(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月〜1890年10月)

題:(増補版)521E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月〜1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年10月24日、貴族院初代議長に伊藤博文が就任した。
  貴族院の議長は、内閣の輔弼(ほひつ、天皇陛下への
 御進言をすること)により天皇陛下から勅任されること
 となっていた。
  任期は7年。
  1947年(昭和22年)5月2日まで続いた。
  因みに、
  2代:蜂須賀茂韶  (1891年 7月〜1896年10月)
  3代:近衛篤麿   (1896年10月〜1903年12月)
  4代〜8代:徳川家達1903年12月〜1933年 6月)
  9代:近衛文麿   (1933年 6月〜1937年 6月)
  10代〜11代:松平頼寿(1937年6月〜1944年9月)
  12代:徳川圀順  (1944年10月〜1946年 6月)
  13代:徳川家正  (1946年 6月〜1947年 5月)
1890年10月27日、日本初のエレベータが、浅草に登場した。
  幕末の水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた好文
 亭という図書館のような建物内に、本を運ぶためのリフ
 トのようなエレベーターがあったという・・、
  日本初の電動式エレベーターは、写真家で、また、東
 京市議会議員であった江崎礼二氏の発案で、
  文明開化で、外国に追いつき追い越せと努力する日本
 の東京での高層建築物(浅草の凌雲閣・りょううんかく)
 12階建ての建物に設置された。
1890年10月30日、教育勅語を発布
  『教育ニ関スル勅語』(教育勅語)が発布された。
  (氷川清話)教育勅語が出来る。
  「忠」と「孝」が基本思想。
  この日、議会の招集に先立ち、「教育に関する勅語
 教育勅語)」が発布された。
  抜粋・・、
  「国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、
  夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
  つつしみ深く、高ぶらず、
  民衆に広く愛をおよぼし、
  学問を修(おさ)め、技術を学び、
  かくして知能を向上させ、人格を完成し、
  進んで国家・社会の利益を拡大し、(中略)
  国家や社会に危急のことが起こった時は、進んで公共
 のために尽(つく)くさなければならない」。
  教育ニ関スル勅語は、明治天皇陛下が、山縣有朋内閣
 総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与え
 た勅語
  この教育勅語は、アジアの国で取り入れられている。
  この教育勅語は、戦後のGHQの思想の変革方針によ
 って廃止された。
  (1948年・昭和23年6月19日、国会決議により廃止、
  形は民主的な形で、そして、日本が自主的な判断をし
 た形にしている)
  メディア・ネット情報などは、当然、アメリカを美し
 くたてている。
  そして、戦前のものはすべて悪いという言い方になっ
 ている。
  アメリカは良くて、日本については悪い事しか言わな
 いメディアの状況となっている。
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  (今日の言葉)
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  題:シベリア抑留は不適切である・・拉致である・・
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紀元前8000年頃、縄文早期
紀元前3500年頃、縄文後期
  日本の縄文時代が見直されている。
  日本の縄文時代は、思ったよりも進んだ社会だった。
  思った以上に凄かった。
  縄文時代は、農耕以前の時代で・・、
  「貧しいながらも、平等な社会だ」という以前のイメ
 ージが、変わって来ている。
  1996年〜2003年に、東京都東村山市の下宅部(しもや
 けべ)遺跡を発掘・調査すると・・、
  大量の漆製品や木製品、そして、未完成の丸木舟など
 工業的に進んだ製品が出土した。
  この良質な保存状態は・・この地の豊かな地下水のた
 めに・・良好な保存状態が保たれていた。
  また、この遺跡では、縄文後期(紀元前3500年頃)の
