遠い昔、エルサレムにあまた居た予言者たち・・から・・、

 題:遠い昔、エルサレムにあまた居た予言者たち・・から・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 イエスは、「道を求める青年」に・・、この青年は、イ
エスに、「生きる道」を求めたという「真面目な青年」と
思います。
 しかし、イエスには・・、この青年が、その様には見え
ませんでした。
 この青年は、イエスも知る金持ちだったのです。
 そこで、イエスは言う、持っている財産すべてを売り払
い、施しをせよ・・と。
 イエスは、聖書を読めばわかることですが、気短かで、
すぐに苛立つ(いらだつ)性格です。
 聖書のあちこちで、イエスは怒っています。
 ここもそうです。
 イエスは、自分もした事が無い事を・・この真面目な青
年に言いました。
 傷つき易(やす)い年代の青年は・・このイエスの言葉
に傷つきました。
 青年の・・道を求める志や・・心を・・思いやって、大
切に・・親切に・・丁寧に・・話をしてあげて貰いたかっ
たところです。
 この青年は、思いがけないイエスの言葉に、打ちひしが
れ、立ち去ったといいます。可哀想なことです。
 この時、イエスの心に・・どのような事が、心に残った
のでしょうか?
 勝ち誇った様な心が・・残ったのでしょうか?
 少しでも・・正しい方向へ導く事が出来たとでも思って
いるのでしょうか?
 それとも、打ちひしがれて去る青年の後姿を見て、少し
でも反省をしたのでしょうか?
 イエスは、この様な事を色々な場面でしている。
 身体障害を持つ方にまで・・イエスは短気をぶつけてい
る、行っている。
 この方も、打ちひしがれて・・会場を立ち去ったという。
 まったく、この様な行為を、次々とやるイエスに怒りが
涌きます。
 もっと親切に言ってやりなさい、導いてやりなさいと。
 そして、標記の件で、イエス自身が・・その様な事をし
たとでも、いうのでしょうか?
 持っている金のすべてを、他の人に、イエスは与えたと
でもいうのでしょうか?
 こんな事、聖書のどこを開けても・・書いてない。
 イエスは・・他人には言うが、自分ではやってもいない。
 また、あげる金が無かったら、自分の服を脱いでまでし
て、他の人にあげているのでしょうか?
 これも、イエスがやったとは・・聖書の何処を開いても
書いてない。
 イエスは・・「言うことと、自分がやること」は、まっ
たく違っているのだ。
 自分ができないのに、他の人にせよということが、この
エスもそうだが、キリスト教には・・実に多い。
 そもそも、キリスト教のDNAは、飢餓の地に生まれた宗
教。
 他の人の富を、自分たちの民族が生き残るために奪いに
行く、殺しても奪うという・・性格が染み込んでいる。
 言う前に、無言のうちに、他の方たちに施(ほどこ)し、
労(いたわ)り・・救済をして行く、菩薩の行(おこ)な
いなのだ。
 それでなくても、キリスト教には「十分の一税」と言う
ものがある。
 キリスト教の聖書にも書かれるキリスト教の教義だ。
 「什一献金」とも言う。
 あなたが得た収入のすべてが、あなたの収入と思っては
いけませんと言う教義だ。
 その十分の一は神のものだという教義だ。
 だから、キリスト教は、収入の十分の一の支払いをしな
いと「(キリスト教の)神の金を奪っていると言われる」。
 神の金の教義を作って、支払わない人を、罪の意識に落
とし込むという・・破廉恥な事をしている。
 「キリスト教献金しないのは、世の人々のためなのだ」。
 社会悪に満ちたキリスト教には・・献金などしないのが
正義なのだ。
 キリスト教に・・献金しては・・いけないのだ。
 キリスト教献金しないのが・・世の中の人々を救うこ
とになるのだ。
 キリスト教に殺された人々も・・喜ぶことでしょう。
 真のキリスト殺しの犯人は・・ユダヤ人だと・・、
 キリスト教は・・長い長い期間、展開し、し続け、反ユ
ダヤのネガティブ・キャンペーンをして、世の人々を繰り、
どれほど多くののユダヤの方々を・・無念のうちに殺した
事か・・。
 このユダヤの方々の事だけでも、キリスト教は、今、即
刻、この世界から退場しなければならないのだ。
 キリスト教の書である福音書を、「あまりにも誇張や、
矛盾や、粉飾や、作為などなどに満ち溢(あふ)れている」
と評する声などが、世に満ちている。
 「事実らしき事どもの一つとてない」という声などが満
ちている。
 イエスだって実在したと言っているのは「福音書だけだ」、
 その様な・・心もとない宗教なのだ。
 それも、イエスは、長い間、忘れ去られていた。
 何十年も経(た)って、記憶の外の人になりかけた頃、
エスと同じ行動をしていたという身近な人ではなく、た
だ、イエスを知っているという他人の、微(かす)かな、
僅(わず)かな記憶を頼りに書かれたという・・福音書
代物ぶり。
 本当のことなのかどうか?疑わしい限りのものなのだ。
 他人の・・その人の思い違いが・・色々と入っているの
は当たり前というものなのだ。
 キリスト教は信じてもらおうと、例の誇大な言い方で
「神の与えしもの」というが、
 神の安売りの言い方をいつもする。
 イエスの復活だって、「まったく、身内だけの話に終わ
っている」。
 エルサレムの街の・・誰誰の前に現れたとか・・、
 街々で・・話題に溢(あふ)れている・・なんて話は、
まったくと言って・・ない。
 完全に・・身内だけの・・作り話なのだ。
 当の聖職者だって、イギリスの報道機関がアンケートし
たところ、肝心の聖職者さえ・・復活を信じていない人た
ちが過半数なのだ。
 キリスト教は、この様にはっきりしている作り話・神話
の話を真実と強弁し、キリスト教の方々を繰り、煽(あお)
り、戦争を作り出してきた。
 その結果、可哀想な方々・人々が大勢、出た。
 唾棄したい「キリスト教の虚構」なのだ。
 そして、今・現在でも、この愚(おろ)かな・・悲惨な
愚行は続いている。
 また、騙(だま)されて・・人生を棒に振っている人々
も、また、あまりにも多い。
 イエスや弟子と言われた者たちの残した書も皆無、一つ
もない。
 字が書けたのかは不明だが? この様な人の世界だった
のだ。
 それにしても、キリスト教に殺され、死んだ方々が、あ
まりにも不憫(ふびん)だ。
 ヨハネによる福音書に至っては、「ひい爺さんの事より
昔のことを書く」という・・はるかな過去の書という代物(
しろもの)。そんな多くの年が経って書かれたという代物。
 当てになんかなる訳ないという人が、ほとんどだ。
 昨日や数年後の忌に際して・・書かれたなんてものでは
ない。
 「記憶のかなたに消え去る中で書かれたという代物」。
 それでも、今の時代の様に、記録媒体があふれている時
代ならいざ知らず、他人の記憶に頼ったという代物。
 また、『記憶をしておこう」などという使命感の中の記
憶とも、また違う。
 他人の無責任な記憶の中にあること。
 何処の誰だかという他人が思い出しましたという代物な
のだ。
 だから、これからが、キリスト教がデッチ上げが、架空
の話がなされ、作り上げられていく。
 1世紀も経ってしまったことを・・。
 1世紀も前の○○さんを「あなた、覚えてますか?」・
・なんて、聞かれて思い出すと思いますか?
 福音書なんてそんなかすかな記憶で書かれたもの。
 嘘付きキリスト教が、勝手に作って来ただけなのだ。
 デッチ上げキリスト教が始まるだけなのだ。
 この様なキリスト教に・・、
 あまりにも多くの「人的資源」が使われ、消えているの
が、あまりにも勿体(もったい)ない。
 また、あまりにも無益なものに、貴重な資産が使われ、
消費されているのがもったいない。
 これを、豊かな人類社会の建設に有効に活用して行きた
い。
 架空の話を勝手に作り・・来た、架空の宗教に使う必然
性はあるのか?
 若い優秀な頭脳を、根拠薄弱な資料(福音書)の分析に
使うのは止めよ。
 それも、今まで投入された頭脳が余りにも多いので、研
究課題が今では一字の「てにをはの話題」になっていると
いう悲劇。
 もう、無駄な頭脳の投入は止めよ。
 福音書が4冊だと言ったって、同じ本を見て書いているの
で、実質上は1冊の様なもの。
 キリスト教は、そこを共感していると美しく言って「共
福音書」と言っているが・・。
 この様に、実質2冊と言うまったく狭い領域の中に、若い
頭脳と人生が埋もれて行く。
 ほとんど大差ない世界にただ、漂(ただよ)っているだ
けなのだ。
 マルコによる福音書の中に、イエスの言葉一つしかない
と研究者が指摘するが、根拠薄弱の資料をいじくって無駄
な人的浪費はするな。
 遠い昔、エルサレムにあまた居た予言者たち。
 彼らは、厳しい世の中で、「食うために予言者業を始め
た」。
 その流れの『大もと』から・・、
 流れに流れて2000年・・、
 今もキリスト教聖職者たちは、根拠薄弱な話を振り回し
て食を得ている。
 キリスト教の信徒の方たちを繰って・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
 URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /