(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月〜1888年11月)

題:(増補版)471E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年10月〜1888年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年10月31日、議員法の審議が終了する。
1888年10月、勝海舟が、正三位に叙せられる(氷川清話)
1888年10月、コンドル設計の宮内省庁舎と、木子清敬設計
 の皇居正殿・豊明殿が完成した。
1888年10月、長崎にコレラ流行する。
  「長崎くんち」の奉納踊りが中止となる。
1888年10月、勝海舟の「海軍歴史」編纂(へんさん)成っ
 た。
  25巻(明治22年海軍省出版)(氷川清話)
1888年11月1日、山陽鉄道兵庫駅明石駅間が開通した。
  同時に開業した。
  旅客と貨物の取り扱いを開始。
1888年11月1日、馬場辰猪(ばばたつい)が、アメリカで死
 去した(1850年6月24日〜1888年11月1日)
  明治期の自由民権家で、土佐藩(高知県)藩士の馬場来
 八虎の次男として生まれた。
  江戸の藩費留学し、福沢諭吉慶応義塾)に学び、
  1870年(明治3年)20歳、藩命によりイギリスに2回留
 学(1878年まで・・途中、一時帰国)、英国法(法学な
 ど)を修めた。
  滞英中、小野梓らと日本学生会を組織した。
  帰国後、小野らが結成した文化啓蒙団体(共存同衆会)
 に参加して多数の講演を行った。
  これを「共存雑誌」に発表した。
  1881年、31歳、大石正巳、末広重恭らと国友会を組織
 して、長野、山形、新潟などに遊説し、自由主義思想の
 啓蒙につとめ、
  1881年明治14年)10月、自由党創立とともに常議員
 に選ばれ、同党の理論的支柱として活躍した。
  しかし、1882年(明治15年)板垣自由党総理の外遊に
 反対し常議員を辞任、
  1883年(明治16年)9月、自由党を脱党した。
  1885年(明治18年)11月、爆発物取締罰則違反容疑で
 逮捕されたが、
  1886年明治19年)6月、無罪放免となり、まもなくア
 メリカに渡った。
  全米各地で、日本の実態を紹介する講演や明治政府の
 専制ぶりを批判する論説を発表するなど精力的な活動を
 続けたが、
  1888年明治21年)夏以降、体調をくずしペンシルベ
 ニア大学病院に入院、満38歳で客死した。
  遺著『日本政治の状態』の表紙にみえる「頼むところ
 は天下の輿論、めざす仇は暴虐政府」の言葉は、彼の執
 念を示すものとして有名。
  <著作>『馬場辰猪全集』全4巻
  <参考文献>安永梧郎『馬場辰猪』、西田長寿「馬場辰
 猪」(明治史料研究連絡会編『民権論からナショナリズム
 へ』)、萩原延寿『馬場辰猪』
1888年11月1日、松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)
 の浅草文楽座での万国第一等手品が評判となり、60日間、
 興業が行われた。
  奇術師・松旭斎天一は、越前福井藩の陪臣・牧野海平
 と妻音羽の長男として生まれた。本名:服部松旭。
  家断絶により、叔父の唯阿が、住職を勤める阿波国(徳
 島県)西光寺へ移住した。
  同寺で孤児となり仏門に入ったが、宗教の奇跡を自作
 自演して破門にされた。
  大道芸の手品師となる。
  1878年明治11年)イギリス人・ジョネスと共に上海
 へ渡り、西洋奇術を学ぶ。
  大仕掛けな舞台奇術を志し、
  1888年明治21年)浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗
 教劇奇術で成功した。
  欧米巡業(1901〜05)後は、歌舞伎座をはじめ、全国の
 大劇場に出演した。
  大道芸の手品を近代的な舞台奇術にまで発展させた。
  <参考文献>青園謙三郎『松旭斎天一の生涯』
1888年11月5日、日本画家:狩野芳崖が没した(61歳)
  1828年(文政11年)1月13日、長門(ながと)国(山口県
   長府藩の御用絵師・狩野派の四代董信(ただのぶ)(