 「編みかご」が50点以上も出土した。
  この「かご」は、カシ類などの木の実を水につけるた
 めに使ったと見られている。
  ここ数年で、縄文のかご類の研究は、飛躍的に進んで
 来ていて、かごの素材の特定や、編み方の解明が進んだ。
  そして、潰れたかごの状態から、元の形状が復元でき
 る様にまでなった。
  この遺跡のかごの素材は、「アズマネザサ」と推定さ
 れ、上部がくびれ、土器に似た姿と解明された。
  また、佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文
 早期(紀元前8000年)のかごが、700点以上も出土した。
  編み方に、様々な装飾技法が用いられていて・・、
  縄文人が、早い段階から知的な完成度の高いかごを作
 っていたことが分かった。
  また、縄文中期は、華やかな装飾の土器が作られ、三
 内丸山遺跡(青森市)のような大集落が営まれて、縄文
 文化は、高度に華やかに繁栄していた。
  縄文時代の後期や晩期は、遺跡が小規模化した。
  数も減り、土偶や祭祀具(さいしぐ)が発達した。
  そして、動植物や古人骨の研究も相まって研究された。
  その結果・・、
  集落は、小規模化しながら、食料や土器、貝製装飾品
 などの生産が集落ごとに分業化され、『集落間でのやり
 とりが活発に行われていた』。
  土器や石器などの生活道具、食料の『生産』や『流通』
 が活発に行われていた。
  この事を見ても、後期や晩期に、文化が衰退した根拠
 はない。
  寒冷化にはあったが、危機を分散することで、資源が
 絶えないようにして、『高い回復力を持つ社会を築いて
 いた』と考えられる。
  日本の縄文時代は、地域で文化の違いのある各々が特
 徴を持った時代だった。
  (読売新聞、2017年4月5日を参考にした)
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1552年1月29日、キリスト教宣教師のザビエルは、日本人の
 優秀さにびっくりし、
  また、その日本人の優秀さの故に、キリスト教の宣教
 に、大分、苦労した。
  日本の各地を、ザビエルが布教するとき、日本人の多
 くが、ザビエルに質問したことは・・、
  「そんなにありがたい教えが、なぜ、今まで、日本に
 来なかったのか?」だった・・そして・・
  「そのありがたい教えを聞かなかった私たちの祖先が、
 今、どこで、どうしているのか?」・・だった。
  つまり、「自分たちは救われると言うが・・そして、
 救われたとしても、ご先祖様の方たちはどうなるのか?」
 ・・と・・、
  この思いやりのある優しい日本人の質問、そして、疑問・・、
  それは、キリスト教への最大の「理屈に合わない弱点」
 への疑問だった。
  キリスト教は、キリスト教徒になれば天国へ行けると
 説いているので、ザビエルは、その様に答えた。
  つまり・・結局、ザビエルの答えは、ご先祖の方たち
 は救われない・・故に、天国で会えない・・となった。
  そして、また、キリスト教の説く・・ご先祖の方たち
 は地獄となる・・と知った日本人は、さらに・・
  「すると、あなたの信じている(キリスト教の)神様
 というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないか」・・
 と、
  「全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救
 ってくれてもいいではないか」・・と、
  ザビエルは・・答えに窮した・・
  ザビエルは困り、そして、本国への手紙で・・
  「日本人は、文化水準が高く、よほど、立派な宣教師
 でないと、日本の布教は苦労します」・・と・・、
  この当時、ザビエルは、中国でも、韓国でも、インド
 シナでも、こうしたキリスト教の急所を突く質問を受け
 たことはなかった。
  1552年1月29日のザビエルの手紙(インドのコーチン
 らローマのイグナチオ・デ・ロヨラ神父へ宛てた手紙)
  「(日本人の)質問に答えるために、学識のある宣教
 師が必要です。
  特に、哲学がよくでき、弁証法に優れた人で・・、
  (僧侶との討論で)明らかになる矛盾をすぐにとらえ
 ることができる人が必要です。
  ボンズ(宣教師)は、矛盾を指摘され、答えに窮する
 ので、いたく恥じ入ります。
  (日本では)さまざまな苦労に(耐えてゆかねばなら
 ない)ので、年老いた人に適した土地ではありません。
  また、(実社会で)大いに経験を積んだ者でない限り、
 若い人にも不向きです。
  なぜなら、他の人びとの霊的な助けとなる代わりに、
 自分自身が滅びてしまうからです。
