(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年〜1183年)

 題:(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年〜1183年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1180年8月20日源頼朝は、住み慣れた蛭ガ小島を離れて
 相模へ向かった。
  妻の政子を伊豆山の走湯権現に託した。
  因みに、走湯権現(はしりゆごんげん)は、院政期、
 上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびていた。
  応神天皇の時代に、日金山頂上に現れた円鏡を松葉仙
 人が奉祀(ほうし、神仏・祖霊などをまつること)した
 のが始まり。
1180年8月22日、源頼朝のところに三浦義澄(よしずみ)
 以下その同族武士が到着して、兵力は、ようやく、300
 ばかりとなった。
  だが、すでにこの時、平氏側は、相模・武蔵・伊豆の
 武士3000を集めて、頼朝を石橋山に包囲していた。
  包囲軍は、大庭景親・渋谷重国ら相模の名のある武士
 たちが多くが加わり、武蔵の熊谷直実(くまがいなおざ
 ね)もいた。
1180年8月23日、石橋山の戦い
  包囲軍は、三浦武士団の救援を恐れていたが、23日、
 風雨をついて攻撃を開始した。
  兵力に桁違いの差異があったため、勝敗は、初めから
 明らかであった。
  頼朝方は、なすことなくして完敗し、軍勢は四散した。
  北条時政らは、箱根を抜けて甲斐に落ち、甲斐源氏
 援助を求めようとしたが、それにも失敗し、三浦義澄は
 本領に逃れた。
  源頼朝は、退路を失って、山中の洞窟に潜むところを
 囚われそうになったが、敵将・梶原景時の思惑により、
 九死に一生を得て、28日に、真名鶴(まなづる)崎から
 安房に逃れた。
  三浦一族も、本城・衣笠城を畠山重忠河越重頼・江
 戸重長ら、相模・武蔵の武士たちに包囲され、ついに、
 老齢の義明は城を守って戦死し、子・義澄以下が、から
 くも脱出して、これまた安房に逃れた。
  上総介広常(かずさのすけひろつね)が、三浦氏と結
 んでいたので、房総の地ばかりが、わずかに再挙(さい
 きょ、再び起こす事)を期待し得る落ち先となった。
1180年9月、木曽(源)義仲が、信濃に挙兵した。
1180年9月、源頼朝が、上総から下総に進む。
1180年10月、源頼朝が、武蔵に入る。
  畠山重忠・河越忠頼・江戸重長らが来属する。
1180年10月6日、源頼朝が、鎌倉に入った。政子も鎌倉に
 来る。
1180年10月16日、源頼朝が、平維盛の率いる平氏の軍を
 迎撃のため、鎌倉を進発した。
1180年10月18日、甲斐源氏の軍が、源頼朝軍に合流した。
1180年10月20日富士川の合戦で、平氏が敗走した。
  石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、安房国で再挙し、進
 軍しながら東国武士がこれに参集して、大軍に膨れ上が
 り、鎌倉に入った。
1180年10月21日、源義経が、参着した。
1180年10月27日、源頼朝が、常陸佐竹氏の征伐に向かう。
  かつては源氏の系列であったが、佐竹隆義の上洛中に
 源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平氏に従
 っていて、源氏であるのに、頼朝に呼応しなかった。
1180年11月5日、源頼朝が、常陸佐竹氏を壊滅した。
1180年11月17日、源頼朝が、鎌倉に帰還した。
1180年11月17日、源頼朝は、武士化した地方官人による
 行政の府である侍所(さむらいどころ)を関東鎌倉に設
 置した。
  はじめは、頼朝警護の宿直所、のち御家人統制・軍事・
 警察を扱う。初代別当和田義盛
1180年11月26日、福原遷都失敗。旧都(京都)に復した。
1180年12月、平氏が、近江の源氏を破った。
1180年12月29日、平清盛は絶望的な孤立の内に、清盛の
 命を受けた平重衡が、南都東大寺興福寺を焼き打ちす
 るという暴挙に出ざるを得なかった。