   晴皐)の長男として生まれた。幼名:幸太郎。
   家は、代々、毛利家の御用絵師をつとめていた。
   狩野派の絵師の父に手ほどきを受けていた。
   また、同家の菩提寺である覚苑寺の霖竜和尚に参禅、
   大きな精神的感化を受ける。
   後に、「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は
   法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も、
   霖竜から与えられたものという。
  1841年、(13歳)この頃より、松隣,松林と号した。
  1846年(弘化3年)18歳、江戸に出て、木挽町、狩野勝
   川院雅信(ただのぶ)に入門し、たちまち頭角を現
   した。
  1849年(21歳)この頃、勝海雅道(ただみち)の称を
   許された(師の一字を受けて勝海と号した。
  1849年(21歳)芳崖と同日入門の橋本雅邦(がほう)と
   ともに、その英才を謳(うた)われ、竜虎とうたわ
   れた。
   佐久間象山(しょうざん)にも学んで、進取の気性に
   富み、狩野派の粉本主義に疑問を抱いて、従来の狩
   野派の筆法に西洋画の画法を取り入れた。
   新しい日本画の領域を開拓した。
   独創を試み、危うく破門されるということもあった。
  1850年(22歳)この頃、塾頭となる。
  1852年頃(24歳)師の名から一字を得て雅道と号して
   独立、長府藩の御用絵師となる。
  1855年安政2年)27歳(30歳ころともいわれる)、帰
   郷、雪舟・幸村らの作品に傾倒し、この頃から、芳
   崖と号した。
  1860年、32歳、ふたたび江戸に出て、江戸城本丸再建
   に際し、大広間天井画を描く。やがて江戸払いとな
   って郷里に戻る。
   幕末は、国事に奔走し,馬関海峡の測量図などを描く。
  1871年明治4年)43歳、廃藩置県で禄(ろく)を失った。
   そのため、生活に困窮し、他業に転じるなど辛酸を
   なめた。
  1877年、49歳、上京、精工社で輸出用陶器や漆器の下
   絵描(か)きなどに従事したが、貧窮を極めた。
  1879年頃(51歳)「犬追物図」制作のため島津家雇と
   なる。
  1882年、54歳、アーネスト・フェノロサの知遇を得た。
  1884年、56歳、第2回内国絵画共進会に出品した『桜下
   勇駒図』『雪山暮渓』が、フェノロサに認められ、
   フェノロサを介して岡倉天心とも親交を結び、
   鑑画会に加わって新しい日本画の創出に力を注ぐこ
   とになった。
   図画調査会雇となる。
  1885年、57歳、第1回鑑画会大会で「伏竜羅漢図」が3
   等賞となった。
   文部省図画取調掛雇となり、フェノロサや天心と力
   をあわせて東京美術学校の創設に努めた。
  1886年(58歳)第2回鑑画会大会で一等賞を受賞した
   『不動明王図』(重要文化財)は、西洋の絵の具を
   用いた色調が鮮やかで、構図の斬新(ざんしん)さと
   ともに、新しい表現を切り開く強い意志をうかがわ
   せる。
   鑑画会の中心作家として、フェノロサと二人三脚で
   日本画の近代化を進めた。
   代表作は、この晩年の数年間に集中しており、ここ
   に至って、狩野派、室町水墨画、維新後の明清画研
   究に、遠近法や西洋的色彩などの西洋絵画研究が加
   えられ、それらが集大成された。
   「不動明王図」「岩石図」「暁霧山水図」(いずれも
   東京芸大蔵)のほか、絶作「悲母観音図」(東京芸大
   蔵)は、日本画近代化の第一段階における記念碑的作
   品ともなっている。
   フェノロサ、ビゲローらとの関係から、アメリカの
   ボストン美術館フィラデルフィア美術館、フリア
   美術館にも作品が収蔵されている。
   図画取調掛雇となる。
  1888年(60歳)同校の日本画科主任教授に内定したが、
   1889年の翌年の開校を待たず(開校の3ヶ月前)の
   1888年明治21年)11月5日、60歳で没した。
   死の直前に完成した『悲母観音』(重要文化財)は、
   近代日本画の代表作の一つとして名高い。
   この他の代表作として「大鷲」
   『河北倫明・高階秀爾他編『日本の名画1 狩野芳崖
1888年11月15日、天竜川に鉄橋架設が竣工した。
  早川橋梁(出山鉄橋)
1888年11月16日、今日新聞と歌舞伎新報を吸収して、都(
 みやこ)新聞が創刊された。
  1884年9月、小西義敬により夕刊紙「今日新聞」として
   東京で創刊された。
   初代主筆は、仮名垣魯文として、夕刊紙『今日新聞』
   が創刊され、
  1888年11月、黒岩涙香主筆の朝刊紙『みやこ新聞』と
   なり
  1889年2月、『都新聞』と改題(朝刊紙となる)
   小説や歌舞伎・花柳界関係、演劇・文芸記事に特色
   があって下町好みの新聞であったが、
  1892年,改進党の楠本正隆の買収後、政治的には改進
   党寄り,後には、政友会系といわれたが、
   党派色は薄く、日露講和反対運動で,マスコミの大
   勢に従った程度にとどまった。
   内容は、歌舞伎、花柳界などの通俗記事と、小説の
   充実を本領とし、黒岩涙香の翻案小説、伊原青々園
   の探偵実話、劇評などにより、東京下町を中心に読
   者を集めた。
  1942年、新聞事業令 (1941年12月、公布) により『国
   民新聞』と合併、夕刊地方紙の『東京新聞』となっ
   た。
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  (今日の言葉)
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  題:第二次世界大戦の原因を作ったスティムソン(アメリカの国務長官
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1933年1月9日、この日から約2ヶ月の後に、ルーズベルト
 大統領に就任(1933年3月4日に、第32代大統領となる)
 するのだが、
  この日に、スティムソン(ルーズベルトの前の大統領
 のフーバー大統領の国務長官)が、ルーズベルト宅に訪
 れた。
  ルーズベルトとスティムソンは、これが、最初の出会
 いだった。
  スティムソンは、自分の考えを伝えた。
  ルーズベルトは、スティムソンの話を聞き、スティム
 ソンの考えに全面的に同意した。
  そして、ルーズベルトは、後悔したように言った・・、「
  もっと早く(日本への経済制裁を)実施させるべきだ
 った」・・と。
  さも、「失敗した」というように舌打ちをした。
  そして、「日本は、いずれ屈服するだろう」と言った
 (スティムソン日記)。
  ルーズベルトは、このスティムソンの考えの継承を、
 アメリカ国内、および、世界に発表した。
  しかし、スティムソンと違ったところは、「スティム
 ソンが、日本への経済制裁をしても、戦争につながらな
 い」と考えていたのに対し、
  ルーズベルトは、「必ずしも、戦争につながらない事
 もない、戦争に至ることもありうる」と考えていた。
  そして、側近のタグウェルから、「戦争の危険」を言
 われると・・、
  「戦争になるなら、早い方がよい」と、戦争を避けよ
 うという意思はないという所を見せた。
  ルーズベルトは、完全にアメリカが強い状況にあるか
 ら、早いうちに「力で屈服させよう」という路線の中に
 あった。
  話し合って、とことん話し合って、「卑劣な武力行使
 である戦争」は、避けようという姿勢ではなかった。
  ルーズベルトのこの軍事優先の考え方に対し、抗議の
 手紙が来た。
  この事について、妻のエレノアへ「日本が悪いと責任
 を転嫁した」。
  その様な捉え方で、話し合いではなく、戦争に至るの
 はやむなしと考える、思考停止しているルーズベルト
 った。
  「日本が、誇大妄想に取りつかれているから」と、思
 考展開して、ルーズベルトは、日本を捉えていた。
  その日本に対する「固定的捉え方・固定観念」から、
 ルーズベルト自身は、「戦争行為の実施・・やむなし」
 の考えに取りつかれていた。
  妻のエレノアによると、ルーズベルトは、ウッドロー・
 ウィルソン政権(第28代大統領、1913年3月4日〜1921年
 3月4日)の海軍次官補だったころから、
  ルーズベルトは、ハワイやグァム島や太平洋の島々に