  日本の地には、さまざまな乗り越えるべき事柄があり、
 それに陥る危険があります。
  (日本人の行為を)とがめる(宣教師を)日本人は、
 よく観察しています。
  それ故、(宣教師の)ごくわずかな(欠点)がつまず
 きとなります。
  私は、これらのことについてシモン神父、もしも彼が
 不在の時には、コインブラの院長にあてて詳しく書きま
 す・・中略・・
  日本の地は、(宣教のために)どんなに苦労をしても
 報いられます。
  それで、あなたが聖なる徳を備えた人物を、日本へ派
 遣してくださるよう、心から望んでおります。
 ・・(後略)・・
  因みに、ザビエルは、日本語が話せなくて、インドに
 来ていた日本人を、日本へ連れ戻して行って、日本での
 話の時は、その日本人に話させていた。
  その時、ザビエルはは、脇に、ただ立っているだけで、
 無言だったという(ぼーっと立っていただけだという)。
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1863年11月19日、リンカーンが演説で、「government of
 the people, by the people, for the people 」・・
 「人民が、人民のために、人民を統治すること」と演説
 した。
  リンカーンアメリカ大統領が、「人民による、人民
 への政治」と言った。
  しかし、この・・「リンカーンの『人民』の中」には、
 黒人の方々は、入って無かった。
  黒人の方々を、まったく入れる気の無いリンカーン
 った。
  『人種差別主義者のリンカーン』は、卑劣にも、黒人
 の方々をアフリカへ棄てたいとしていた・・そして、ア
 フリカのリベリアへ棄てた・・棄民した。
  また、リンカーンは、幼い時に、目の前でお爺さんが
 インディアンに殺されたことから、インディアンの方々
 に対して「非常に強い復讐心を持っていた」。
  大きくなって・・その行為が現れる・・
  リンカーンは、青年期に、弁護士になって、この復讐
 を果たそうと、インディアンの方々の土地を取り上げる
 事に奔走した。
  今、その書類の多くが残っている。
  法律に疎遠なインディアンの方々に対し、赤子の手を
 ねじるが如くに、インディアンの方々のものである土地
 を取り上げて行った。
  また、大統領になってからも、インディアンの方々の
 掃討を命じ、虐殺行為がなされている。
  また、厳寒期の厳しい寒さの時期に、わざわざ、イン
 ディアンの方々の「居留地を移動をする」ことを命じた。
  「遠くの道のりを歩かせる移動を命じた」。
  体の弱い方々、インディアンの御老人や赤ん坊の多く
 が亡くなった。
  こんな人物を、北部アメリカは、記念堂を造って、奉
 っている。
  北部アメリカ政治が・・プロパガンダしている。
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1883年、工業所有権の保護に関するパリ条約が締結された。
  特許などの工業所有権に関する国際的な基本原則が定
 められた。
  (参考)工業所有権は、特許権実用新案権意匠権
     商標権・・などをいう・・
  人間の富の形態の一つである知的行動の産物・・
  この人間の富、ここにも・・他人の富を奪ってまでし
 もて、自分さえよければ良いと説くキリスト教の影響が
 働いた・・、
  キリスト教国・アメリカが、日本の「光ファイバー
 大発明」などを奪った。
  世界のどこの国もが、おかしいと言っているのにもか
 かわらず・・
  『先発明主義』という珍奇な考え方を持ち出して奪っ
 た。
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1944年9月20日アメリカで、戦後のドイツの取り扱いを決
 める会議が開かれた。
  アメリカの・・卑劣な「国レベル」での復讐案だった。
  懲罰的色彩の強い「眼には目を」の復讐案がアメリ
 で練られた。
  ドイツの国は、「北ドイツ」と、「南ドイツ」と、「
 国際監視域」の三分割とされた。
  「ドイツは、二度と工業力を与えてはならない」だっ
 た。
  ドイツには、牧草だけが生える「原始的な牧畜・農業
 国家」だけが許される・・という案だった。
  アメリでも、その過激さに、言葉を失う者も居たとい
 う・・その様な案の異常さだった。
  アメリカの・・戦後のドイツの扱いを検討する特別閣
 僚委員会だった。
  アメリカの国務長官・ハルは、怒りで顔を真っ赤にし
 ていた。
  1944年9月20日の事だった。
  案の提案者・主導者は、ルーズベルトの親しい友人だ
 という財務長官のヘンリー・モーゲンソーだった。
  内容は、あまりにも過激だった。
  しかし、モーゲンソー案は、ルーズベルトとチャーチ
 ルが承認を与えていた。
  カナダ・ケベックの米英首脳会談で、承認されていた。
  モーゲンソーは、「OK、ルーズベルトチャーチル
 の承認サインを見せた。
  誰も、反論は・・出来なかった。
  「二度とドイツに工業力を与えない」という嫌悪感を
 感じさせる強い懲罰案だった。
  ドイツの工業地帯を徹底的に破壊するというキリスト
 教の『完全破壊のシャローム』の案だった。
  「すべてを破壊して、そして、平和に至らす」という
 全アメリカ大陸のインディオ絶滅の前例の如くの迷信教
 義に影響されていた。
  ドイツ人のすべてが、農業・牧畜に従事するという案。
  またこれで、第三次世界大戦が起きるという案だった。
  国務長官・ハルは、ずばり・・
  「復讐と言うほかない」・・と言った。
  復讐の鬼と化したアメリカの意識が反映した『モーゲ
 ンソー案』だった。
  モーゲンソーは書いた・・、
  「ドイツ人は、総べて敗者であると認識するべきだ。
  餓死させないぐらいの軍のキャンプのスープを、日に
 三度、与えるだけで十分」・・とまで表現した。
  アメリカ国民の方々は、びっくりした・・この過激な
 案を知って・・そして、承認したルーズベルトに、非難
 を集中させた。
  当時、ルーズベルトは、4期目を目指す大統領選挙キャ
 ンペーン中だった。
  ルーズベルトは、モーゲンソー案を承認してから2週間
 後に、記者会見をして・・『申し開き』をした。
  そして、正式に、「ドイツの戦後案を白紙に戻す」と
 言明した。
  ルーズベルトは、撤回後、卑劣な言い訳をした・・
  「モーゲンソー案の内容を知らないまま承認してしま
 った」。
  モーゲンソーの『へま』にやられた・・と言い訳を
 言った。
  卑劣な嘘で・・モーゲンソーに失敗を擦(なす)り付
 ける言い訳だった。
  また、アメリカ国民の方々を『誤魔化す言い訳』だっ
 た。
  日本の真珠湾攻撃という偽りの「卑劣な汚名」を作り
 出した嘘つきのルーズベルト人間性を表わす、これも
 その一例となった。
  実際、モーゲンソー案は、ルーズベルトの強い支持を
 受けていたのは「動かしがたい事実」だった。
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1945年7月14日、釜石の艦砲射撃で773人が死亡した。
  アメリカなど連合国軍が、3隻の戦艦を主力とした9隻
 の艦隊が、日本製鉄釜石製鉄所を主目標として、艦砲射
 撃を行った。
  一般市民の423人の方々が死亡した。
  日本側は、釜石湾で、第221号海防艦と第48号駆潜艇
 応戦した。
  第48号駆潜艇は、アメリカ艦載機の攻撃を受け、湾内
 の千鳥島付近で沈没した。
  また、1945年8月9日に、二度目の攻撃があった。
  攻撃したのは1回目と同じ艦隊で、一般市民の271人の
 方々が亡くなった。
  この時は、最初、山側に射撃し、平地へ逃げて来た一
 般市民の人たちが、今度は、艦載機の機銃掃射で殺され
 た。
  これは、完全に、一般市民を目標とした攻撃だった。
  翌日の8月10日も、また、艦載機の攻撃を受けた。
  一般市民の犠牲:694人、軍人軍属:30人、捕虜:32人、
 合計756人の記録がある。
  攻撃艦隊は、アメリカ14隻、イギリス5隻、合計19隻の
 記録がある。
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1945年8月2日、戦後ベルリンの学校改革(〜1948年)
  連合国によるドイツ占領軍政は、軍事的保障占領を基
 礎としつつも、一定の政治目的を実現するための軍政と
 して行なわれた。
  その逮合国の占領ドイツにおいて達成しようとする政
 治目的は、1945年8月2日に、連合国間で合意に達したポ
 ツダム協定に明らかである。
  アメリカは、ドイツが、二度と復讐を思いつかない様
 にという名目で、教育改革をした。
  「ドイツの復讐を思いつかないようにする新教育制度
 をつくる」などと傲慢なことをするアメリカだった。
  これこそアメリカの復讐だった。
  ドイツの一部の組織(軍など)の責任を、ドイツの人々
 の全員に転嫁したアメリカの「間違った受け取り方」だ
 った。
  その様な解釈をするのなら、その様なドイツにしたヨ
 ーロッパ、そして、アメリカにも責任がある。
  1946年8月下旬〜9月上旬にかけて、ドイツの「アメリ
 カ占領地区」の教育事情を視察した対独アメリカ教育使
 節団の報告書には、次のような報告がみられる・・、