1180年、尊厳王と呼ばれたフランスのフィリップ2世が、
 王位につく(〜1223年)。
  日本は、古い歴史を持つ国民で、古代から日本人であ
 ったが、ヨーロッパにはこの古代がない。
  ヨーロッパ大陸に、4世紀から始まったゲルマン民族
 侵入。
  この民族との混住が始まり、そして、結婚と混血が始
 まる。
  年を経て、その混血度合いの違いと、その混血した人々
 の新しい民族意識が出来上がって行って、ドイツ・フラ
 ンス・イタリアといったおおよその原型ができ始めた。
 この時が10世紀ぐらいの時。
  フランスが、何らかのフランスという自覚を持つのも
 12世紀を待たなければならない(フィリップ二世の尊厳
 王在位1180年〜1223年)。
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な織
 物商人の家だった。
1181年、この年、飢饉となった。
1181年1月、高倉上皇崩御した
1181年1月、平宗盛が、五畿内・伊賀・伊勢・丹波の惣官
 (そうかん、軍事的な権限を持つ臨時の官)となる。
1181年2月、志田義広源頼朝に叛す。
1181年2月、平清盛が没した(1118年〜1181年)→都落
 ち・平氏没落(1183年)
1181年3月、源頼朝が、武田信義を疑い、起請文を捧げさ
 せた。
  この様な事を頼朝がした原因は、後白河法皇が、武田
 信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は、
 駿河守護を解任されたうえ、鎌倉に召喚され、起請文を
 出した。
1181年3月、墨俣川の戦い
  源行家軍と平氏軍が墨俣川で戦い、源行家軍が大敗し
 た。
  この戦いは、平氏富士川の戦いで敗れたが、再度、
 頼朝軍を追討するため、軍を東国へ派遣した。
  これを、源行家軍が、墨俣川に陣を敷き待ちかまえて
 いた。
1181年6月、越後の平氏側の城氏が、源義仲と戦って敗れ
 た。
  この年の2月に、平家が、城氏に源義仲追討を命じてい
 た事に応じた行動であった。
1181年7月、平氏が、北陸道の源氏を討たんとして兵を送
 る。
1181年8月、源頼朝が、後白河法皇に密使を送り、政治意
 見を具申した。
  「玉葉」の中に、頼朝が、平氏との『和平を提案』し
 たと記されている。
1182年1月、京都の飢饉が深刻となった。また、疫病のた
 め、死者、巷に満つとある。
1182年2月、平氏が、北陸道に出兵した。
1182年8月、政子が、源頼家を生んだ(1182年〜1204年)
1182年10月、源義仲が、北陸へ進出した。
1183年、北条泰時が生まれた(1183年〜1242年)
1183年、この年の冬、源頼朝が、上総介広常を殺す。
  これの大切なところは、房総の平氏惣領家頭首であり、
 東国最大の勢力であった。
1183年3月、源義仲が、子の義高を源頼朝のもとに送った。
1183年5月、源義仲が、越中栃波山の合戦で平氏を破った。
1183年6月、延暦寺が、源義仲に呼応した。
1183年7月、木曽(源)義仲の挙兵・越中倶利伽羅峠で平
 氏を破り、京都へ入るも人望を失う→法皇、その征討を
 令し、源範頼(のりより)・源義経ら京へ入り義仲を破
 る(義仲失脚)
1183年7月22日、源義仲が、延暦寺に入った。
1183年7月24日、法皇が、延暦寺に潜幸した。
1183年7月25日、平氏が、都落ちした。
1183年7月28日、木曽義仲・行家が、京都に入った。
  木曽義仲法皇の御所を襲った。
1183年8月、後白川院が、平宗盛以下の平氏一門、200人
 余りの官職・官爵を剥奪した。
1183年9月、後鳥羽天皇(在位、1183年〜1198年)
1183年9月、源頼朝が、院の申し入れに返書を奉る。
1183年9月、源頼朝に、東国沙汰(支配)権を認める宣旨
 が発行された。
  朝廷は、宣旨において、頼朝に対し、東国における荘
 園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
 頼朝による東国支配権を公認した。
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