今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。

 題:今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教聖職者が書いた本を読んでいて、「おや」っ
と思う記述があった。
 それは、聖書の(「マタイによる福音書』5・39)に、
 イエスの言葉だと言われている・・、
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けな
さい」・・とあるが・・、
 また、(「マタイによる福音書』5・44)に、
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」・
・とある
 ・・が・・、
 この本の著者のキリスト教聖職者は、正直に、心の内を
話していた・・、
 このイエスの言葉とされる言葉を、『手放しでの全面肯
定』をしていなかった。
 キリスト教聖職者としても、珍しいことを言う人である
が、部分的であるが、『イエス批判』となっている。
 このキリスト教聖職者が言うには・・、
 『これは、相手を攻撃するという態度ではなく、相手を
受け入れる態度を教えている。しかし、こうした態度をと
っていれば、すべてが解決するかどうかは、明らかではな
い』・・と、はっきり言った。
 『しかし、少なくとも受け入れの方が、社会を築いて行
くに違いない』・・とも。
 そして、『我々は罰する行為をまずする事ではない』・
・と。
 キリスト教の宗教に固定された『お定まりの回答の規制
枠』の箍(たが)から飛び出ている意見だった。
 だから故、イエスの言葉の危険性、リスクにも触れ、漂
(ただよ)わせた意見となっている。
 『意見の多様性に触れる自由がキリスト教にない』のが
リスクなのだが、この点を改善している意見だった。
 これなのだ、キリスト教の考えの枠の危険性を自覚し、
緩和している。
 しかし、キリスト教には危険な思想の「同罪報復」の教
義がある。
 この古代の思想が、まだ現代の『今にも』、キリスト教
内では生きている。
 これも唾棄すべきキリスト教教義であるのだが・・、
 この事例は、キリスト教のこの「同罪報復」の教義の否
定にもなっている。
 そしてまた、十字軍の行動批判にも通じている。
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 そして、次の話。
 キリスト教のイエスのこと・・、
 エルサレム神殿の前の店を仲間といっしょに大暴れをし
て壊したイエスたち・・、
 その、イエスとその仲間たちの罪は・・どうなのか?
 イエスだけが無罪で・・イエスの仲間たちが・・有罪な
のか? 
 または、全員が、イエス及び仲間たち全員が、有罪なの
か? または、逆に、全員が無罪なのか?
 そして、イエスが有罪で、仲間たちは無罪なのか?
 判断を・・ユダヤ教の法律的に考えれば・・明らかに全
員が有罪だろう。その様な悪いことをしたのだ。
 だが、しかし・・考える点を、宗教的な面に置けば・・
 無罪とする根拠を、キリスト教的な神か否かに・・置け
ば・・、
 仲間たちは・・明らかに神ではないから・・有罪となる。
 そこで、イエスはどうなのか・・と、考えれば・・、
 キリスト教公会議でも、もめた様に・・、イエスは、
この数回の公会議でも決まらず、やっと・・神になれたの
だから・・でも・・
 イエスが神なのだ・・とすれば、イエスは無罪となる。
 しかし、イエスは、いつ、神になれたのかを、もう少し
考えれば、キリスト教はこうも言う・・、
 『イエスが、十字架刑になった時に、神になったのだ』
・・と言う、そして、この時に、神と契約をしたのだと・
・新約なのだと・・この考え方が根幹なのだと・・。
 この事から考えれば、イエスは、この神殿前での大暴れ
の時は、まだ神になっていないとなる・・、
 ・・と、すれば・・、イエスも有罪となる。
 このことはすべてに言える事となる・・
 これは大変な事になる、その十字架刑以前には・・すで
に・・イエスは、神の様な振る舞いをたくさんしている。
 すると、姦淫の女を・・イエスが赦した時はどうかと見
てみると・・、
 イエスは言った、「あなた方の中で(いままで)罪を犯
した事が無い者が、この女に石を投げて(罪が問える)」
・・と、まるで、神の様な振る舞いで裁く・・、
 『裁くな』というキリスト教なのに・・、神以前のイエ
スが・・。
 すると皆は、帰って行ったという。そして、イエスも・
・、「私もあなたを罰しない」と言ったという。
 つまり、イエスも、『帰った人と同じ行動をする』と言
ったという。
 神以前の自分を自覚していたとも言え・・また、同じ様
な人間だと思っていたとも言える。
 決して、イエスは、『神だとは思っていなかった』・・
とも、言える。
 神となる十字架刑以前のイエスだから・・。
 しかし、イエスは、「中風の男に『あなたの罪は赦され
た」と言った様に、神以前のイエスが、人を赦して、神の
振る舞いをしていた。
 神以前の人の立場で、『裁くな』というキリスト教の教
義も、何も、あったものではない・・。
 ここでは、人の罪をとやかく言うという『裁く行為はす
るな』というキリスト教の教義は、あったもんではないと
なっている。
 この時に、ユダヤ人の方がイエスに言ったという・・「
何故、人の罪をとやかく言う事が出来るのか?(神以前の
エスが)」・・と。
 「(神の様な事をして)神を犯し、汚(けが)している」
・・と。
 本当は・・このユダヤ人の方のほうが・・正しいのだ。
 イエスは、何しろ、やりたい放題だった。
 今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。
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