  「すべての教員の半数以上が非ナチ化によって解雇さ
 れた。
  解雇される状態が、現在より軽減されたとしても、教
 員の補充は準備がととのっていない。(中略)
  初等教育機関の教員の補充の必要性が非常に大きい。
  従って、現在、緊急の養成計画が最も重要である。
  占領地区各州は、それぞれこれらの緊急の養成計画を
 立案している。
  1年次は大学、2年次は教育実習、3年次は再び大学での
 学習を要求している。
  一つの計画は、緊急の必要に充分まにあうように思わ
 れる」。
  これらは、問題点をすべて相手(ドイツ側)へ転嫁し、
 ナチスというレッテルを貼って、だからすべて悪いとし、
 自分のお好みに作り代えるという「立ち入った強行策」
 が行われた。
  強いアメリカは、腕力で相手をやっつけ、腕力で従わ
 せたら、戦争原因でないことまで、なんだかんだと言っ
 て、相手を自分のお好みに変えた。
  国レベルの『ガキ大将』行為という状況だった。
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1993年10月、ロシアのエリツィン大統領が、シベリア抑留
 について、謝罪の意を表明した。
  この不法行為が、シベリア抑留と記され、そして、言
 われているが『適切な言葉ではない』。
  抑留とは、「強制的にその場所に抑え留める事」とあ
 るが・・、
  しかし、この日本人を連れて行ったソ連の行為は、『
 日本人の拉致行為』である。
  拉致:らち、無理に引き連れてゆくこと・・とあるが、
 これである。
  犯罪行為である。
  ソ連の正当性は、まったくない。
  「日本軍捕虜だ」とソ連は言ったって、戦争が終わっ
 た後、戦後になって、攻めて来たのだから・・、
  戦争は終わっている状況の中で、攻めて来た・・故に、
 ソ連の言い訳は『成立しない』。
  捕虜ではない。
  また、戦闘行為をしていない民間人も連れて行ってい
 るのだから『拉致』であり、犯罪行為である。
  『隷属的な強制労働の目的』のために連れて行った犯
 罪である。
  ソ連は、日本へ『戦後補償する必要がある』。
  この問題が未解決である。
  この件についての・・話を付けよ!
  シベリア開発をさせようという魂胆で、日本人を強制
 的に拘禁して、
  (拘禁、こうきん:捕らえて、その者の身体を継続的
 に拘束すること)・・この拘禁なのである。
  57万5000人もの方々を、シベリアへ連れて行った。
  この非人道的な行為を、筋の通らない行為をソ連は行
 なった。
  劣悪な環境下で、5万5000人もの日本人の方々が亡くな
 った。
  この様な悪行為を、アメリカも、イギリスも、正そう
 とはしなかった。
  見過ごして・・見て見ぬふりをした。
  逆に、アメリカは、ソ連へ武器を渡した・・供給した。
  中立状態のソ連へ、武器を渡して『そそのかした』。
  そのアメリカの卑劣な行為によって、日本人は攻めら
 れ・・日本人たちは拘束されて行った。
  杉原千畝の嘘話どころではない、55万人以上の話なの
 である。
  卑劣な、そしてまた、攻める武器を渡す行為などをす
 る同罪のアメリカ・イギリスなどだった。
  卑劣な連合国の諸国だった。
  この悪行為で5万5000人もの日本人が殺され、また、亡
 くなった・・
  この行為に対して、はっきりしたソ連の謝罪はない。
  ソ連の手を逃れた日本人は、無事に、日本へ帰って来
 れているのだ。
  ソ連は、戦争が終わったので、逆に、『保護をすべき
 立場だった』のだ・・ソ連の保護行為はまったく無い。
  また、ソ連は、連れて行った、拉致して行った日本の
 方々を、中々、解放しなかった・・
  長期に使役した。
  釈放せず、捕まえたままで、連れて行ったシベリアで、
 長々、不法に捕まえた日本人を、劣悪な環境下で、重労
 働をさせた
  鉄道建設などの重労働で死んで行った日本人たちは、
 どれほど痛ましかったか・・、
  この不法な拉致期間は、最長で11年にも及んだ・・11
 年間も重労働をさせた。
  日本人の一般人に対して、ソ連の犯罪性は、はっきり
 している。
  また、この行為は・・武装解除した日本兵について、
 ソ連がしたこの様な行為は、「ポツダム宣言に反してい
 る」。
  ポツダム宣言は、「復帰を保証している」ではないか・・、
  1993年10月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は、
 「非人間的な行為」と謝罪の意を表明したが、
  『はっきりとした謝罪と、その補償を要求する』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive