その固定されたキリスト教意見に、洗脳されて・・、

 題:その固定されたキリスト教意見に、洗脳されて・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教聖職者や、キリスト教関係者の方々が・・、
 よく言う言葉に・・、
 「私は○○協会の『聖書、△△訳』をお薦(すす)めし
ます」・・という言葉がある。
 これは、明らかに・・、
 キリスト教の方々は、口を閉ざしてはいますが・・
 「不良な『聖書』が存在している」ことを示している。
 本の名前こそ「聖書」としているが・・、
 「聖書に非(あら)ず」の表明となっている。
 本当は、すべてが「危険図書、不良書籍なのだ」が。
 人生を狂わせます・・が、
 そして、1例・・共同訳という聖書がありますが・・、
 つまり、キリスト教の各派閥が共同して訳したという版
なのですが・・、そして、
 この版が・・よく・・推薦と言われているが・・妖(あ
や)しい限りです。
 1例を言えば・・、
 その各派閥がA説を持ち、また、B説を持ち、そして、C
説を持っていて・・、その話し合いが、うまくまとまらな
かったのだろう・・、
 その聖書には・・A説とB説とC説のすべてが・・書き込
まれるという・・まったくのお粗末を演じている・・。
 宗教書としての意味が成していない・・主張点が無くな
って、天に舞っているいるが如(ごと)きの、何ら役に立
たない記述となっている。
 聖書それ自体がおかしい書籍なのだが、何をかいわんや
である。低劣なことをやっている・・。信用はできません。
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 (参考)なにをかいわんや【何をか言わんや】:何を言お
   うか,何も言うことはない。おどろきあきれて言う
   べき言葉もない。

 そして、次の話。
 キリスト教聖書は、昔話の物語のような単純な話ばかり
だが、
 例えば、「こぶとり爺さん」の様に「良いおじいさん」
と「悪いおじいさん」が出て来て・・、
 こうだから良いおじいさんに良い結果になりました的な
話ばかり・・、
 しかし、『キリスト教は深いのだ」と言いたいキリスト
教聖職者は・・、
 色々理屈を・・捏(こ)ね回した後に・・、
 『・・しかし、教会無しに、キリストは世に現臨する事
は出来ない。教会はキリスト教が世に働く媒体であり、そ
の意味でキリスト教会に在し、教会とキリストの関係は、
生体の肢体と生命との関係に類比的なのである。こうして
教会がキリストの定めを成就している限りで、キリスト教
会の中に現臨する」・・と、来る。結局、ここが好きなの
である。
 まったく教会の自己宣伝の話に帰結する。我田引水の論
理だ。
 キリスト教を説教するのではなく、説くのではなく、『
キリスト教会が良いのだ』・・と、説く。
 そしてまた、こんな理屈を知って・・何の役に立つのだ
ろうか?
 貴重な人生の時間が失われるだけだ。
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 そしてまた、次の話。
 キリスト教聖書に書いてある・・イエスの言葉だとされ
ている言葉は・・、
 実際、「イエスの言葉なのだ」と言える言葉は、ほとん
どない・・、というのが・・、現代科学の下において・・
キリスト教聖書を研究する学者の見解となっている。
 そのイエスが言ったという・・イエスの譬(たとえ)話
だとされる「放蕩息子」の話、(「ルカによる福音書」15
・11〜32)は・・、
 キリスト教聖職者が宗教的な美化をして・・、そして、
「尾ヒレ」や、「はひれ」を付けて、宗教的な話にして話
さないと何ら宗教的な話には聞こえないという話である。
 その内容は・・「近所の噂話のたぐい」で・・、
 キリスト教会が、「キリスト教の聖書を、自分一人で読
んではいけない」と禁止する由縁(ゆえん)である。
 その内容は・・二人の息子の弟の方が・・、財産を貰っ
たがよいが放蕩して使ってしまったというのが事の発端。
 そして、金の無くなった弟は、窮地に陥(おちい)った。
 そして、頭を下げて、家に帰る事にした。
 その時、父親は、その息子の弟の方を、温かく迎える・
・という線に収(おさ)めているのが・・聖書の筋なのだ
が・・、
 兄の方は、それが気に入らない・・ここが、この聖書の
記述の主要点。
 兄が不満で父親へ言う・・、
 「私は、何年も・・真面目に・・あなたに仕えて・・、
一度も・・あなたの言いつけに・・そむいてなかったのに」
・・と、
 そして、「また、遊ぶための財産を少しだってもらった
ことはありません」・・と。
 そして、また、「それなのに、弟は遊女どもと一緒にな
って、あなたの身代(しんだい)を食いつぶしたんですよ」
・・と、
 そして、「このあなたの子が帰ってくると、喜んだりし
て、歓待したり・・」・・と不満を言う。
 父親は、「生きて帰って来たのだから」と父親は言う。
 この聖書には・・イエスの見解は・・はっきりと書いて
ないが・・、
 イエスは、父親の考え方の賛成派なのだろう。
 話の流れから・・。
 しかし、これは、判断の難(むずか)しい面はあるが、
 例え、父親の方に肩を持つにしても、手放しで賛成して
はいけない話である。
 キリスト教は、この時、『ある一定の固定した見解』を
良しとして・・『宗教的に是としてしまう』。
 まったく、『多様な意見の出る様な場ではない』。
 また、『聖職者のお好み』で、色づけされた意見を、そ
れを『良しとしてしまう』。
 信徒は、その固定されたキリスト教意見に、洗脳されて、
極端な場合は、十字軍のファッショ的な洗脳が、毎回、な
されている、教会は、マインド・コントロールの場と化し
ている。
 自由な発想の・・結論へ導くという所作の・・芽が摘ま
れる場となっている。怖いことだ・・。
 そしてまた、このキリスト教聖書は、「舌足らず」にな
っていて・・、
 そこを説いてこそ、「深さが出て来るのであろう」が、
キリスト教聖書は、いつも、その様な面倒なところは、い
つもの様に逃げている・・、だから、浅いのだ・・、
 なんら深い話では無くなっている。当り前の話になって
いる。
 つまり、この話はキリスト教聖職者に下駄が預けられて
いる。美しく装飾する聖職者の出番の話なのである。
 逆の言い方をすれば、聖職者がお好みでコントロール
る話となっている。
 この様な書き方をするキリスト教聖書には深い話はない、
 この様な書き方もあって「良い話とはなってない」。
 キリスト教聖職者が話を作らなければ、子供の昔話の、
「こぶとり爺さん」の話のレベル。「道徳本レベル」なの
だ。
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 (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /