(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月〜1889年7月)

題:*(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月〜1889年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年6月、新聞に講談の連載が流行した。
  口演速記が新聞に連載され、また、単行本にもなった。
  また、名人上手と言われる講釈師も登場した。
  そして、速記の口演をした講釈師の実演を聞いてみよ
 うと、この頃から、釈場(講釈場)もにぎわった。
1889年7月1日、呉・佐世保の南鎮守府が開庁した。
  同時に海兵団・呉海軍病院なども業務開始した。
1889年7月1日、東海道本線全通(新橋〜神戸間鉄道全通)
  大津駅長浜駅間が開通し、東海道線が全通した。
  新橋〜神戸間に、直通長距離列車が(毎日1往復)登場
 した。
  現在の東海道本線にあたる新橋駅〜神戸駅間の記念す
 べき全通だった。
  東海鉄道全通(氷川清話)
1889年7月1日、山梨県甲府に市制が実施された。
  この日、甲府総町(こうふそうまち)、上府中総町(
 かみふちゅうそうまち)、増山町(ますやまちょう)、
 飯沼村(いいぬまむら)、稲門村(いなかどむら)があ
 つまり、甲府市に市制が施行された。
  全国では34番目、関東では4番目の市の誕生だった。
  人口は31,128人、
  戸数は6,855戸だった。
1889年7月19日、第三高等学校に法学部を設置した。
  旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっ
 こう)は、京都市、および、岡山市に所在した旧制高等
 学校で、略称は「三高」。
  現在の京都大学総合人間学部、および、岡山大学医学
 部の前身。
  そして、この年・1889年、第三高等中学校を京都市
 現:京都大学本部構内)に移転し、法学部の設置した。
  因みに、1894年(明治27年)に、第三高等中学校は、
 第三高等学校に改組された。
1889年7月24日、艦隊条例を公布した。
  艦隊条令公布により、常備艦隊を編成した。
  この艦隊条例によって、本格的な機構を持った艦隊と
 して「常備艦隊」が設置された(第1艦隊の前身)
  そして、1894年に、「常備艦隊(決戦用主力)」と、
 西海艦隊(沿岸警備用:清との戦争に備え新設)の2つの
 艦隊を統合指揮するため、「連合艦隊」が編成された。
  (日清戦争後は、解散して元の常備艦隊に戻った)
  常備艦隊司令長官が、連合艦隊司令長官を兼ねた。
1889年7月28日、入谷の朝顔
  東京都台東区下谷の入谷鬼子母神(真源寺)と、その
 界隈で開催される「入谷朝顔まつり(朝顔市)」は、
  毎年7月の6・7・8日の3日間、開催される。
  入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政
 の頃、
  最初は、御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽
 培されていた。
  御徒町の発展とともに、また、江戸幕府の崩壊で、
  入谷に居た十数軒の植木屋が造るようになった。
  その出来が素晴らしいので評判となり、木戸銭を取っ
 て見せるほどになった。
  「変わり咲き」の朝顔がとても珍しかった。
  変化咲きの朝顔の不思議な美しさが、江戸から続く伝
 統の中で、人々へ魅力を伝え、そして、引き付けた。
  下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)には・・、
  「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五
 年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数軒を数え、
 入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。
  殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼し
 き朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり
 敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり」・・と。
  そして、一旦、廃れるが・・
  戦後のすさんだ世を明るくしようと、昭和23年に、地
 元の有志の方々が復活させた。
  そして、江戸情緒豊かな夏の風物詩として、人々の心
 を、今も温かくしている。
1889年7月29日、英国公使が、日本・メキシコ間の条約締結
 による内地居住権に関して、最恵国条項により同等の権
 利を要求した。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカのルーズベルト大統領が作った『ヤルタ体制』は・・、
    ソ連スターリンの「欲望に火をつけた」だけだった・・
    ブッシュ大統領は・・批判した・・、
    その後のアメリカは・・、これの対処に・・何年も苦労した・・
    何年も・・そして、それは、今も続いている・・その後遺症が・・
    日本も・・領土を奪われたままとなっている・・
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1900年、北清事変が起きた。
  アメリカ大統領・フーバー・・、
  親中反日が多いアメリカ大統領に於いて、このフーバ
 ー大統領は公正だった。
  その理由の一端は・・、
  若い頃、フーバーは、この北清事変が起きた頃、鉱山
 開発で中国に居た。
  そして、その時、この北清事変を見ていた。
  フーバーが大変ショックを受けたという・・中国の義
 和団と、清国政府の双方の残虐さを、直に見ていた。
  中国人の殺し合いは、身の毛のよだつ残虐非道だった
 ・・と・・
