(増補版)633E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年12月~1895年12月)

題:(増補版)633E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1895年12月~1895年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
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1895年12月28日、青梅鉄道の青梅駅日向和田(ひなたわ
 だ)駅間が開業した。
  この区間は、石灰石積出し専用貨物線で、1898年3月10
 日から旅客の取扱いを開始した。
  現在の青梅線(おうめせん)は、東京の立川駅~青梅
 駅~奥多摩駅間を結ぶ鉄道で、
  多摩川中流から上流域を走る・・全長37.2キロメー
 トル。
  1894年11月、青梅電気鉄道として青梅駅まで軌間762
 ミリメートルで開通し、
  1908年、1067ミリメートル軌間に改軌された。
  後、1920年日向和田駅から御嶽(みたけ)駅まで延長
 され・・
  1923年、電化された。
  1929年、社名を青梅電気鉄道と改め・・
  奥多摩電気鉄道として御嶽駅~氷川駅(現:奥多摩駅
 を建設し、1944年に、電化もして全通した・・そして、
 この年、国有化され、青梅線と改称された。
  当初は、セメントの原料の石灰石の積み出し線であっ
 たが・・、
  秩父多摩甲斐国立公園の景観の良さから、観光路線と
 なり、さらに近年は、通勤路線ともなっている・・立川
 駅から中央本線に入り、新宿駅や東京駅まで乗り入れる
 直通便もある。
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1895年12月28日、17歳の牧野省三によってフランスのリュ
 ミエール兄弟製作の短篇映画「汽車の到達」を有料公開。
  日本で初めての映画興行が始まる。
  (参考)牧野省三:まきのしょうぞう、映画監督、プ
     ロデュ―サー。
      日本映画の黎明期の先駆的役割を果たす。
      京都に生まれ、幼少より母方の経営する劇場
     千本座に出入りし、芸事に親しむ。
      そして、同座の座主となる。
      1908年、活動写真の興業者・横田永之助を知
     り、彼の依頼で、初監督映画作品「本能寺合戦」
     を製作し、公開した・・これを機に、映画の道
     に入る・・
      1909年、地方の歌舞伎役者・尾上松之助を招
     き、「碁盤忠信」を作り・・日本最初の映画ス
     ター尾上松之助を見い出し、育てた。
      尾上松之助は「目玉の松ちゃん」との愛称で
     人気のスターとなった。
      以後、浄瑠璃本・講談本、立川文庫などから
     題材、ストーリーを得て時代劇映画を300本を超
     える多数制作した。
      また、忍術映画の数々のトリックも考え出し
     た。
      草創期の日本映画を主導し、「日本映画の父」
     と呼ばれた。
      1912年、創立された日活に合流、
      後に、日活京都撮影所長、重役となる。
      1921年、マキノ教育映画製作所を設立、
      1923年、マキノ・プロダクションを設立(1925
     年説あり)
      多くの脚本家や映画監督を育て、また・・
      時代劇映画のプロデューサーとして、坂東妻
     三郎、片岡千恵蔵嵐寛寿郎、市川歌右衛門
     のスターを育てた。
      四女の女優・マキノ智子(ともこ)の息子に俳
     優の長門裕之(ながとひろゆき)、津川雅彦(まさ
     ひこ)がいる。
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1895年12月30日、甲武鉄道市街線の飯田町駅新宿駅間が
 複線で開通した。
  東京の鉄道ネットワークが造られて行く。
  現在の中央線の前身が甲武鉄道だった。
  1889年8月、新宿駅八王子駅を開通させた。
  この2ヶ月前(1889年6月)新宿駅~神田三崎町駅間の
 市街線の免許申請をした。
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1895年12月、兵庫県宍粟郡の郡長らが40円を拠出して、就
 学補助基本積立基金を設立した。。
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1895年12月、服制改正(明治28年12月達11号および明治29年
 4月達第3号)
  工場取締、および、守衛の服制が定められた。
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1895年12月、山陽鉄道の広島駅~三田尻駅間の工事が着手
 された。
  この区間で、初めてアメリカ型60ポンド軌条が使用さ
 れた。
  日本の営業用鉄道では、長さ1メートルあたりの重量が
 60kg、50kg、40kg、37kg、30kgの規格が使われており、
 普通レールという。
  重量が大きいものほど、乗り心地に優れていて、線路
 の狂いも生じにくい。
  重量のある列車が通る路線や、列車が高速で走行する
 路線、そして、運行頻度の高い路線に適している。
  アメリカ型60ポンド軌条は、種類が30kgレールで、
  断面寸法の高さが107.95mm、底部幅107.95mm、頭
 部幅60.33mmである。
  長さは10メートル。
