偽善なるものよ・・。

 題:偽善なるものよ・・。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教の基本的考え方の中に・・、
 「異端は抹殺する」・・という考え方がある。
 それ故にまた、その考え方・教義に従って異端を抹殺す
る行為を行なう。
 考え方の違うもの、異端・異教徒は殺せという『教義』
を実行する。
 どの様に多くの異端がまた異教徒が、キリスト教によっ
て殺され、抹殺されて来たというのか。
 この教義だけをもってしても、キリスト教現代社会に
おける『存在理由はない』。
 未来の人類のためにも存在してはならない。
 このキリスト教の基本的考え方は、神より与えられし書
と言われる『キリスト教聖書』にさえ見られる。
 異端のキリスト教の書は捨てられ抹殺された。
 神を越える行為をする人たちなのである。
 どのくらいの書が捨てられれ、日の目を見ない姿にされ
たかである。
 軽蔑すべき教義、許容力のまったくない宗教だと唾棄し
たい。
 以下に上げる「伝道の書」もこの様な書であった。
 しかし、一部の版のキリスト教聖書には、掲載されてい
るので見ることができる。
 そのキリスト教聖書の(「伝道の書」3・10)に、
 「(キリスト教の)神はまた人の心に永遠を思う思いを
授けられた」・・とある。
 この言葉は、『時の永遠性』や『空間の永遠性』などを、
人が思う・想念するのだという事を肯定している言葉とな
っている。
 キリスト教の精神に外れるので捨て去りたいのであった
のであろう。そして、このキリスト教の書は、
 キリスト教の神は、人の心にその永遠性を思う心を否定
せずに授けたと言っている。
 キリスト教の神が、時の永遠性を思い、また、空間の永
遠性を思い、それら、永遠性の存在を思う故、人の心に永
遠を思う想いを授けたと言う。仏教的な領域の考え方であ
る。
 今、キリスト教は、『時』に関し、「有始」を主張して
いる。
 神の行為が『有始』であったというのだ、『有史』であ
ったというのだ。
 ある時から、『キリスト教の神は、行為を始め出した』
というのだ。
 その時を、『ビックバン』と称している。
 この世の中の時の始まりは、有限なのだという主張なの
である。
 永遠性を説くこの「伝道の書」の考え方と、これは、こ
の主張は、明らかにこのキリスト教聖書の言葉として矛盾
している。
 矛盾点の多いキリスト教の聖書であるので、別段びっく
りはしないが、『時』の捉え方の大基本においても、この
様なあいまいな矛盾教義のキリスト教なのである。
 キリスト教聖書が、何故、この主張をするかと言うと、
キリスト教の主張は、「神が天地を創造したから」という。
 その天地創造を神がした時を『始まりだ』とした。
 そして、キリスト教の概念であった古典科学も、この概
念から「有始説」を取り入れている。
 「ビックバン」から始まったと称した。
 しかし、今、この「ビックバン説」は否定されつつある。
 「ビックバンも急には発生し得ない」のだという。
 「ビックバンの準備段階が存在しない訳はない」という。
 キリスト教の「有始説」が否定されつつある。
 宇宙の膨張も、遠くの星座ほど高速で「遠ざかりつつあ
る」という事が発見され、その状況の逆を思惟すれば、宇
宙は、ある一点に集まるという事から、ビックバン説を裏
付けたとされるが、
 「宇宙は膨張と収縮を繰り返す」という説もある。
 人知を越える領域となっている。
 だが、キリスト教は、「伝道の書」で「神の永遠性」を
言って置きながら、
 キリスト教聖職者は言う、「永遠の時は、ただ、循環し
て同じ事を繰り返してばかりである」・・と。
 永遠を『無益な繰り返し』と見ている。
 事は、永遠であろうが、永遠で無かろうが、無益な同じ
繰り返しは否定されるべきだが、
 永遠の時の流れの中に、無益な同じ繰り返しを想念する
キリスト教聖職者の考え方は否定される。
 仏教の輪廻を否定したい事からこの様な理屈に合わない
無理な論理をキリスト教の聖職者は展開し、講釈した。
 『無限の発展』が、『その無限の時の流れの中に秘めら
れている』と見ることができないのである。
 閉鎖のキリスト教なのである。
 仏教は、その中の永遠の時も想念し見ている。
 同じ様な日々の繰り返しの中に、芽生え・育み・発展が
秘められているからである。
 永遠の時、同じ様な繰り返しのわずかでも、日々の発展
が、人類を発展させて来たのである。
 この様な見方・捉え方でなければならないのである。
 「偽善なる者よ。汝の名は、キリスト教聖職者」。
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