この様な宗教で、幸せになれるのか?

 題:この様な宗教で、幸せになれるのか?
   (キリスト教のロゴスの薄弱さには・・・)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、大きな宗教となった・・、
 しかし、
 誰が何と言っても・・、
 『ユダヤ教の後発の宗教』なのである。
 ユダヤ教から派生し、生まれた宗教である。
 それ故、何から何まで、ユダヤ教の流れの中にどっぷり
浸(つ)かっているという宗教である。
 キリスト教が大きくなったため、一人で大きくなった様
な錯覚があるが、また、態度であるが、当然、そうではな
い。
 キリスト教は、その様な経緯(いきさつ)から・・『オ
リジナルな宗教』とは言えない。独自性は無い。
 ユダヤ教の流れの中で、その範疇(はんちゅう)の中で、
 動きまわり、考え、教義がなされている。
 それは、やむを得ない、しょうがない事である。
 同じ地域で、同じ民族が、同じ頃に、成立させたという
点から、その独自性が・・出る訳がない。
 成立基盤が同一で、同一の根がある故、やむを得ない事
である。故に、宗教内容に、著しい同一性を持つ。
 何しろ、強く宗教性の性格付けをする『正典が同一であ
り』、この同一性で、「ほとんどが決定」されている。
 宗教が寄って立つ、成り立たせる正典が同一で、違うと
ころがある訳がない。
 歴史的に見ても、キリスト教を遡(さかのぼ)って行け
ば、ユダヤ教の『一宗派』に行き着く。
 キリスト教は、事情が許せば、ユダヤ教内に留まりたい
としていた。しかし、ユダヤ教側から、「破門処分された」。
 しかし、この様な経緯(いきさつ)があるのに、キリス
ト教は、旧約聖書を、キリスト教の独自の聖典の様な発言
をしている。
 キリスト教聖職者は、旧約聖書について、「ユダヤ教
も正典としている」と言っているが、ユダヤ教のオカブを
奪っていて、何をかいわんやである。ユダヤ教の正典を奪
っている事実を曲げようとするキリスト教である。
 この言い方は、完全にキリスト教プロパガンダ(嘘宣
伝)である。キリスト教は、この様な、この類いのプロパ
ガンダ(嘘宣伝)をあちこちでしている。
 ユダヤ教は、「私たちの正典をキリスト教が盗んだ」と
言っているが、これが正しいのである。
 キリスト教は、ユダヤ教から勝手に持ってきた正典を「
旧約聖書」と名付け、使用し、また、キリスト教が作った
新約聖書」とともに正典としている。
 キリスト教の言い訳は、「ユダヤ教の正典を旧約聖書
し、新約聖書に記したイエスの寄って立つところが旧約聖
書に表されているから」としている。
 これは、キリスト教の勝手な論理で、ユダヤ教は、当然、
その様なことは言ってない。
 この様な言い方が成立するのであるならば何でも言えて
しまう。例えば、アインシュタインの「一般相対性理論
と「特殊相対性理論」など何でもよい、言ってしまえば勝
ち的なキリスト教となっている。
 筋の通った論理性はまったくない。
 「子供自慢する親馬鹿」も聞いていて嫌だが、キリスト
教のこの言い方も嫌だ。盗み行為の正当化だ。そして、キ
リスト教は、「こちらが正統なのだ」と悦に入っている。
 ユダヤ教に破門され、独り歩きを強制され、歩いて行く
キリスト教に、さ迷い歩く時が流れていくが・・、
 ユダヤ教に放り出されたが故に、やむを得ない放浪の状
況だったが・・、
 そのさ迷いの状況に、当然、進むべき道の「種々の路線」
が浮かび上がった。そして、路線問題の確執に、もめにも
めるキリスト教であった。
 その解決には400年もの時が必要だった。
 紀元後397年になって、やっと、『キリスト教の聖書が
決まった』。イエスの死から4世紀近くが流れていた。
 日本で言えば「関ヶ原の合戦」の頃との時代差となる。
 聖書とならずに、この時点で、捨てられ、焼かれた、聖
書になり損(そこ)ねは多く、
 キリスト教は、後代の人たちがが、再び、見る事が出来
ないという「焼却処分」を、浅はかな事に行った。
 この行為は、後代の聖書研究者の悔いる所となっている。
 また、この影響から、「イエスの実在性が立証できない
でいる」。イエスは本当に実在したのか?の問題である。
 キリスト教が作った新約聖書は、ユダヤ教から拝借した
旧約聖書の『半分にも満たない』という正典である。
 宗教としての大切な論理の完成度に影響している。
 また、キリスト教は、伝搬していく過程において、あら
ゆる地域の土着の宗教と習合した。
 その習合は、宗教として、まったく節操ないと言える。
 例えば、A地域の宗教と習合したキリスト教を、Aキリス
ト教と呼べば、B地域の土着の宗教と習合したBキリスト教
が存在するという具合。
 この点からも、キリスト教が主張する「神から与えられ
し無謬なるもの」の論理は、明らかに成り立たないのがお
分かり頂けると思う。
 A地域の「Aなる『キリスト教の神』が存在し、また、B
なる『B地域のキリスト教の神』が存在することになる。
 そのどちらかに『無謬ではない』という論理が成立する。
唯一神の論理も成り立たない。
 キリスト教は、この様な形の、『多神教の宗教の状況』
を呈している。
 今、キリスト教の宗派は20000あると言われている。
 キリスト教の神々は、まったくびっくりする如くに、
 20000にもわたる事ごとを・・話している。
 キリスト教のロゴスのあまりにも多様な種が存在するの
である。
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