惑わす行為とイエスの『私の父の家』

 題:惑わす行為とイエスの「私の父の家」
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 科学に否定的な事を言われ、
 科学を対抗的に見るキリスト教だが、
 その科学の一分野の考古学の発掘という行為で、
 「ミクヴァオート(浴槽)」が、
 何に使うのか、
 使われているのかが分かった。
 つまり、科学的な探究・追求によって、
 より宗教の実際が分かって来ている。
 これからの方向を示唆もする『知見』である。
 今、進行中の宗教行為に、良い反映となってその科学の
恩恵が現出してくる『考古学の寄与』だった。
 科学的探究の寄与面なのである。
 しかし、あまりにも、今までが、
 キリスト教の教義を否定してきた科学の結果だった。
 キリスト教は、科学的な結果と信仰は別なのだと言って
いた。
 科学無視の言葉を言わざるを得ない『無残な結果』を、
科学から付きつけられていた状態のキリスト教だった。
 キリスト教の科学に対するこの調子から分かるように、
都合が悪くなると、その場が収(おさ)まる様な、
 都合のよい言い逃れを言って来たキリスト教だった。
 「ミクヴァオート」は、祭儀的清めのために必要とされ
ユダヤ教の浴槽。
 ユダヤ教からの流れをより深く理解するための『貴重な
知見』を得た形となった。
 今までは、その流れを適当に解釈していた。
 これ等に関連することが、「ヨハネによる福音書」の2章
などに書かれていたが、
 キリスト教は理解できずに、適当に解釈していた。
 また、イエスは、町の外で処刑されたと伝えられていた
が、紀元44年に、街の城壁が、より外側に築かれ、
 イエスが、町の外で処刑された様には見えなくなってい
た。
 この科学的探究の結果、新しく得た知見が、
 キリスト教を裏付け、補強をする形になった。
 今まで、その場を繕(つくろ)う行為ばかりしているキ
リスト教の態度は、厳に、慎(つつし)み深くしなければ
ならない。
 「懺悔せよ」と言っているキリスト教こそが、懺悔しな
ければならない。
 「言い逃れ」したり、「嘘をついたり」。「実際を隠し
たり」・・などなど。信徒を惑わすことはしないように。
 また、
 イエスは、ユダヤ教エルサレム神殿を「私の父の家」
と讃(たた)えていた。
 そしてまた、使徒行伝の著者は、イエスの弟子たちが神
殿で礼拝し、そこで教え続けたことを知っている。
 そして、ペトロとヨハネは、「祈りの時」に、神殿の丘
へと続く階段を上っている(「使徒行伝」3・1)。 
 また、ペトロは、イエスがメシアであることと「死者か
らの復活」を、イエスがまさに教えたと伝えられている場
所で宣教し続けている(「ヨハネによる福音書」10・22〜
30)。
 また、その話を聞いていた人たちは、つい先頃まで、
 イエスが、神殿で礼拝をしていたことを見ている人たち
であった。
 また、彼らの内のある者たちは、
 『イエスを十字架につけよ』と叫んだ群衆の中に居た人
々だったかもしれない。
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(参考)本文によれば、『使徒行伝』は、『ルカによる福
音書』の続編として(聖書自身の証言と伝承によればルカ
の手で)書かれたものであるという。
 どちらも「テオフィロ」(ギリシア語で「神を愛する者」
という意味)なる人物に献呈されている。
 もともとは一冊の書物だったという説もあるが、現代の
研究者たちがさかのぼれる最古の資料の時点では、すでに
ルカによる福音書』と『使徒行伝』は別々の本になって
いた。
 『使徒行伝』は、この時代に書かれた作品としては他に
類をみない非常にユニークなものであり、初期キリスト教
の研究は本書なしには成り立たない。
 また、パウロの書簡集も『使徒行伝』の存在によって価
値あるものになっており、『使徒行伝』なしにパウロの手
紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはなら
ない。(wikipediaより)
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(追記)
 原始キリスト教の時代。
 キリスト教福音書の記述者たちは、
 旧約聖書において約束されていたことを、明らかにしよ
うと試みた。
 その約束とは、神が世界を救うために『メシア(救世主
)』を派遣されるという事である。
 彼らによれば、それはイエス・キリストにおいて、完全
になし遂げられた・・と、キリスト教は説明した。
 仏教は、仏となられた仏陀衆生に教え導いた。
 そこに、数々の教えがある。
 これを学べと説かれた。
 その教えを学び、人々は幸せになって行くが、
 時の経過と共に、その衆生の中から世をより良くする人
々が、さも涌くがごとくの様に出現してくる・・と、教え
ている。
 キリスト教は、イエス・キリストで完結し、ピリオドが
打たれるが、
 また、イエス・きりすとだけの1人で完結し、終結する
が、
 仏教は、その後、教え悟(さと)された衆生の中から、
湧き出ずる様に、無限の菩薩が世を良くし、幸せにする菩
薩出現を説いている・・教えている。
 キリスト教は、イエス終結し完結する1神教的発想で
あり、そこに、完全無欠の神の存在が欠かせない。そして、
信の『能動的エネルギー』を必要とする信仰の宗教の形を
とる。
 また、その信じ込みのエネルギーを必要とし、キリスト
教は信じることを必須要件とし、信じなければ切り捨てる
という宗教形態となっている(信じなければ異端・異教徒
となる)
 仏教は、仏の教え悟しが世に示されれば、そこからまた
新しく芽生える得る『新しい若い出現』に世の希望を成就
する菩薩の涌くがごとくの無限の出現を説く。
 そこには、これからの時の中に希望が沸き立つ未来の夢
の必然の成就を説いている。
 キリスト教は、神の介在の中に、イエスのメシアとして
の出現のみを説き、積極的信じ込みを、信徒に「必須の要
件」とし、信徒に要求し、条件としながらの信仰だけの存
在として存立する。
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/