  摘要は、30kgASCEレール = 60ポンドASCEレールで、
  ASCEは米国土木学会が定めた規格。
  レールのポンド表示は長さ1ヤードあたりの重量ポンド
 である。
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  (今日の言葉)
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  題:こんな格差が出来て・・そして、自分だけがうまい汁
   を吸うことが出来るシステムを作って・・、
    そのシステムの上で、胡坐(あぐら)をかいている。
    こんなシステムの社会のままで済まされる訳は無い。
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1848年1月、メキシコ領のカリフォルニアに金鉱が発見され
 る・・国境を無視してアメリカ人が越境して殺到する。
  「特権のある『白人』」を強く意識するアメリカ。
  アメリカ・インディアンの方々は、強く「平和共存を
 望んだ」。
  歴史的史実を示しているアメリカ映画で、白人が無益
 に、また、無碍(むげ)に、アメリカ・インディアンの
 方々を殺しているが・・、
  英文の歴史の史料で、アメリカ・インディアンの方々
 が「平和共存を望んでいたという史料が多く見つかる」。
  平和的に解決したいという意思が強かったことが、明
 確に示され、明らかにされている。
  各地に住むアメリカ・インディアンの代表は、アメリ
 カ大統領を訪ねてまでして、しきりに、平和的に話を付
 けようとしていた。
  白人の襲撃への苦情、白人の略奪に対する苦情なども
 訴えた。
  そして、皆、「白人との共存を願っている」と伝えた。
  しかし、悲しいかな、このアメリカ・インディアンの
 方々の希望は、かなえられることは無かった。
  非白人のアメリカ・インディアンの方々を、キリスト
 教に影響され洗脳された白人の頭では、アメリカ・イン
 ディアンの方々を「人間としての権利を認める」ことは
 できなかった。
  さらに、1848年1月、メキシコ領のカリフォルニアの金
 鉱が発見されると、国境など関係ないと、白人たちは、
 金の輝きも加わって、「白人様の考えが正義だ」とメキ
 シコ国境を無視し、そして、越えて、殺到した。
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1929年12月、中国が、「日本が世界制覇を狙っている」と、
 卑劣な「作り話」を世界に向けて悪宣伝した。
  今・現在でも、南京事件とか、慰安婦問題とかで、や
 ってもいない事をさもしたように異常に誇張されて、あ
 ること、ないことが世界に流布され、悪意でもって慰安
 婦像まで建立するという破廉恥な悪行為をする韓国の行
 動や、南京事件記念館まで国家が造るという中国の行動
 がある。
  まったく、この時も、日本は、これと同様の悪宣伝を
 されていた。
  これは、絶対に見過ごし看過してはならない事で・・、
  この時代にも、意外と大きく世界に、日本への「いわ
 れなき不利な状況」が生じされていた。
  この時は、中国の南京で公表された。
  中国は、昔からこの様なだましや人を裏切る行為を国
 内でもやっている様な国だった。
  そして、国外へ向かっても盛んにやる国だった(今・
 現在のファーウェイもそうだ)。
  この時も、日本の悪宣伝をするために・・「日本に百
 年計画」があるとされた・・そこに、日本の「世界制覇
 の野望」があるとされた。
  もっともらしく話は作られた。
  そして、この英語版が刷られ、世界へ大量に出回った。
  「田中メモリアル(上層文)」と呼ばれた。
  この文書は、宮内庁の書庫から盗み出された「世界征
 服の極秘戦略」とされた。
  「日本の基本戦略とされている」と吹聴された。
  また、悲劇的な事に、アメリカ大統領になるルーズベ
 ルトが、これを信じてしまった。
  日本政府は、当初から、偽物(ぎぶつ)、にせものとし
 たが・・不幸な展開をして行った。
  ルーズベルトが信じて、彼のものの考え方に大きく影
 響を与えた。
  戦後、ブリタニカ百科事典が「偽造」と書くように、
 まったくの偽造なのだが、明らかな偽造なのだが、この
 類の話の性格から非常に注意すべき展開をして行った。
  この様な行為は、最も蔑むべき行為なのだが、相手に
 与える絶大なる効果から、臆面もなく中国は行なった。
  韓国の「慰安婦」の日本への貶める行為も最悪で卑劣
 である。
  事実を調べもしないで、この韓国のプロパガンダ(嘘宣
 伝)に乗っかったアメリカも卑劣だった。
  アメリカ国内に慰安婦像を建ててしまった。
  また、この当時のこの中国のプロパガンダに乗っかっ
 たアメリカも卑劣だった。
  中国の戦争に介入するのが正義だと錯覚した。
  そのように錯覚させようとした中国のデッチ上げの嘘
 事実の下に「兵器と兵士と資金を与えた」。
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1929年、アメリカの大恐慌
  この時、アメリカ人の労働者の4分の1が失業者という
 最悪事態だった。
  この人たちは、全米各地を職を求めてさ迷う人たちと
 なった。
  この時、「兄弟よ、10セント(10円~20円)恵んでく
 れないか」という歌が流行した。
  ニューディール政策でも恐慌から脱出できなかった。
  第一次ニューディールは「完全な失敗」だった。
  「農業部門が崩壊状態だった」のも足を引っ張った。
  (2019年、日本も、農業部門を崩壊させるような法案
 が国会を通過した・・?)
