同じ民族と・・同じ信仰をする者だけの・話

 題:同じ民族と・・同じ信仰をする者だけの・話
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、愛の宗教ではありません。
 愛についてなど、ほとんど言っていません。
 そのほとんどが、選民だとして自画自賛した民族が、生
き残ることと、戦争のことです。
 キリスト教は愛の宗教と言いますが・・嘘です。
 愛の宗教へ「逃げ込まざるを得ない状況」だから、その
様に、必死になって言っているだけです。
 キリスト教がよく言う嘘となっています、プロパガンダ
(嘘宣伝)です。
 キリスト教の聖書に、僅(わず)かに、愛を言っている
ところがあります。
 キリスト教の聖書に、「愛する者たちよ、愛し合おうで
はないか」と、愛し合おうと呼びかけています。
 キリスト教は、声を大きくして、「キリスト教は、愛の
宗教だ」と言いますが、キリスト教学者でさえ・・、
 「そうではない」ということを、示しています。
 キリスト教学者は、キリスト教の根幹の教義を説いてい
ますが、愛など、ほとんどないことを示しています。
 キリスト教学者は、キリスト教の教義の根幹・考え方を
説明する中で、愛の話から遠く離れた「キリスト教神学A」
とか、「キリスト教神学B」だとかと説いています。
 キリスト教が、その愛の宗教だなんてことを、まったく
説明していません。
 そして、そして、最後の方になってやっと・・、「僅(
わず)かだ」という表現を使って説明しています。
 『キリスト教には分量は多くなく(僅か)」・・として、
キリスト教の愛の話の僅かなことを示し、キリスト教の愛
の説明をする。義理を果(は)たすかのように・・。
 キリスト教は、今、「キリスト教は、愛の宗教だ」「愛
の宗教だ」と言いますが、これは、一般の方々を完全に惑
(まど)わす言葉となっています。
 誠実なキリスト教ではありません。
 人々に誤認混同(ごにんこんどう)を起こさせています。
 このキリスト教学者が、キリスト教の愛の宗教の事例だ
と例示した僅かな事例なのが、それが・・、冒頭の「愛す
る者たちよ、愛し合おうではないか」の言葉です。
 キリスト教が、あれほど『愛の宗教だ』と言うのなら、
キリスト教の聖書の「あちこち」に、愛のことについて書
かれているのかと思われるでしょうが・・、まったく違い
ます。
 キリスト教の聖書に書かれていることは、先にも言いま
した「民族生き残りと戦争のこと」です。
 キリスト教が、民族の生き残りを祈る宗教ですから当然
なことです。
 愛の宗教は、それこそ「キリスト教という宗教が、宗教
として、生き残りをかけて、前面に持ち出した」だけのこ
とです。
 キリスト教の、そのわずかな愛の話も、「愛する者たち
よ、愛し合おうではないか」の言葉の様に、キリスト教
神が愛し合おうと呼び掛けただけに過ぎません。何ら深い
話でも何でもありません。
 キリスト教の有名な「隣人愛」の話も、「同じ民族」で、
しかも、「同じ宗教を信じている人」への愛です。
 その狭い・偏狭(へんきょう)な愛なのです。
 キリスト教は、都合が悪いので、このところは、ひた隠(
かく)しにしています。近頃は、その言葉「隣人愛」は、
あまり言いません。
 キリスト教は愛の宗教ではありません。
 キリスト教は、プロパガンダ(嘘宣伝)で、愛の宗教の
様に思わせているだけです。
 キリスト教の基本的スタンスは、「愛し合おうと呼びか
けても、愛さない者は神を知らない者だ」とするスタンス
です。聖書に記されています。
 これは、神の救いがおよぶ人は、キリスト教の神を信じ
る者だけだと同じスタンスです。
 結局、キリスト教の神は、キリスト教の神を信じない者
を「異教徒」として、キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」
と殺されるスタンスの中に存在する・・と同じ様に、そし
て、異端として、異端者として存在すると同じ様に・・、
 愛についても同じことになります。キリスト教の神を知
らない者となります。
 キリスト教は、キリスト教に博愛がある様に言いますが、
とんでもないのレベル。
 キリスト教には、博愛の精神はまったくありません。
 そしてまた、キリスト教の基本的スタンスは、「人には、
生まれながらの原罪がある」と、人を性悪に捉(とら)え、
信じない異教徒は殺せと、『愛も同じく』、愛さない者は
神を知らない者として排除をする。
 こんなのは愛でも何でもありません。
 勝手に、まったく勝手に、神の愛によって、ひとり子を
この世につかわしたと・・愛がある様に『作り話』を、言
うが、信がなければ排除する様に、愛さないものも排除す
るに帰結(きけつ)します。
 キリスト教には、否定者を受け入れる大きな度量(どり
ょう)はありません。
 大きな度量を持たない宗教、まったくない宗教。逆に、
排除・殺す宗教。
 異端者として排除し、異教徒として排除し、愛さない者
として排除する。愛とはほど遠い宗教というのが真実。
 付け焼刃で作られた「キリスト教の愛の神学」は、底の
浅い付け焼刃です。
 「愛し合うなら、キリスト教の神は私たちの中にどとま
る」。すべて、この考えにとどまり、これ以上になれない
キリスト教の教義の愛。
 博愛のかけらもない。
 愛さない者は、見捨てられ、切り捨てられる。挙句(あ
げく)の果ては殺される。
 同民族的の中の愛の話。
 そして、愛さない者は、永遠の生命は持てないと、罰の
話を持ち出し、脅(おど)し、精神的な、卑劣なストレス
を与える宗教次元。低次元のキリスト教
 この様な宗教は、次世代に引き継いではならない。また、
キリスト教徒のあなた方も・・幸せにはなれません。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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