通が、経済界を混乱させ
 た。
  現物と貨幣の交換率が混乱し、紛争が至る所で引き起
 こされた。
1179年5月、平清盛の跡継ぎである平重盛の健康がすぐれ
 ず、5月末に出家した。
1179年6月、故摂政・近衛基実(このえもとざね、藤原忠
 道の4男)の室・平盛子が、夫の後を追って若死にした。
  これは、後白河が基房を押して、平氏=基通の関係に
 圧迫を加えてくる絶好の機会を作った。
1179年7月、7月末に、平重盛が没した(1137年〜1179年)
1179年11月11日、摂津福原の山荘で時を過ごす清盛は、
  この日、武士数千騎を率いて、京都に入った。
  そして、厳島神社への参詣途上であった平宗盛を呼び
 戻した。
  京都の町従は騒然とした。
  清盛の目指すところは、軍事的独裁政権の樹立であっ
 た。
  後白河院は、政権の放棄を誓約して、屈服した。
  これは無条件降伏であった。
  清盛は、直ちに、関白・基房を罷免して、基通を関白
 とし、さらに氏長者とした。
  また、基房の子の師家の権中納言中将の位(くらい)
 を奪った。
1179年11月16日、平清盛が、さきに院から罷免されてい
 た明雲を天台座主に還補した。
1179年11月17日、平清盛は、この日、太政大臣・藤原師
 長(もろなが)、権大納言・源資賢(すみかた)以下、
 後白河法皇近臣39人を解官した。
  続いて、基房を大宰権師に左遷し、師長を尾張に流す
 など流罪・追放の処分を発表し、
  後鳥羽法皇を鳥羽殿に幽閉した。
  ここで、平氏は、名実ともに六波羅政権と呼ぶにふさ
 わしい軍事的独裁権力を樹立した。
  これまでは、平清盛が、いかに廟議を制しようとして
 いようと、最高権力者は後白河院であった。
  院を失脚させ、反平氏的な公卿を一掃した清盛は、反
 平氏グループの知行国・所領荘園を奪って、一族に分け
 与え、知行国支配の体制を整えた。
  この月、備前に移されることとなった前関白・基房の
 配流を阻止しようとして、興福寺の大衆が蜂起した。
  平清盛は、そうした反対に耳を貸さなかった。
1180年、後鳥羽上皇が生まれた(1180年〜1239年)
1180年2月、高倉天皇退位、安徳天皇即位す(在位、1180
 年〜1185年)
1180年2月19日、衆徒らは、院ならびに上皇を、平氏の手
 から奪い取り、上皇厳島神社参詣を食い止めようとし
 た。
  平清盛は、宗盛・知盛(とももり)らに鳥羽殿や上皇
 の御所を警備させ、2月19日には、上皇厳島に向かっ
 て出発した。
  平清盛は、厳島信仰を通じて、瀬戸内海の海上権を握
 る中国・四国・九州の土豪・武士との連携を強めようと
 したと考えられる。
  これは、寺院勢力に連合の契機を与え、平氏の運命を
 左右するほどの暴挙であった。
1180年2月、平清盛が、この月、摂津・大輪田泊(おおわ
 だとまり)の改修方針を決めて、海上交通、日宋貿易
 の保護に乗り出し、貴族たちの宋銭の使用反対を無視す
 る態度を明らかにした。
  そして、孫にあたる2歳の皇太子を即位させ(安徳天
 皇)、独裁体制への布石を進めた。
  また、平清盛は、高倉上皇の譲位の後、最初の社参先
 を賀茂か八幡という恒例を破って、厳島としたことも南
 都・北嶺に対する一種の挑発に他ならない。
  加茂・石清水(いわしみず)の衆徒大衆は、たちまち
 憤激して蜂起した。
  この事件は、日ごろ、犬猿の仲にある延暦寺三井寺
 興福寺などの僧兵が連合して平氏にあたる動きを取り始
 めた。
1180年4月、源頼政は、平清盛に従って公卿の地位に登り、
 その恩顧もあったが、南都・北嶺の反六波羅的気運の高
 まりに支えられて、法皇の王子・以仁王(もちひとおう)
 の令旨を受けて、園城寺興福寺の僧兵らと挙兵した
 (4月)。
  源頼政が、後白河の第二皇子・以仁王にすすめて、紀
 伊の新宮に居た源義盛(よしもり)らも加わって密計は
 進められ、
  義盛が、八条院蔵人として、平氏追討の令旨を、諸国
 に伝えた。
  以仁王は、その母の関係から平氏にも、摂関家にも、
 縁故がなく、それ故、親王の地位にもつきえぬ不遇をか
 こっていた。
  計画は、王が猶子(ゆうし、養子の事)となっていた
 八条女院の200か所と称さされる広大な所領に伝えられた。
1180年4月、平家独裁の強化にともない、院・公家・寺院
 など反平氏運動が起こり、この機運に乗じ、源氏は、以
 仁王を奉じて挙兵した。
  以仁王は、後白河院の第二皇子であり、王の行動の背
 後には後白河院があった。
  王が、猶子になっていた八条女院後鳥羽院の娘)は、
 膨大な荘園を持っており、この女院の蔵人をしていたの
 が、源義朝の弟の行家で、彼が王の令旨を全国の源氏に
 伝えた。
  王の挙兵には、こうした経済的背景があった。
  源頼政は、平治の乱平清盛方につき、清盛の推挙で
 公卿に列した只一人の源氏であるが、
  以仁王の反平氏運動に加わり、畿内の寺院勢力を背景
 に挙兵した。
  この挙兵は、失敗に終わったが、以仁王の令旨を受け
 た反平氏の活動は活発となった。
1180年5月26日、源義時の長男・義盛の行動から、密謀が
 事前に探知され、
  平氏は、以仁王の逮捕の行動を起こした。
  王は、叡山の勢力を頼んで園城寺三井寺に入り、頼
 政の挙兵を待った。
  頼政は、予期しなかった発覚のため、畿内・近国の反
 平氏的武士を糾合する事が出来ず、
  わずがな手兵を率いて王と合流した。
  そのため、戦いは、初めから不利となり、しかも、平
 清盛の工作により、叡山・園城寺の中に、平氏に内通す
 る者も出た。
  5月26日、興福寺に向かって落ち延びようとする途中、
 宇治川にて撃たれた源頼政(1104年〜1180年)は戦死
 し、以仁王もまた流れ矢に当たって倒れた。
  失敗に終わったが、この事件は、諸方面に与えた影響
 の大きさは計り知れないものがあった。
1180年6月、平氏が福原に遷都した(6月)。
  地方の情勢は次第に険悪となり、国司を襲撃する地方
 武士の動きも見え始めた。
  叡山では、明雲の説得によって、からくも堂衆の蜂起
 を押さえる事が出来たが、興福寺は公然と反旗を翻した。
  平清盛にとって、その周囲は、ことごとく敵であった。
  清盛は、寺院勢力の圧力に抗しかね、ついに、福原に
 遷都した。
  清盛にとっては、西国から運上される年貢を、一手に
 収納する事が出来、そのためだった。
  また、南都・北嶺の圧迫を逃れ、
  安徳天皇後白河院と高倉院の両院を奉じ、摂政以下
 の公卿と共に、福原に遷都した。
  しかし、高倉院の病気や、公卿の不平や、山門の要望
 や、源頼朝の挙兵などのため、11月には、旧都に復さね
 ばならなかった。
1180年6月、源頼朝が、ひそかに兵を募る。
1180年6月、源頼朝が、伊豆に挙兵した(9月?)
  頼政の密謀で、以仁王の令旨をたずさえて東下した源
 行家(義盛)によって、伊豆の頼朝にも伝えられた。
  頼朝の挙兵は、この令旨が契機となった。
  しかし、挙兵と言っても、関東に源氏の譜代恩顧の武
 士がいかに多いとはいえ、何らの地位権力もない頼朝に、
 そのどれ程が、応ずるかは疑わしかった。
  北条の北に接して山木兼隆(やまぎかねたか)が伊豆
 の目代(もくだい、国主の代理人、代官)として、また、
 平氏一門として威勢を振っていた。
  源頼朝は、北条時政に助けれれて挙兵し、石橋山の戦
 い(8月23日)で敗北し、後に、富士川の戦い(10月20
 日)に勝利し、東国経営へ。
1180年8月6日、源頼朝は、北条時政と密議して、山木兼隆
 を奇襲する日時を、17日払暁(ふつぎょう、明け方)と
 決定し、その日、工藤介茂光(くどうのすけもちみつ)・
 土肥実平(どひさねひら)以下の武士たちを一人ずつ引
 見して協力を懇請した。
1180年8月17日、源頼朝が、山木兼高を急襲する日、予定
 の時刻までに参加を確約した佐々木定綱・経隆(さねた
 か)・盛綱・高綱兄弟の到着が遅れたため、攻撃はやむ
 を得ず延期された。
  貞綱らは、ようやく午後になって参着した。
  この4人の到着は、頼朝を喜ばせ、また、士気を鼓舞し
 た。攻撃は夜に入って開始された。
  当日は、三島明神の祭礼で、山木の館の守備は手薄で
 あったから、かねて内定してあった館内に切り込むのは
 たやすかった。
  頼朝は、運命を掛けたこの攻撃に、直接には加わらず、
 北条にとどまって、その成功を祈っていた。
  夜の白む頃になって、頼朝の軍師達が兼高の首を取っ
 て引き上げてきた。
  これは、合戦と言うより奇襲・暗殺と言うものであっ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009