思いが至って行く・・・、

 題:思いが至って行く・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 最近では、さすが、
 キリスト教聖職者が書く本で、
 「キリスト教聖書は無謬だ」・・とは書かなくなった。
 『無謬』とは、神ゆえ論理や判断に間違いが無い、絶対
だ・・という意味であるが・・、
 以前は、この論理が大手を振って歩っていた。
 微塵も、神の不完全さにつながる言葉について、口をさ
し挟(はさ)むことができなかった。聖職者は特に・・。
 キリスト教聖書は、神が与えし書である・・と、
 また、キリスト教聖書は、神が与えし言葉を記せし書物
である・・とした。
 故に、キリスト教の神は無謬、キリスト教聖書もまた無
謬、微塵も齟齬・間違いの類いは無い・・だった。故に、
「信じさせたまえ」だった。
 それが、標記した様に、キリスト教聖職者である者が、
その大前提をひっくり返している。
 あるキリスト教聖職者が著した本には、臆面もなく、次
の様に、まったく、尻をまくった様としか表現できない様
な事が記してある。
 「確かに、この聖書の言葉は科学的根拠に乏しいし、
 第一、人間が誕生する以前のことを誰が見ていたのだろ
うか、
 誰が人間の言葉でこの様に記述することができるだろう
かと疑問を持つかもしれない。
 創世記は、天地創造の様子を誰かが近くで見ていて記録
したものではなく、
 後になって書かれたものである。
 したがって、地球や人間が具体的にどのようにできたの
か、という『現象』を、この中から読みとるのは困難であ
る。
 科学的に、創世記の天地創造ほど馬鹿げた話はないだろ
う」・・と書く。
 まったくの尻まくり的な言い方だ。
 恥ずかしくないのだろうか?
 その後で、如何(いか)なる繕(つくろ)いの言葉を費
(つい)やそうが、
 この聖職者の『信仰』という面に、否定的な、そして、
疑問を禁じ得ない。
 キリスト教とは、この様な聖職者の、この様な言葉が、
のたうつ宗教なのである。
 この聖職者は、そのうち、さも『正当な論理の顔』をし
て、『キリスト教の神の存在を否定する』に至る行為まで
をもするだろう。
 厚顔なキリスト教聖職者は、「キリスト教の神は存在し
ない。科学的に考えれば、しごく当然の事である。しかし、
・・」と、彼独特の詭弁を弄するだろう。
 キリスト教は、この様に、「危(あや)うい宗教」なの
である。信ずるに価しない。
 この聖職者は、彼独特の宗教を創作し始める。
 彼は彼なりに、不合理の、あまりにも多い宗教=キリス
ト教に、口に出しては言えない葛藤(かっとう)に悩んで
いるのである。
 そして、あらぬ事も創作して言い出す。
 「地上すべてのものが誕生する前から神は存在している」
・・と。
 そして、その神の存在が、さも無限の時を遡(さかのぼ)
って存在するかの様な事を口走(くちばし)る。
 今までの『ビッグバン』を原初とする、制限枠が存在す
キリスト教の『その枠』を越える話に思いが至る。
 今までは、その枠内で、楽しく納得し合っていた話の状
況から、外への想いに至る。
 そして、言う、
 「神は極めて神であり、神以外の何ものではなく、われ
われの感覚をはるかに越えた聖なる存在である」・・と、
 キリスト教が、いつも都合が悪くなると持ち出して言う
言い方で、
 分かった様で、実際は、何も分からない言い方で、煙に
巻く。
 そして、不明な言葉を費やして、ただ神を美化するだけ。
 何ら得るところは無い。
 「神をわれわれと同次元に下ろせない、下ろせば人間の
傲慢さや虚栄がはじまるのだ」・・と。
 そして、結局、佛教の「無始無終」の思想に至って行か
なければと・・思いが至って行く。
 (参考)詭弁を弄する :きべんをろうする、本来は間違
  っていること を、色々と理屈を付けて正しいかのよう
  に思わせるような主張をすること。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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