正しくは、無償の中で正義を求める・・、

 題:正しくは、無償の中で正義を求める・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、赦しの宗教と言われている。
 「赦(ゆる)す、赦す」と言い・・、
 そして、「赦しが大切」だと言うが・・
 そして、「赦しの大切さを教える宗教」だと言うが・・、
 また、その赦しに博愛があると言うが・・
 そしてまた、だから「広い心の宗教」だと言うが・・、
 しかし、これ等の話は違う、嘘だとしか言えない。
 キリスト教の得意なプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
 何も、キリスト教を深く読まない方々に真実を伝えてい
ない。
 キリスト教の神は代償を求める。
 代償を求める神なのだ。
 キリスト教は・・、
 「代償を求める文化の中にできた宗教」なのだ。
 だから、キリスト教の神はその様な、「代償を求める神」
なのである。
 キリスト教の神は犠牲を求める。
 キリスト教の神に犠牲(いけにえ)が捧(ささ)げられ、
その捧げられた生け贄(いけにえ)の中で、神の赦しが出
る。
 その様な宗教と文化なのである。
 無償の中で、キリスト教の神の赦しが出るという宗教で
はない。文化ではない。
 広い心からの赦しではない。狭いのだ。
 この様な発想の中で、これが正しいのだと、長い間、行
われて来た、これが正義と考え、判断され、行われて来た。
 文化がこの様なものだった、この様な伝統だった、
 そして、宗教もこの様になった。
 生け贄を要求する神が出来上がった。
 真実は、無償の中に「赦し行為」があるのが、「正義」
であり正しいのであるが・・、
 結局、キリスト教は、この様にはならず、狭い考え方の
中で正義と求め、捉(とら)えた。
 無償の赦しに思い至らなかった。その様な考えに至らな
かった。
 すべてに、代償を求める赦しの文化で、そして、宗教で、
存在し、存在した。
 「目には目を」の教義があるが、加害者の目を差し出し
て、赦しを乞う考え方である、教義である。
 被害者の赦しに「加害者の目を要求する」。そこに卑劣
さがある。加害者へも同等の、『視力を奪って』赦すとい
う、「目には目を」もこの狭い考え方から出る。
 そして、行き着いたところが・・、
 「イエスの命を奪って赦すという教義」である。
 「イエスの命を奪って、赦された人間の原罪」という教
義。
 やはり、この発想で教義が出来、宗教ができる。
 その様な考え方に基づくところにキリスト教の根幹があ
る。
 心が広い考え方・教義であれば、「イエスの命を奪わな
いで良かった」。正しくは、「こうあらねばならなかった」。
 これが、正しいのである、正しい宗教なのである、正義
の宗教なのである。
 ここからスタートするべきであった。
 赦すための生け贄を要求する卑劣な神、劣った神、この
劣った考え方から宗教、キリスト教はスタートした。
 そこから派生した教義が、戦争を増やし、犠牲者を増や
し、無念に亡くなった方々が、この宗教の周りに累々と存
在した。
 次世代へ伝えて行っては「いけない宗教」なのである。
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