  この時、アメリカ国内には、ユダヤ主義の国際銀行家
 を非難する声が満ちた。
  富の再分配の歯車も回っていなかった。
  種々の施策を行なっていたルーズベルトも苦悩してい
 た。
  そして、2期目の大統領となったルーズベルトは、二つ
 の重大な間違いを犯した。
  そのため、経済は崩壊した・・
  このため・・反ルーズベルトの派が議会内に出来た。
  1932年から1938年まで、ニューディール政策が有効な
 のかの議論で議会内は充ち溢れた・・
  アメリカ国民の方々は、大きな不安の中に苛(さいな)
 まれていた・・苦しい状態の中で、苦しめられていた。
  このような時・・世界情勢の戦乱状態への動きの中で・・、
  1935年から1937年まで、アメリカは、漸次(ぜんじ、
 だんだん)中立法を制定していた・・列国の戦争には関
 与しないという世論を反映したアメリカの流れだった・・
  1939年、戦争が勃発すると、アメリカは、英仏を支持
 はするが・・逆に、中立の意識が高まった・・
  そして、ルーズベルトは、参戦しないと公言していた。
  1940年代半ば、イギリスとドイツの空中戦が行なわれ
 るという激しさになる・・、
  戦争に反対する声が過熱する中で、支援する声も聞か
 れた・・
  その様な状況の中で、一転して、ルーズベルトは、世
 論を介入支持の方向へ向けようとした・・
  そして、再軍備の巨額の予算が可決もした。
  そして、1940年9月、平時選抜徴兵法案が可決された・・
  この法律は、アメリカ史上初だった。
  そして、この月、アメリカは、イギリスへ駆逐艦50隻
 を与えた。
  1940年11月、ルーズベルトは、大統領3選を果たした。
  1941年初頭、ルーズベルトは、武器貸与法を承認させ
 た。
  1941年8月、ルーズベルトは、イギリスのチャーチル
 相とニューファンドランド沖の軍艦上で会談した・・
  この会談の中には、「国民の意思を尊重し、よく意見
 を聞く」という根本理念がある・・皮肉なことに・・戦
 争へ向かうこの二大巨匠の話の中に・・
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この様な時・・、
  「アメリカを世界の兵器庫にする」と叫んだ。
  これで、アメリカは、頑固(がんこ)な抜け出る事の
 出来なかった世界的な恐怖の泥沼の『恐慌から抜け出せ
 る』と思った。
  その叫びは、思惑どおりの「戦争需要を取り込めた瞬
 間」だった。
  そして、アメリカの工場は、フル回転し始めた。
  うなりをあげて兵器作りに邁進した。
  GMは、タンク(戦車〉などを造った。
  そして、アメリカは、真の価値である誠実性・信用性・
 真実などの本当に大切にすべき「アメリカの財産を失っ
 た」。
  財産の食いつぶし行為をした。
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1931年9月18日、国務長官ヘンリー・スティムソンのドクト
 リン(原則、政策上の原則などを示した教書)が発表され
 たが・・、
  1933年1月9日、フランクリン・ルーズベルトの大統領
 就任式まであと2ヶ月という・・この時、スティムソンは、
 ルーズベルトを自宅に訪ねた。
  現職大統領のフーバー大統領の国務長官であるスティ
 ムソンが、何故??、わざわざ新大統領のルーズベルト
 宅を訪問したのか??
  周囲は驚いた。
  協議は、5時間以上となった。
  出て来たスティムソンは、上機嫌だった。
  「実に有意義な昼食でした」とスティムソンは語った。
  これから1週間後、ルーズベルトは、スティムソン・
 ドクトリン支持を宣言した。
  ルーズベルトが、日本に対して厳しい政策をとること
 になるスタート・切っ掛けとなった。
  そして、ルーズベルトが大統領になると、日本の新聞
 は、その新大統領を歓迎し、好意的に対応した。
  日米の「対立の視点」に立つ新大統領に「気付いてい
 なかった」。
  アメリカの駐日大使のジョセフ・グルーは、1932年11
 月9日の日記に・・、
  「新大統領に(民主党の)ルーズベルトが選ばれたこと
 に、日本の新聞は非常に好意的だ。
  スティムソンが居なくなるからだという。
  大使館に勤める日本人運転手や女中までが大喜びで、
 『ノーモア・スティムソン』と言っているほどだった。
  (中略)、
  新政権が日本寄りになるはずが無いことにまったく気
 付いていない」・・と。
  日本を経済制裁で抑え込むというアメリカ外交方針は、
 日本には夢のような行為と思え、想像すらしていなかっ
 た。
  フーバー大統領が「戦争になるだけだ」と言った「経
 済制裁」を日本は想像できなかった。
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1940年6月、ルーズベルトアメリカ大統領の政権に、ステ
 ィムソンが陸軍長官として参画した。
  これで、日米開戦の可能性が「高まった」。
  フーバー政権にいたスティムソンが、ルーズベルト
 権へと代わって、スティムソンがフーバー政権から居な
 くなり、日本は、ほっとした所だったが、これでまた、
 「日米開戦の可能性を恐れない人物」が政権中枢に入り、
 「リスクは高まった」。
  理知的だったフーバー大統領と違い、経済復興には戦
 争需要も使いたいというルーズベルト政権では、計り知
 れない戦争へのリスク・危険性が高まった。
  日本を力で抑え込もうというスティムソンの政策が採
 用されて行く。
  ルーズベルトは、ハーバード大学の学生時代から、日
 本脅威の妄想を持っていた。
  この見えざるルーズベルトの妄想が、心底にあること
 が、日米戦争の第一原因である。
  学生時代のお粗末な妄想に囚(とら)われ続け、後日、
 大分(だいぶ)経っても、大統領となっても、その妄想に
 囚われ、自分の政策に影響を与え、戦争への道を歩んで
 で行く・・。
  キリスト教を厚く信仰するルーズベルトは、その「性
 悪説」に強くマインド・コントロールされていた。
  日本の脅威の妄想から脱却できなかった。
  例えば、今・現代、中国が覇権を拡大して行くことを
 公言し、アメリカへ、「太平洋を半分ずつにしよう」と
 いう言葉を公表しているが・・、
  これは、アジア、および、太平洋西半分の覇権を中国
 のものにするという「意思表示となっている」。
  このルーズベルトだったら、この中国の言葉は、完全
 に「ルーズベルトの脅威となっている」。
  もし、アメリカにスティムソンの様な者が政権に加わ
 れば、強硬な「中国、抑え込み策」が行われ、恐ろしい
 道へと歩む事になるだろう。
  当時の日本への妄想は、日本以外の国によってつくら
 れた可能性は否定できない。
  しかし、怖ろしいことに、この様な類推が、意外と大
 きな影響を与えていた。
  日本は、この様な妄想から「日本の軍備縮小の大きな
 圧力を受けて行く」。
  また、この妄想のルーズベルトの影響を知る記録があ
 る・・、
  1934年5月17日、ルーズベルトは、スティムソンと、ホ
 ワイトハウスで、昼食の前後(昼食をはさんだ長時間、1
 時間半の協議)を、日本の脅威について話し合っている。
  経済制裁の強硬論派のスティムソンとである。
  この話は、ルーズベルトから持ち掛けた。
  日本の脅威が、ルーズベルトの頭の多くを占めていた。
  不幸なことに・・その相談相手が、強硬論派のスティ
 ムソンだったことだった。
  スティムソンのマインド・コントロールも受けるルー
 ズベルトだった。
.
1940年10月8日、ルーズベルトアメリカ大統領の日本に対
 する嫌悪感は異常だった。
  ホワイトハウスでのこの日の録音が残っている。
  それは・・、
  「おい、ちょっとこれを読んでみろ」。
  「UP通信がよこした電報では、日本の通信社は、『
 アメリカは、アジア新時代の到来を認めるべきであり、
 その為には、アメリカ軍は、パールハーバー(真珠湾)、
 ミッドウェー、ウェーキの基地を引き上げるべきだ』と
 言ったそうだ。
  日本人が、我々にハワイから出て行けと言ったのはこ
 れが初めてじゃないか?
  もし日本が、ちょっとでも妙な事をするようだと、こ
 ちらは何時でも引き金を引く覚悟がある」・・とルーズ
 ベルトは言った。
  側近が、「日本政府を代表しない発言です」と諌(い
 さ)めても、ルーズベルトは、聞く耳を持たなかった。
  ルーズベルトの頭の中は、日本との一戦があり・・、
  情報が「正規のものか?」「不正規の『がさネタ』か
 ?」に関係のない好戦的判断に囚(とら)われていた。
  冷静に判断する域を、すでに超えているルーズベルト
 だった。
.
1941年11月26日、アメリカが、戦争に至るハル・ノート
 日本に提示した。
  そして、日米開戦以前に、ルーズベルト大統領が命令
 し、中国で日本を攻撃したアメリカの戦闘機部隊「フラ
 イング・タイガー」。
  その元パイロット(アメリカ兵)が、2007年4月21日、
 中国を訪れ、アメリカが真珠湾攻撃前に中国で日本に攻
 撃し、対日参戦していた証拠を示した。
  その対日参戦していたのは、やはり、アメリカの正規
 軍だった。
  エドワード元大佐は訪中し、この日、北京航空博物館
 を訪れていた。
  その命令書を署名したルーズベルト大統領・・
  ルーズベルトの疑(うたぐ)り深い性格と、ホーンベ
 ックという、また、日本に対して批判的な論客の意見に、
 当時、大統領は左右されていた。
  ホーンベックは、「対日包囲網の必要性」を強く唱え
 ていた。
  侵略的行為をしていると錯覚して見た。
  その頃、中国は、群雄割拠で、シッチャカメッチャカ
 だった。
  特に、共産主義化したいとする種々の勢力が、不安定
 化を増させていた。
  この様な中国へ、アメリカは過大な肩入れをして、さ
 らに事態の不安定化を「より拡大していた」。
  アメリカは、中国を支援するというより、日本を叩き
 たいだった。
  よけい、これが、事態をこじらせた。
  また、ホーンベックが言った・・
  「アメリカの国益と原則に対して、日本は敵対してい
 る」・・と、
  アメリカの国益に反する日本がそこにあると言った。
  1899年のアメリカの「中国の門戸開放宣言」は・・、
 先行して中国の美味しい汁と吸っていた『イギリスやド
 イツなどの欧州列強諸国(これらの国々のやることは極
 大だった)』や、それに遅れて続く日本へのけん制で・・、
  アメリカの「俺にも美味しい汁を吸わせてくれ」の宣
 言だった。
  そして、日本を、「ターゲット」にして行った。
  (参考)スタンリー・クール・ホーンベック:1883年
     5月4日~1966年、アメリカ合衆国の外交官。
      1921年から、国務省にて外交政策に従事し、
     主に、アメリカの極東政策の立案についての責
     任者・・対日強硬論者・・日本封じ込め論者。
      だが、日本についての知識は乏しい。
      戦争を避けようとする日本の提案(首脳会談の
     提案)などの日本の主張や事情を無視し、もし
     くは、聞き流した。
      結局、戦争を避ける最後の機会だったこの首
     脳会談を、1941年10月2日、アメリカは拒否した。
      アメリカの国務省内の若手からの石油輸出禁
     止は戦争につながるという意見も出たが、無視
     した。
      この時、日本の能力を蔑視し、開戦に至る懸
     念を一蹴した。
      また、ハル・ノートを受けて『日本は引き下
     がる』と、『戦争は始まらない』と強弁した。
      極東部長(1928年~1937年)
      国務長官特別顧問(1937年~1944年)
      極東局長(1944年)
.
1941年12月8日、日本とアメリカの戦争が始まった。
  アメリカ大統領になったルーズベルトという男は?
  アメリカ大統領のルーズベルトは、第二次世界大戦
 対日本戦が開始された時、「戦争を作った」と言った。
  思惑どおりことが進んだので「口走った」のだろう。
  (読売新聞、2017年1月20日)の本の広告文に、以下の文
 が記されている。
  アメリカの精鋭部隊に所属した元海兵隊兵士は・・、
  「本当のことを知らせることは、これから生きて行く
 方々の為にもなるならと・・」という思いで本を書かれ
 た。
  そして、その広告文には、以下の文が書かれている。
  「日本が、戦争を始めたのではない」・・、
  「始めさせられたのである」・・と。
.
1943年3月5日、アメリカ大統領のルーズベルトの妻・エレ
 ノアは、シカゴのリンカーンホテルにチェックインした。
  ルーズベルトが、妻・エレノアを裏切り愛人を作って
 いるから・・ルーズベルトは、その逆をやられた。
  妻のその動きは、盗聴されていた。
  そして、ルーズベルトは、事実を知って八つ当たりし
 た・・、
  盗聴の内容が、妻・エレノアの「男とのホテルでの特
 殊な関係を示すもの」と分かると・・、
  ルーズベルト大統領は、翌日、ヘンリー・アーノルド
 将軍を通じて、「関係者全員を、太平洋の戦線に送り込
 み、戦死するまで戻すな」と命じた。
  ことの起こりは・・
  1943年3月5日、ルーズベルトの妻・エレノアは、シカ
 ゴのリンカーンホテルにチェックインした。
  エレノアは、ホテルの受付に、大統領夫人の滞在を公
 言しないで欲しいと頼んだ・・
  そして、その後で、若い男性が来ると言って続きの部
 屋も同時に予約した。
  その男・ラッシュが、ホテルに現れたのは午後9時。
  ラッシュは、休暇を取って列車に乗り継いで来たアメ
 リカ軍人だった。
  二人は、一度だけ、ホテル内レストランで食事を取っ
 た・・それ以外は、すべてルームサービスで済ませた。
  次の日の朝、エレノアが支払いを終えて、チェックア
 ウトした後、ラッシュは、一人でホテルを出た。
  エレノアは、チェックアウトの際、ホテル責任者から
 部屋に盗聴器が仕掛けられていたことを知らされた。
  ホワイトハウスに戻ると大統領側近に調査を命じた。
  それは、アメリカ陸軍参謀総長が、事実関係を確認す
 る騒ぎに発展した。
  ルーズベルトは、妻とその男友達の密会場面を盗聴し
 たことに激怒した。
  関係した軍の「情報収拾見直し」と「防諜部隊員の配
 置換え」を命じた。
  しかし、ルーズベルトは、この様な事があっても、ま
 た、アメリカ連邦最高裁が、1939年に盗聴を違法と判断
 したにもかかわらず・・、
  1940年5月、ルーズベルトは、「スパイ活動、あるいは、
 破壊活動防止」を理由にして、盗聴を許可する命令書に
 サインして、盗聴捜査に歯止めを掛けなかった。
  そして、ルーズベルトの、自分の政敵に対しても容赦
 なく盗聴を行なった。
  最高裁判決も無視する大統領だった。
  ルーズベルト時代の盗聴許可は、年平均315回、無許可
 盗聴1888回で・・、
  フォード大統領の政権は、ルーズベルト政権を盗聴が
 「最も盗聴が盛んな政権」と位置付けている。
.
1943年~1944年、ソ連のスパイ作戦が、アメリカにおいて
 最も激しい時期。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、共産主義に寛容だ
 った。
  ルーズベルトの周りには共産主義者が多く居た。
  そして、この時期、ソ連のスパイ工作が、最も激しく
 活動なされた。
.
1945年、アジアの方々の解放軍
  イギリスなどのアジアを植民地にしている国々は、そ
 の植民地の美味しい汁が吸えなくなると「日本を恨んだ」。
  卑劣な行動をしていた国は、イギリス、フランス、オ
 ランダ、ドイツなどだった。
  第二次世界大戦後、そのアジアの国々は、次々に独立
 して行った・・日本の目的は達成した。
.
1988年、中国の李鵬首相が、オーストラリアを訪問をした。
  この時、オーストラリアのキーティング首相へ・・
  「日本という国は、20年も経てば地球上から消えて無
 くなる」と言った。
  その期限が、2008年だった・・
  中国に日本自治区構想があるのか・・?
.
2002年7月、東京電力福島第一原発の事故に至る9年前の
 この時・・、
  既に、政府の専門機関が、「長期評価」で福島沖で、
 マグニチュード8クラスの大地震が起き、津波の発生の
 可能性がある・・と指摘していた。
  この時、勝俣恒久被告は副社長だった・・そして、こ
 の年の10月に社長となっている。
.
2008年3月、東京電力福島第一原発事故が防げたチャンス
 があった・・それは、事故の起きる3年前だった。
  この時に、東京電力の子会社が、先に、政府の専門機
 関が指摘した長期評価において津波の可能性があるとい
 う件について、試算を出している。
  その東電の小会社が出した試算は・・「長期評価」に
 基づいて、福島第一原発津波の高さが15.7メートル
 になると試算した。
  この時、勝俣恒久被告は社長、武黒一郎被告は副社長・
 本部長、武藤栄被告は執行役員・副本部長。
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2008年6月、東京電力福島第一原発事故が防げたチャンス
 があった・・それは、事故の起きる2年9ヶ月前。
  東京電力の担当者が武藤被告に15.7メートルの津波
 の可能性があるとの試算結果を報告した。
  この時、勝俣恒久被告は会長、武黒一郎被告は副社長・
 本部長、武藤栄被告は常務・副本部長。
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2008年7月、東京電力福島第一原発事故が防げたチャンス
 があった・・それは、事故の起きる2年8ヶ月前。
  武藤被告が「長期評価」の信頼性を外部有識者に検討
 してもらうことを決定した。
  しかし、残念なことに、この対応を取らずに事故に会
 ってしまった。
  この時、勝俣恒久被告は会長、武黒一郎被告は副社長・
 本部長、武藤栄被告は常務・副本部長。
  そして、あの忌まわしい事故は2011年3月11日に起きた。
  (以上、福島第一原発事故産経新聞のニュースから)
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2016年11月8日、アメリカ合衆国で大統領選が行われた。
  2期にわたって大統領を務めたバラク・オバマの立候補
 は、アメリカ合衆国憲法修正第22条の規定によって認め
 られないため、民主党ヒラリー・クリントンと、共和
 党のドナルド・トランプが対決し、多くの世論調査を覆
 してドナルド・トランプが勝利した。
  獲得選挙人の結果
  ドナルド・トランプ 304人(56.5%)
  ヒラリー・クリントン227人(42.2%)
  テレビ番組の「白熱教室」で有名なハーバード大学
 授の政治哲学者マイケル・サンデル氏は、以下の様な事
 を言った・・
  「ドナルド・トランプ氏は、アメリカ大統領選で無礼
 な発言を重ね、数多くの集団を侮辱し、外交や統治につ
 いて無智をさらしたにもかかわらず当選した。
  アメリカの中流層と労働者層で高じている、変化を求
 める強い渇望に結びついたからだ。
  一夜で生じた渇望ではない。
  1980年代以来の新自由主義的なグローバル化の果実が
 1%の最上層へ、または、5%の最上層へ、または、10%
 の最上層の限られた者たちの手に渡るアメリカの現状、
 その一方、中流・労働者層は取り残され、排除されたと
 感じてきた」・・と。
  (注意)安倍政権、そして、アベノミクスは「新自由
     主義」ではありません。
      現政権の経済政策は典型的なケインジアン
     あって「新自由主義からかけ離れた」もの。
      財政拡大を繰り返しながら中央銀行に意図的
     に大規模な金融緩和を強いる行為は、新自由主
     義の経済政策とは正反対のもの。
      グローバル化について、経済誌東洋経済
     が悪意あるプロパガンダをしているという。
  (参考)ケインジアン:イギリスの経済学者ジョン・
     メイナード・ケインズの理論に基づく経済学理
     論(ケインズ経済学)を支持する者。
  (参考)新自由主義:20世紀の小さな政府論を新自由
     主義と呼ぶ。
      18世紀イギリスの思想家、アダム・スミス
     『国富論』で、経済は個人や企業の自由に任せ
     ることによって繁栄すると主張し、政府の役割
     を治安維持や防衛などだけに限定する必要を説
     いた。
      その後、20世紀に入ると、大恐慌や戦時動員
     体制の経験を経て、政府が完全雇用を目指して
     需要を管理するケインズ主義政策が一般的とな
     った。
      しかし、1980年代に入って、政府における財
     政赤字の深刻な累積、官僚主義的な非能率など
     が大きな問題となり、イギリスのサッチャー
     権、アメリカのレーガン政権を皮切りに、減税、
     規制緩和、民営化を軸とする小さな政府への改
     革が広まった。
      日本でも80年代の第2次臨時行政調査会による
     行政改革以来、新自由主義的な政策転換が進め
     られてきた。
      ただ、日本では、公共事業や規制に関して既
     得権を持つ官僚組織、利益団体、族議員が、小
     さな政府の徹底に反対してきた。
      つまり、日本の場合、保守の自民党の中に小
     さな政府と大きな政府という相対立する思想が
     同居しており、政策が円滑に決定されない。
      「官から民へ」というスローガンを唱えて登
     場した小泉政権も、新自由主義改革を推進する
     ために、党内の抵抗勢力との間で複雑な駆け引
     きを繰り返してきた。
      結果的には、郵政民営化社会保障費の抑制
     など新自由主義的政策が小泉政権の遺産となっ
     た。 (山口二郎 北海道大学教授 / 2007年)
  (参考)新自由主義への批判:格差社会・分断社会が
     新自由主義によってもたらされた。
      強いものが自由な市場を支配し、独占に至る。
      富める者はさらに富み、中流層が消耗した社
     会となった・・
      結局、社会を支えたのは、そのより富める者
     たちではなく、中流層の肩にかかっていたから
     だった。
      社会を豊かにしていた中流層が居なくなった。
      今、叫ばれている新自由主義的グローバリズ
     ムにはこの様な落とし穴がある。
      一億総中流層と言った日本は豊かだった。
      今は、生活保護世帯が急増している。
      外国から労働者を供給して企業が豊かになっ
     てもグローバル企業はその資本を外国へ持って
     行ってしまう・・国内へは投下しない。
  こんな格差が出来て・・そして、自分だけがうまい汁
 を吸うことが出来るシステムを作って・・、
  そのシステムの上で、胡坐(あぐら)をかいている。
  こんなシステムの社会のままで済まされる訳は無い。
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2017年1月9日、NHKEテレ、2017年1月9日、14時00分~、
 番組名:全日本総合バスケットボール選手権
  試合が始まる前に、国旗掲揚と国歌斉唱があった。
  しかし、NHKは、この国旗掲揚と国歌斉唱を放送し
 ないという態度を取った。
  まったく聞こえないくらいの音のボリュームに絞って
 無視した。
  いつも、NHKは、この様な放送態度をとる。
  この時、君が代の国歌を、歌手が生の声で歌う演出が
 なされたが、これをNHKは、まったく無視して、まっ
 たく聞こえない状態にした。
  NHKは、国旗掲揚と国歌斉唱の放送はしない様にし
 ている。
  キリスト教は、国旗掲揚反対と国歌斉唱の反対を運動
 方針にしている。
  NHKは、このキリスト教のこの運動に同調している。
  NHKは、まったく、キリスト教に偏する放送局とな
 っている。
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2018年10月17日、東京電力福島第1原発事故をめぐり、業
 務上過失致死傷罪で強制起訴された旧経営陣3被告の第
 31回公判が17日、東京地裁(永渕健一裁判長)で開
 かれ、16日に続いて元副社長の武藤栄被告(68歳)の
 被告人質問が行われた。
  武藤被告は、津波対策を検討する会議が社内にあった
 ことを「知らなかった」と述べた。
  会議は事故の約半年前から開催されており、津波対策
 について副社長と現場社員との温度差が露見した。
  会議は、津波高の試算を東電子会社に依頼した土木調
 査グループだった社員が、平成22年8月から開催した
 と公判で証言した。
  一方、武藤被告はこの日、会議の存在を「知らなかっ
 た」と述べた。
  (追伸)責任者としてまったくフォローしていなかっ
     たということ。
      大きなリスクが存在する大事故に至るという
     認識がまったく無かったと言える。
      取扱いを誤ると放射能の恐ろしさが露出する
     という原発を扱う責任者として、あるまじき発
     言といえる。
  武藤被告が津波対策を保留にしたという。
  しかし、社員は、その様な上司の態度の後も、「対策
 は不可避と考えていた」と証言した。
  政府の専門機関は、2002年、「地震津波が福島沖を含
 む日本海溝沿いで発生しうる」との地震予測「長期評価」
 を公表した。
  そして、東電子会社が、2008年年3月、長期評価を基に
 最大15・7メートルの津波が同原発を襲うとの試算を
 示した。
  武藤被告は、試算の報告を受けた後もすぐに対策に乗
 り出さず、土木学会に妥当性の検討を委ねた。
  検察官役の指定弁護士側は「対策を先送りし、漫然と
 原発の運転を継続した」と主張している。
  武藤被告は16日の被告人質問で、長期評価は「信頼
 性がない」と強調。
  「分からないことを専門家に確認するのはごくごく自
 然」と述べ、津波対策を先送りしたとする指摘には「大
 変心外だ」と強く否定した。
  事故をめぐっては、武藤被告のほか、元会長の勝俣恒
 久被告(78歳)と元副社長の武黒一郎被告(72歳)が強
 制起訴された。
  最大の争点は巨大津波を予見し、対策を取ることがで
 きたかどうか。
  昨年(2017年)6月の初公判で3被告側は「事故の予
 見や回避は不可能だった」としていずれも無罪を主張し
 た。
  (産経新聞ニュースより)
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/