 ついての日本に対する脅威や安全に不安を持っていた。
  そして、話し合いで解決するという考え方より、「日
 本を仮想敵国と見て叩く」ルーズベルトが、そこに居た。
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1933年1月9日、ルーズベルトが大統領になってない、約2ヶ
 月前のルーズベルトの前の大統領であるフーバー大統領
 (第31代大統領)の国務長官であるスティムソンは、ル
 ーズベルトの「ある言葉」を聞いて思った・・、
  「(ルーズベルトは)いわゆる侵略による領土の変更
 を認めないという(前政権の)原則を受け継ぐことを明
 らかにした。
  ‶侵略国〟というあいまいな定義だけで、国際紛争にお
 ける中立の立場を捨て、一方の国に制裁を加えるという
 誤った政策を意味している。
  極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じこと
 だ。
  いずれ米英が、日本に対し戦争を仕掛ける事になるか
 もしれない」・・と。
  スティムソンは、アメリカが、イギリスと共に、日本
 との戦争になると感じた。
  ルーズベルトは、この様に大統領になる前から、日本
 との戦争に至る路線にある大統領だと感じさせた。
  日本が、真珠湾攻撃をしたから第二次世界大戦がはじ
 まったのではなかった。
  ルーズベルトには、日本との戦争を、大統領として行
 う行為として、大統領になる前から意識し、存在させて
 いた。
  これまでのアメリカには、分岐点があった。
  日露戦争までは、日本の支援国であった。
  日本が、精一杯、ロシアと戦っている時、絶妙のころ
 合いに仲介してくれた。
  日本は、ロシアとの戦いに「勝利」という結果を得た。
  満州を、ロシアから日本へ移譲(いじょう、権利が移
 ること)された。
  日本の『侵略ではない』。
  アメリカには、判断の分岐点があった。
  このアメリカが仲介して、ロシアから移譲され、権利
 が、ロシアから日本へ移った満州を、アメリカは承知で、
 戦争の仲介しておきながら・・、
  その後、手のひらを返したごとく『侵略だ』と言い出
 した。
  これは、アメリカが、大義名分を作りたかったからだ
 った。
  だから、この様に言い出したのだった。
  一時、日本を理解し、同じ立場を取ったアメリカだっ
 たが・・、
  しかし、東アジアの小さい国・日本が、侮(あなど)
 れない国という意識が芽生えた。
  日英同盟の破棄するように、アメリカは、動いた。
  日本とイギリスを分断する行動をした。
  1902年に結ばれた日英同盟は、1923年に失効とされた。
  アメリカと共に日本は、イギリスとも、袂(たもと)
 が分かたされた。
  アメリカ・イギリスなどと対峙する立場という「好ま
 ざる立場」に立たされた。
  モーリーは、大統領就任前のルーズベルトを、レック
 ス・ダグウェルと共に訪ね・・、
  国務長官の『スティムソン外交の好戦性』を説き、
  このままでは戦争に至ることを説こうと、ルーズベル
 トを訪れた。
  しかし、ルーズベルトは、数時間におよぶ説得を聞い
 たのち、
  日本との戦争は避けられないと言い、
  避けるより、早い時期に戦った方がよい・・と・・平
 然とルーズベルトは答えた。
  驚いたダグウェルが・・、
  「ですが、日本は、人口増と急激な工業化で、新たな
 市場を必要としている。
  日本の行動が、イギリスと比べて酷いとは思えない(
 イギリスの方が酷い)」・・と言った。
  すると、ルーズベルトは・・、
  「私の先祖は、中国貿易に従事したことがある。
  だから、いつも、私は、中国人には親しみがある。
  そんな私が、日本をやっつけようというスティムソン
 に同意しないわけがないではないか」・・と。
  (「FDRのニューヨーク時代」ケネス・デービス著)
  (参考)
  モーリー(レイモンド・モーリー)は、ルーズベルト
 大統領を支援し、ニューディール政策の策定に当たった。
  だが、1933年9月、モーリーは、連邦政府の権限拡大に
 反対し、国務次官補を辞任した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive