(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年12月)

題:(増補版)615E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年11月〜1894年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1894年11月22日、日米通商航海条約に調印した。
  江戸時代に結ばれた日米修好通商条約の不平等条項を
 改正したのだが、まだ、関税自主権は完全には回復でき
 なかった。
  (当然の権利である治外法権は回復した)
  しかし、自国益をしつこく握るアメリカに、まだ牛耳
 られる日本だった。
  関税自主権の回復は、1911年を待たねばならない。
  しかし、この時の改正でも、まだまだ日本は、色々な
 譲歩を要求された。
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1894年11月24日、宮内省式部職付属音楽学校、奏音堂(上
 野奏楽堂)で、歌劇「ファウスト」が上演された。
  これは、日本における初めてのオペラ上演だった。
  宮内省式部職付属音楽学校・奏音堂(上野奏楽堂)は、
 東京音楽学校(現:東京藝術大学)の奏楽堂のこと。
  この演奏会は、日清戦争の義捐(きえん、慈善や公益
 のための寄付)のための音楽会で、演目はグノー作曲の
 「ファウスト」第1幕だけの部分上演だった。
  指揮は、音楽学校教授のフランツ・エッケルト
  オーケストラ伴奏は、宮内省楽部、
  合唱は、音楽学校の生徒
  ファウストは、ブラッチャリーニ、メフィスト
  フェレスは、クーデンホーフ伯爵、
  マルグリートはヴァルナムが務めた。
  ゲーテの原作はドイツ語だが、オペラはフランス語。
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1894年11月26日、慶応義塾大学の学生が、旅順口の陥落を
 祝って初めてカンテラ(油用灯火具)行列を行なった。
  このカンテラ行列は、慶應義塾大学の独特の祝賀行進
 だったが、この時以来、国家的な祝祭の時にも挙行され
 るようになった。
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1984年11月28日、アメリカ紙が、デッチ上げニュースであ
 る旅順虐殺を報道した(まったくのプロパガンダ嘘報道)
  「ニューヨーク・ワールド」に、「日本は文明の皮膚
 を被り、野蛮の筋骨を有する怪獣なり」とする記事が掲
 載された・・
  これは、新聞の部数販売を拡張しようとした、この頃、
 流行っていた煽情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)
 だった。
  特に、この記事を書いたクリールマンは、この時の日
 本以外にも嘘で煽る記事を書いていて、その嘘が世界か
 ら指摘されている。
  1888年米西戦争の時も、クリールマンは、この様な
 報道をして、世界を惑わせ、世論を誘導する前科のある
 悪名高き記者だった。
  この米西戦争の時も、クールマンの「虐殺報道は嘘だ」
 と疑義が出された。
  そしてまた、この旅順口の嘘記事である・・「虐殺は
 ない」の訂正を要求する証言も多く・・このクリールマ
 ンの報道を耳にしたベルギー公使が、現地にいたフラン
 スの武官に尋ねたところ・・、
  「女子供の死傷者はいない」。
  「住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士ら
 がいただけ」と否定した。
  また、旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド紙の
 特派員であるアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは・・、
  1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマ
 ンが報道するような虐殺は発生していないと証言してい
 る。
  さらにまた、ゲルヴィルは、1904年の著書『Au Japon』
 でも「虐殺は捏造されたものであった」と論じている。
  そして、欧米でのジャーナリズム史の研究でも、旅順
 の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載した新聞・
 ニューヨークワールド紙が、ライバル紙と競い合って扇
 情主義報道を行っていたことは常識で定説となっている。
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1894年11月29日、天皇陛下が、第1軍司令官・山縣有朋の召
 還を御命令。
  1894年7月から始まった日清戦争で、56歳にもかかわら
 ず第一軍司令官として自ら戦地に赴き、作戦の指揮をと
 った山縣有朋
  「敵国は極めて残忍の性(さが、自分ではどうしよう
 もない生まれつき。性質)を有す。
  生擒(せいきん、生きたまま捕らえること)となるよ
 りむしろ潔く(いさぎよく)一死を遂(と)ぐべし」と
 訓示している。
  配下の野津道貫が率いる第5師団が、9月の平壌の戦い
 で平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自
 身は体調を崩した・・
  この事をお気遣いされた天皇陛下は、この月の11月に、
 「病気療養をするように」という勅命を出されて、戦線
 から呼び返された。
  そして、山縣は、12月に、帰国した。
  無念の帰国を余儀なくされた山縣であったが、伊藤・
 井上らが、山縣の今後について打合わせ、天皇陛下も体
 面をお気遣いされ、山県に第一軍司令官と枢密院議長を
 免じる代わりに監軍に据え、2回目の元勲優遇の詔勅
 下すなど、山縣を少しでも慰めようと御配慮された。
  その甲斐あってか、帰国後、山縣は体調を回復し、戦
 後の1895年8月5日に、第二軍司令官だった大山、西郷従
 道海軍大臣と共に、日清戦争の恩賞として旭日桐花大綬
 章、功二級金鵄勲章を授与され、伯爵から侯爵に昇叙さ
 れた。
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1894年11月、伊藤内閣、自由党との提携趣意書を発表した。
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1894年12月1日 奥羽北線(おううほくせん)青森〜弘前
 が開通した。
  官設鉄道の青森〜弘前間と、日本鉄道会社線との連絡
 運輸が開始された。
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1894年12月9日、上野の不忍池畔で、戦勝祝賀会が東京市
 有志の手によって開かれた。
  第2回も開く予定であった。
  市民も「公明正大なる戦争」とし、その戦争の連戦連
 勝を喜んでいた。
  参加は満15歳以上で、50銭の会費を払って会員となり
 会券、会章、昼餐券を受け取った。
  朝の7時半に日比谷練兵場に集合し、桜田門から宮城前
 広場で万歳三唱し、丸の内から日本橋、そして、上野公
 園へ歩いた。
  旗や幟(のぼり、細長いきれの一端を竿の先に付けて
 立てるもの)を立て、山車を曳いた。
  9時頃、上野公園に到着した。
  10時から儀式を行なう。
  東京市長の祝文朗読や、東京市会議員らの挨拶、靖国
 神社の宮司の戦捷(せんしょう、戦勝)祝祭の執行、万
 歳三唱で終わった。
  その後、種々の余興見物となる。
  「川上音二郎戦地見聞日記」の野外劇が上演され、野
 戦病院の体験、陸海軍の手踊りなどが行なわれた。
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  (今日の言葉)
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  題:ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
   計画の中心に居た。
    それだけではなく、戦争のすべてに、ルーズベルト
   関わっていた・・戦争政治家そのものだった。
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1521年、アステカ王国が滅亡した。
  そして、1533年には、インカ帝国が滅亡した。
  その他の地域においても、ひどい殺戮行為が続けられ
 各地で全滅が相次いだ。
  メキシコ以南の北米・中米・南米、そして、その離島
 のインディオの方々は、スペイン・キリスト教徒とキリ
 スト教聖職者たちに虐殺され、全滅していた。
  未曾有の人類史上最悪の極悪行為だった。
  この行為が行われる最初、現地に着いた殺戮者たちは、
 現地の人たちの取り扱いについて「どうするか?」と、
 バチカンローマ法王教皇)へ質問した・・
  回答は・・「人ではない」だった・・
  ここから大虐殺が50年に渡って行われた。
  この事について、あまりにも卑劣な行為をして来たキ
 リスト教聖職者のラス・カサスが、このままでは天国へ
 召されないと、行かれないと、本国のスペイン王へ報告
 した。
  50年もの殺戮の歳月が流れた後だった。
  その報告を聞いていたスペイン王とその側近の面々は、
 そのすべてを聞くことに耐えられず、「本に記せ」と言
 った。
  その本が、「インディアスの破壊についての簡潔な報
 告」である。
  当然、この本には、キリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが行なった史上最悪の蛮行(南北アメリカ大陸など
 の卑劣な殺戮)が記されている。
  その記述の1例・・49頁〜・・
  キリスト教徒等に、300人のインディオが分配され渡さ
 れて、3ヶ月のうちに、そのうちの270人が鉱山労働で死
 んでしまい、
  生き残ったのは30人に過ぎなかった。
  3ヶ月か、4ヶ月の間に、約7000人以上の子供が餓死し
 た。 
  両親が鉱山へ連れ去られてしまったからである。
  また、
  私(キリスト教聖職者)は、このほかにも数々の身の
 毛がよだつような出来事を目撃した。
  (この聖職者らは、何ら、インディオの方々を助けよ