  フーバーは、それを実際に見て、大変なショックを受
 けたと言う。
  義和団事件の時も、日本人と中国人には、天地雲泥の
 差があった。
  フーバーは、それを見たのだった。
  義和団事件の時、各国の外交官たちは、中国の義和団
 に包囲され、籠城(ろうじょう)を余儀なくされた。
  これを取材していたイギリス人ジャーナリストは、日
 本を絶賛している。
  本「守城の人」にも描かれているが、
  北京に出兵していたロシア軍やフランス軍、そして、
 イギリス軍も、
  この時、皆、略奪を繰り返すという卑劣な軍の状況だ
 った。
  しかし、柴五郎大将の日本軍だけは、規律正しく、事
 変を収束し、
  そして、制圧した後の、引き揚げ方も極めて整然と
 潔(いさぎよ)かった。
  そして、この話には後日談があった。
  この時の義和団制圧の「連合国軍総司令官」ともいう
 べき人は、駐支イギリス公使のクロード・マクドナルド
 だった。
  彼は軍人だった。
  それであるから、特に、日本軍、及び、日本人の素晴
 らしさがよく分かった。
  北清事変直後、彼は、駐日公使に転じると、この時の
 ソールズベリー首相に、日英同盟の締結を勧めた。
  マクドナルド公使は、「将兵が、あれだけ規律正しい
 国であれば、同盟を結んでも、何の心配もいらない」と
 説明した。
  そして、1902年、日英同盟は締結された。
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1906年アメリカの日本人差別の歴史
  この年、サンフランシスコ市の教育委員会が、日本人
 の学童の『隔離教育』を決定した。
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  1907年、サンフランシスコで反日暴動が起きた。
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  1908年、日米紳士条約が締結された。
   (日本が、移民を自粛する代わりに、アメリカも排
   日的な移民法を作らないことを約束する)
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  1913年、カリフォルニア州で、排日土地法が成立した。
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  1920年カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成
   立した。
   (1913年の土地法は、。「日本人移民」の土地所有
   を禁止するものだったが、この1920年の法律では、
   「日本人移民の子供=いわゆる二世」までもの土地
   所有が禁じられた)
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  1922年、アメリ最高裁が「黄色人種(日本人)は、
   帰化不能外国人であり、帰化権はない」とする判決
   を出した。
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  1924年、『絶対的排日移民法』が成立した(約束違反)
   これは連邦法で・・、
    アメリカという国家全体として、日本からの移民
   を排斥するという破廉恥な約束違反の法律だった。
   アメリカは・・国家全体で日本を排斥した。
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1941年7月18日、第二次近衛内閣総辞職・・と同時に、第三
 次内閣が成立した。
  第3次近衛内閣が誕生して、和平の道へ努力が行われた。
 しかし・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・マッカーサー
 と会見した時に、マッカーサーから言われた・・
  「1941年の日本の(近衛内閣の)誠実な和平への努力
 を、アメリカは受け入れるべきだった」・・と・・、
  「しかし、ルーズベルトには、受け入れる意図は、初
 めから全くなかった」・・と、この時、フーバーは言っ
 ている。

1941年8月1日、アメリカ、対日石油輸出の禁止
  フーバー(アメリカ元大統領)の言葉:
  『これは、宣戦布告なきアメリカの宣戦布告だ』と・・
  「(1941年7月〜8月のアメリカの日本に対して行った
 経済制裁は)・・
  『明らかに、日本に対する宣戦布告なき、戦争の仕掛
 けだった』・・と・・フーバー元アメリカ大統領は言っ
 た。
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1954年、ダライ・ラマ法王(チベット仏教の最高指導者)
 と、パンチェン・ラマダライ・ラマ法王に次ぐ存在)
 が、お互いに相手を承認するという関係になった。
  本「新・戦争論」で、池上彰氏は言う。
  そして、中国共産党が、チベットを占領した後の1954
 年に、
  ダライ・ラマも、パンチェン・ラマも、毛沢東に呼ば
 れ、チベット代表として、全国人民代表大会のメンバー
 になった。
  ダライ・ラマは、常務委員会副委員長・・、
  この時、実は、ダライ・ラマは、一時だが共産主義
 憧れた。
  ところが、1955年春、チベットへ帰る前日、毛沢東が、
 自分の執務室に彼を呼び出し、
  「最後に、ぐっと体を近づけ、『あなたの態度はとて
 もいい。
  だが、宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。
  何故なら、僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、
 第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ」と言った。
  これを聞いて、私は激しい嵐のような感情が顔に出る
 のを感じ、突然、非常なおそれを抱いた。
  『そうなのですか。あなたは、結局、ダルマ(法)の
 破壊者なのですね』、私は心の中で、怒りを込めて呟(
 つぶや)いた」(『ダライ・ラマ自伝』)。
  そして、チベットに戻ってみると、自分の留守の間に、
 チベット仏教がすっかり弾圧されていた。
  それで反発し、インドに亡命する事になりました。
  しかし、パンチェン・ラマは、北京に残って、中国共
 産党の方針に従い、出世していく。
  しかし、そのパンチェン・ラマも、年を取ってからチ
 ベットに戻って布教活動を始める。
  そして、チベットの状況を見て、共産党に対する批判
 的な事をわずかに口にする。
  その途端、変死するのです。(後略)
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1966年〜1976年、中国・文化大革命
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1979年1月1日、台湾関係法
  台湾関係法は、アメリカ合衆国の法律である。
  中華民国(台湾)に関するアメリカ合衆国としての政
 策の基本が定められていて、
  事実上のアメリカ合衆国中華民国(台湾)との間の
 軍事同盟。
  1979年1月1日に、民主党ジミー・カーター大統領は、
 中国との国交を樹立し、中華民国(台湾)との国交は断
 絶した。
  ホワイトハウスのこの方針は、ソビエト連邦と中華人
 民共和国の離間を決定的なものとし、
  また、アメリカ企業が、中国大陸の『巨大な市場を獲
 得』するための重要な布石となった。
  しかし、同時に、米華相互防衛条約の無効化に伴うア
 メリカ合衆国台湾防衛司令部の廃止と、
  在台米軍の撤退によって、東アジアに急激な軍事バラ
 ンスの変化が起きることが懸念され、
  自由主義陣営の一員である中華民国(台湾)が、中華
 人民共和国に占領される事態を避けるため、
  また、中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであ
 った許国雄僑務委員会顧問)や、在米国台湾人(台湾独
 立派を含む)からの活発な働きかけもあって、
  台湾関係法が、1979年4月に制定され、
  1月1日にさかのぼって・・施行された。
  アメリカは、国内法規である台湾関係法に基づき、通
 常の軍事同盟のように中華民国(台湾)に駐留こそして
 ないものの、武器売却や日本の沖縄県在日米軍基地な
 どにより、中華人民共和国を牽制している。
  そして、もともと、中国は、台湾を「化外の地」だと
 日本へ言った地で、
  中国とは何ら関係ありませんよ・・と・・日本に説明
 した地である。
  (参考)化外:けがい、国家の統治のおよばない地。
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2003年11月27日、台湾の独立を問う公民投票法
  台湾の陳水扁総統によって、「台湾の独立」を、台湾
 の方たちに問う住民投票を「実施するか?否か?」の発
 議をし、
  その「公民投票法」が、2003年11月27日に、成立しそ
 うになった。
  「中国は青くなった」「反対した」・・と言うより、
 どんなことがあっても阻止したいとした。
  これが、このまま進んでいくと、住民投票の結果に関
 わらず、少なくとも「台湾民主主義の完成」の証になっ
 てしまうからだった。
  また、仮に、住民投票の結果が「独立すべき」となっ
 たら、中国は全く対応できず、台湾は名実ともに完全な
 独立国になる。
  この様な方向へ進む法案だった。
  2003年12月初旬、アメリカのブッシュ大統領(第43代)
 は、「台湾の住民投票に我々は反対する」と言った。
  中国の北京政府の「住民投票など絶対に容認しない」
 という声明も出ていた。
  また、「我々の忍耐もすり減ってきた」の強硬姿勢も
 あった。
  そして、この言葉が、台湾というより、むしろ、アメ
 リカ向けだったことも影響した。
  そして、また、その時、中国の温家宝首相が、アメリ
 カ訪問し、ホワイトハウスで行なわれた首脳会談の後の
 発言でもあった。
  また、アメリカの希望した「北朝鮮の核保有問題を協
 議する六か国協議の開催を中国が受け入れたから」と
 みられた(実際、この後、開催された)。
  日本の外務省は、公式ルートで、台湾の住民投票に反
 対を声明した。
  台湾は、見捨てられたのか?
  台湾が、中国に落ちれば、次は、沖縄県である。
  今、中国は、この次の次の手を打っている。
  最後は、アメリカと近接するところまでを中国は目標
 としている。
  中国は、「太平洋を、アメリカと半分づつ」と言明し
 ている。
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2005年、アメリカ大統領のブッシュ大統領(子)が、『ヤ
 ルタ体制は間違いだった』と演説した。
  ブッシュ大統領は、バルト三国ラトビアの首都リガ
 へ行って、ヤルタ体制の批判をした。
  フランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大
 戦の時にした失敗を批判した。
  ルーズベルトが、焚き付けたから・・東ヨーロッパが、
 ソ連に奪われ、日本の領土を奪われた。
  その様に事を運んだソ連スターリンだった。
  ルーズべルトが「取ったら」と言った領土は・・
  「それ以上に、ソ連は取り」
  そして、手のつけられないスターリンに、面食らった
 ルーズベルトだった。
  そして、ブッシュは、「東ヨーロッパを解放できなか
 った」と批判した。
  そして、また、バルト三国も解放できなかったと言っ
 た。
  「それから、50年、経ってしまったではないか」と批
 判した。
  アメリカは、冷戦という形で東欧解放のために、ソ連
 と戦わなければならなかったではないか・・と批判した。
  「ソ連を大きくした」ルーズベルトを、批判した。
  日本の固有の領土の北方領土は取られ、千島列島は取
 られ、ルーズベルトが言った満州や旅順だけでは済まな
 かった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive