後に続く人たちの知恵を信じないという愚行

 題:後に続く人たちの知恵を信じないという愚行
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の言葉を「宣教」と称して述べ伝える事は、
人類にとって良い事なのだろうか?
 また、人類の幸せに通じる事なのだろうか?
 『ベストの宣教』となっているのだろうか?
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 今までの、何千年という経過を見る限り、
 あまりにも多くの人たちが
 酷(ひど)い形で、祈りを無にされている。
 『無益か』と言うより、『害ある結果』となっている。
 あなたたちは、害ある行為に携わっていると言える。
 キリスト教は、遠い昔に『既に使用に耐えなくなって
いる宗教』と言える。
 砂漠の地で、
 民族、我が民族が・・と、我が民族のみの生存・存続を
祈った、
 ぎりぎりの生存を祈る状態なら、
 ぎりぎりに赦(ゆる)せたとしても・・。
 今、手にする事の出来る資料で知る、これ以後の、この
様な状態・感じでは、
 『否』とはっきり言える。
 実は、福音書の記述者たちも、その様なことを感じてい
た。
 その時、そこで、
 「ある者は棄てた」。
 また、ある者は、
 「このままでは駄目だ」・・と、「自分に納得する様に
書き換えた」。
 「神のなすこと、変えてはならない」と思っていたが、
 変えざるを得ない実情だった。
 当然、「棄てた者たちの福音書』は、
 われわれは見ることが出来ない。
 現存する訳が無い。
 そして、そこで、我々が手にすることが出来ない、書き
残す行為を捨てた記述者の福音書へは、だからこそ、重い
想いを、はせなければならない。  
 今、我々が、手に出来ているキリスト教福音書は、
 ある特定の記述者たちの福音書
 「衝撃的だが、自分の納得する様に変えてしまおう」と、
 その様に考え、行動した記述者たちだけの福音書なのだ。
 その様な福音書を、手にしているのだ。
 キリスト教の聖書に書かれた内容は、
 その様に、
 誰が呼んでも完全で、非の打ち所の無い内容・代物(し
ろもの)というものでは 無かった。
 異論百出の 論議の湧いていた代物だった。
 削除・書き込みが多いという状況。
 ズタズタに切り刻まれ、 変転している。
 誰が書いたのか、また、誰が書き込んだのかも、
 まったく不明な 「多くの手」によっていじられ、変遷
して来た。
 その様に、福音書記述者さえ戸惑い、
 また、その他の多くの人たちをも戸惑わせた代物だった。
 この事は、後世のキリスト教聖職者とて同じこと。
 「聖書を一人で読んではならない」・・と、指導もされ
ている。
 つまり、誰もがが、何時、いかなる時でも、
 また、何処で読んでも良いという代物ではないという事。
 誰もがが、いつも、「ためになったと、感銘する代物で
はない」。
 棄てた福音書記述者の存在が、
 目に見えない記述者の方々の事まで、思い描かなくては
ならない。
 記述拒否の福音書のほかに、昔には、『数多く、書かれ
福音書』があった。
 つまり、書かれたけど、「消えた福音書」が、あまたあ
ったのである。
 そのいくつかが、近年、発見されているが・・。
 紀元4・5世紀の頃、
 キリスト教福音書が確定して来たが、
 そのキリスト教聖書が確定して来た頃、
 聖書に載せられなかった、記載されなかった福音書、及
び、キリスト教の関係書類が、
 『処分されていた』という史実が残っている。
 最初の福音書と言われている「マルコによる福音書」に
は、参考にした書があった。
 それは「遠い昔に死んだイエスの言葉を集めたもの」と、
言われている書だった。
 この資料は、あちこちに参考にされ、利用され、影響の
大きい資料となっている。
 この資料も処分された。
 現在は無い。
 今は、参考にして書いたという「マルコによる福音書
などから、その資料のことに思いはせなくてはならない状
態。
 その資料の片鱗をうかがい知るしかない。
 その有名な資料は、「G資料」と言われている。
 その様に、その他の資料の処分で、今は、
 「全体像が見えない状態」なのである。
 一部で見ている状態なのである。
 このことだけででも、
 この様な中に『真実はない』と言える。
 聖書がまとめられたという4・5世紀の時の、
 「ある一つの主義・主張」で、
 その頃に固まったその主義・路線だけの範囲で、
 こじんまりと収(おさ)まり、
 それ故に、なお悪いことに、
 その他のもの・書や資料は、『不用』と、その時点の者
たちは考え、
 足を引っ張るからと思い、
 その他のものは不用と写り、
 その貴重な「その他のもの」は、
 キリスト教の、『その時』の、権威者たちの手によって、
 人類の遺産を、
 狭い範囲の者たちの手によって
 処分されてしまった。
 後世の人たちが、永遠に見ることができない形に、
 されてしまった。
 後世の人たちの、
 あまたいる、後に続く人たちの、
 『知恵』を信じないという愚行をしてしまっていた。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
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