多分、違う神なのだと思うが・・・。

 題:多分、違う神なのだと思うが・・・。
...(真を求めて 皆様ととともに幸せになりたい)
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 キリスト教は、「天地万物の存在の初め」に関し、
その名・創世の名の通り、モーゼ五書の「創世記」に記し
ている。
 このキリスト教聖書・旧約聖書の『創世記』の最初に、
「はじめに」がある。
 その最初の言葉は、「初めに、神は天と地とを創造され
た」とある。
 その創造状況以前は不明である。
 「まず、天地だ」とだけ言えて、あとは明言できなかっ
たという状況である。
 『天と地』が、最初なのだと思ったのだろう。
 科学知識のまったくない古代のキリスト教聖書記述者な
らその様にしか想像できなかったのだろう。
 故に、キリスト教は、神が天と地を創るという所から世は
始まったという観念に執着し、また、世の中に定着させた。
 流れる『時』と、その時が流れている『空間』の存在には
思いが至らなかったのだろう。
 その様な難しい事は言いたくないという状況が、雰囲気が
感じられる。
 その時があり、空間がある事によって作用が与えられると
いう考えには思いもよらなかった。
 永遠性のある時の中に、あらゆる空間の存在の位置などの
特性から、一様でないという存在と、位置の違いから、互
いが作用し、時の流れの中で作用と、その理が影響を与えて
行くという考えには及ばなかった。
 単純に天と地が、最初に存在すればと考えた。
 「無始の時」と、「無限の空間」が意識できない古代の
人たちの記述から、キリスト教のものごとが始まった。
 その様な、キリスト教の世界となった。
 「神が造りし・・」という聖書とは言っても、そこには、
ぷんぷんと人間臭さが感じれる、その人間の検知する、あ
らゆるといえども、その人間の検知する能力による領域は、
さも、総べてのアンテナを研ぎ澄ましたとしても、限界が
あるように感じさせるのだった。
 次元も超えて行く着想もなければ、聖書の着ける所はな
いという浅薄な内容とならざるを得ない。
 キリスト教は、古代人の知見の結果から得られるもので、
そのセンサーと能力で書かれている事はまぎれもない事実
だ。
 創世記は記述する「地は形なく、空しく、闇は淵の表に
あり・・」(「創世記」1・2)と、
 そして、神は「光荒れ』と言う。
 神が、急に「天と地を創造するのは間違い」なのだが、
まず、すぐ言える事は、すぐに天とか地とかの物質が創れ
る訳はない。
 1例を言えば、今・現代、観測で確認できる宇宙の中に
ある「プラズマ」とか「ガス雲」とかの存在を、
 現代人ならその存在と、その状況を、知っているだろう
が、物質の創造以前の、その時点で、光が満ち満ちるのだ。
 キリスト教聖書の記述とは『逆』なのだ。
 天と地が出来て、光だなどと主張する、言う状況は、キリ
スト教の聖書の記述を、「ほほえましい」と言いたいぐらい
幼稚なものなのだ。
 この様な、幼稚な推論の流れではなく、宇宙は、まず、
「エネルギーに満ち満ちていく」。
 キリスト教の古代人の聖書記述者は、『エネルギーを創
る』などとは、想いが及ばなかったのだ。
 ここまでからだけでも、キリスト教聖書は、古代人が『
神から授けられて、記述した』と言っているのは、嘘と分
かる。
 それでも、神と言うなら『嘘の神である』。
 本当に宇宙の創造をしてない神である。
 信じてはいけない神である。
 キリスト教聖職者は、「この『淵』と言うのは『混沌』と
いう意味です」とか、
 そして、「何が何だか分からない様な混沌が(神によっ
て)秩序に変えられたのです」などと、分かった様な、分
からない様な事を言う。その秩序に変えられる前も、キリ
スト教の神が創った創造物なのでしょ?・・と、言いたい。
 本当に信じるに値しない内容だ。
 そして、この後、何故か、このキリスト教の神は、太陽
を創る。
 「光あれ」と光を創ったと言うが、どこから光が来てい
るのか?
 また、その光の後に創られた太陽が発する光とダブルが、
太陽の光はどうなってしまうのか?
 そして、何故か、このキリスト教の神は、地球上に有る
ものばかりを創るが、何故なのか?
 何の理由も書いてない。
 特別、地球への思い入れのあるキリスト教の神なのだ。
 木や草を創った後に、昼と夜を創るとか、お好きな、思
い立ったら何でも創るという気ままな、むちゃくちゃな順
番なのだ。
 まったく悩ましい事をする神なのだ。
 キリスト教の聖書の他の部分についても、この事例の様
な、あまり真剣に入れ込んで読まない方が良いという類い
の文が続く。
 因(ちな)みに、神は、人間を最後に創ったという。
 しかし、今、正に、宇宙のあちこちで、星々が創られて
いるが、キリスト教の神以外の神が創造しているのだろう
か?
 キリスト教の神の創造は終わったと言うので、多分、違
う神なのだと思うが・・。
 そして、キリスト教の聖書には、「われわれ(神の事)
の形に、われわれ(神)にかたどって人を造り」と書いて
あるが、
 キリスト教は、「神は一神だ」と言っているので、キリ
スト教の言っている事と、聖書に書いている事が矛盾する
が、
 ここを、キリスト教の聖職者は、「神が人間を、自分と
まったく同じに作ったと強調するため、「われわれ」とい
う表現をした」と無理筋の弁解的な言い方をした。
 この様な話を、いくら読んでも無益です。
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