(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月〜1570年11月)

(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月〜1570年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1570年8月20日、信長が、この日に、岐阜を発った。意を
 決しての出陣だったのだろう。
1570年8月23日、信長が、京都に入った。
1570年8月25日、信長が、河内枚方(ひらかた)に陣を
 張った。
  信長にしては、比較的ゆっくりとしたペースであった。
  そして、天王寺に陣を据えると・・、
  「大阪・堺・兵庫辺りより異国・本朝の珍物を捧げ、
 御礼申さるる仁、御陣取の見物の者、群衆をなす事に候」
 の状態であった。
  信長に感謝し御礼する者があったという。
1570年9月、石山本願寺が挙兵した。
  また、浅井・朝倉が再起した。
  本願寺は、秘かに、三好党や浅井・朝倉に気脈を通じ
 ていたが、9月初めに、門徒に挙兵を呼び掛けた。
  信長は、本願寺の挙兵が近いとみて、自ら指揮して井
 楼(せいろう)から「大鉄砲」で城中にうち入れ、
  住吉・天王寺あたりに陣取った信長方の根来(ねごろ
 )・雑賀(ぞうが)などの紀伊衆2万も、鉄砲3000挺
 で攻撃した。
  「御敵味方の鉄砲、誠に日夜天地も響くばかりに候」。
  根来は、最初の鉄砲生産地で、根来寺の僧兵が義昭に
 加勢したのは、信長にとって非常に有利であり、この点
 でも、義昭は、なお利用価値があった。
  また、大鉄砲を備えた井楼も、義昭が、京都の鍛冶番
 匠を招いて作らせたものであった。
1570年9月12日、三好方は次第に弱って、和を求めたが、
 信長は許さなかった。そして、攻撃をゆるめなかった。
  度々の繰り返しての反抗だったからだろう。
  そこで本願寺光佐は、「野田・福島落居候わば、大阪
 (本願寺)滅亡の儀と存知」と、ついに自らも参戦を決
 意し、9月12日に、門徒はその指令に従って、信長の陣
 を襲った。
  こうして、1580年に至るいわゆる石山戦争が始まった。
1570年9月20日浅井長政朝倉義景が、南近江に出兵し
 た。
  そして、滋賀郡宇佐山城を攻めて、織田信治森可成
 を戦死させた。
  また、勢いに乗じて山城に攻め込み、山科・醍醐に放
 火し、京都の東部・北部に陣を敷き、京都周辺の社寺に
 軍勢の濫妨禁止(らんぼうきんし、乱暴のこと)その他
 の制札(せいさつ、立て札)を立てた。
  知らせを受けると信長は、すぐ義昭と一緒に、帰京し
 た。
  退却にはかなり苦労したようだが、やはり誰も追撃し
 て来なかった。
  信長の進撃を見て、浅井・朝倉は、比叡山中の青山・
 鉢ヶ峰・坪笠山に陣取った。
  信長は、延暦寺の僧を招き、味方になれば領国内の寺
 領を返す、僧侶の身として味方できなければ、中立を守
 れ、承知しなければ、全山を焼き払うと申し渡したが、
 承知しなかった。
  しかし、まだいきなり延暦寺を攻める事はできなかっ
 た。
1570年10月1日、篠原長房一党が、三好・本願寺を助ける
 ため、阿波・讃岐の兵を率いて、摂津中島に着いた。
  翌2日付け、遊佐某宛の手紙で、信長は、秀吉・丹羽
 長秀らが、京都東山一帯に陣を取るべく、三好が淀川を
 越えて攻めて来ても、即時、討ち果たす・・と書いてい
 る。
  信長が、京都東山に防備戦を張らねばならぬような事
 態はかつてなかった。
  信長は、確かに苦境にあった。
1570年10月7日、本願寺が挙兵すると、義昭は、勅命をも
 って本願寺に戦闘を停止させるよう奏請(そうせい、天
 皇に奏上して裁可をもとめること)した。
  その結果、天下静謐(天皇の命令・勅定によって私闘
 禁止を指令する)のために、出陣した将軍と信長に向か
 って一揆を起こすのは不届きとの勅書が出た。
  浅井・朝倉の再挙まじかしと察知した信長が、義昭に
 強制して事を運んだのだろう。
  義昭は、三好を討つため、摂津に出陣したが、決して
 本願寺を敵にしたのでなく、本願寺もまた、信長には敵
 対したが、将軍を相手にするとは夢にも思わず、義昭が
 信長と組んで出陣したことを意外とし、遺憾とした。
  それに乗じて、信長は、義昭を動かしたのであろう。
  ところが、信長の予想通り、浅井・朝倉が再挙したの
 で、勅使は恐れて引き返し、勅書は本願寺に届かず、信
 長もまた軍を引いた。
  それに力を得たか、光佐はさらに10月7日、筑後・讃
 岐・阿波及び近江の門徒に挙兵を呼び掛けた。
1570年10月8日、家康が浜松に移ったその直後、家康は姉
 川の戦に出陣し、信長と結んで、浅井・朝倉を痛めつけ
 たのをきっかけに、家康と信玄は公然と絶縁した。
  そして、家康と謙信は接近して、10月8日に、家康は、
 誓書を謙信に送り、信玄ときっぱり絶縁することや、信
 長・謙信の和睦をはかること・・などを約した。
1570年10月30日、青蓮院門跡の尊朝法親王が、本願寺
 佐に、信長との講和を勧めた。
1570年10月、10月初めから12月初めにかけ、京都西郊の
 西岡に断続的であるが土一揆がおこり、幕府は徳政を行
 った。
1570年11月21日、伊勢長島の一向一揆が、織田信興を攻
 め殺した。
  伊勢長島の一向宗徒が、尾張海部郡小木江城(今の同
 郡弥富町)を攻めて、信長の弟・信興を自殺に追い詰め
 た。信長は助けられず、見殺しにするよりほかなかった。
1570年11月21日、小木江城の陥落のこの日、信長は、六
 角承禎・同義治・篠原長房と講和した。
1570年11月28日、天皇の命令で和睦が成った。
  この日、将軍・義昭は、関白・二条晴良とともに、三
 井寺に下って講和を斡旋した。
  信長と朝倉義景は承諾した。
  天皇が和睦を命じ、それに従うということで、和睦が
 成立した。
  それぞれが、分国へ引き上げた。
  そして、12月に至って、信長と浅井・朝倉とが和した。
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