 うとはしなかった・・その様な悪漢である)
  その後、また、インディオ達を狩り出しに行くことに
 なった。
  結局、キューバ島を荒廃させ、全滅させてしまった。
  総督は、無慈悲で無分別で、
  (今さら、インディオたちが死んでしまった後、こん
 なことを言ったって、この聖職者たちは殺すがままにさ
 せていた悪漢)
  彼らの行った忌まわしい行為は、それまでのものをこ
 とごとく凌(しの)いでいた
 (他人に悪さを転嫁するな、誰も居なくなった荒れ地に
 キリスト教会を建てただろう)。
  金(きん)も非常に豊かであった。
  それまでは、地上にそんなにも多くの金があろうとは
 思いつかなかった。
  金の在所(ありか)を白状させ、
  数々の新しい虐待や拷問の方法を考え出した。
  (止めろとも言わなかったキリスト教聖職者たち、今
 頃、弁解したって死んでしまったではないか)
  その聖なる使命をいつもないがしろにしていた。
 (君たち、キリスト教聖職者たちが聖ではないのだ)
  全世界に行ってすべての人々に福音を述べ伝えよ。
 (福音ではないよ、殺しに行っただけではないか、総
 べて殺して)
  さもなくば、妻子ともども生命をも失なうことになる
 であろう。
  盗賊と変わらない行為をする部下たちを先に派遣し、
 われらは神とローマ教皇、それに、この地の君主である
 カスティーリャノ国王についてお前たちに知らせにやっ
 てきた・・云々。
  さもなければ、われらが即刻、戦さを仕掛け、お前た
 ちを殺したり捕えたりすることになると心得よ。
  夜の明けそめる頃、大半が藁造りのインディオ達の家
 に火を放った。
  (キリスト教聖職者たちは止めもしない)、
  殺戮をほしいままにし、彼らに奴隷の焼印を押した。
  火勢が弱まるか、火が消えると、彼らは焼け落ちた家
 の中にある金を探しに出かけた。
  官吏たちとて例外ではなかった。
  キリスト教の司教も、その御利益にあずかろうと側近
 の者たちを派遣した。
  (ほら見ろ、キリスト教聖職者たちも欲にまみれた悪
 漢だったのだ)
  数人の無法者の総督が引き続きその地へ赴いた。
  生きのびたインディオ達を暴虐的な奴隷状態へ陥れ、
 挙句の果てに殺害した。
  また、彼らは部下たちが同じように振る舞うのを認め
 ていた。 
  (キリスト教聖職者も同罪・・キリスト教は、世界の
 あちこちでこんな事ばかりしている)
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1581年、ポルトガルのアビス王朝が倒され、1581年以来、
 スペイン国王へりーぺ2世の支配を受ける屈辱のポルト
 ルの歴史が始まる、時代に入る。
  スペインは統一を完成し、まっとうして、中南米へと
 進出して行く・・そして、ここで悪名高い卑劣な虐殺を
 行なう・・1000万人以上というインディオの方々の殺戮
 の限りを行なう・・
  そのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちは、先住民
 のインディオの方々の殺戮の限りをし尽くし、50年とい
 う長年に渡る卑劣な行為を行なう・・そして、その悪に
 染まった殺戮者たちは太平洋へ出て来る・・
  ルソンへ進出する・・そして、ここを本拠とし・・
  日本と接触を始める。
  日本は信長・秀吉の時代だった。
  そして、日本を中米・南米などのアメリカ大陸と同様
 な植民地にしようという魂胆でやって来る・・その任務
 を秘めたキリスト教宣教師たち・・
  しかし、その魂胆が見破られ・・また、許可を得て始
 めた南蛮貿易での悪行・・若い日本の女性を海外へ連れ
 去る人身売買の悪行が見破られ・・陰で悪行の限りをす
 るキリスト教宣教師たちは「国外対処処分にされる」。
  おとなしく言われるように日本を去ったものは何事も
 無かったが・・命令に反して潜伏したキリスト教宣教師
 たちが悪の根源だった・・
  今・現在、キリスト教は、「禁教だ」「禁教だ」と叫
 ぶが、キリスト教側が命令に従わない事から、何事も話
 が始まるのだ・・身から出た錆、キリスト教の悪行から
 発しているのだ。
  「長崎の26聖人」なんて言っているが、命令違反の潜
 伏キリスト教宣教師たちにたぶらかされた犠牲者たちだ。
  そして、豊臣秀吉は、1598年に没する。
  時代は徳川家康の手に移って行く・・そして・・
  1600年を参照・・
.
1600年、オランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に来た。
  それに先立つ12年前の1588年、スペインは、世界に君
 臨していた無敵艦隊を壊滅させられた。
  極悪のスペインの命運はここまでだった。
  海上権を失ったスペインの悪行もここまでだった。
  スペインからの独立戦争を戦っていたオランダと、そ
 のオランダを支援していたイギリスに、その主導権は移
 る・・、
  スペインは政治的にも、また、経済的にも後退して行
 った。
  オランダ・イギリスは、1595年以来、国を挙げて東洋
 航路を開拓していた。
  オランダは、1598年、5隻の艦隊をマゼラン海峡を回る
 航路で東洋へ向かわせた。
  そして、その1隻が、僚船を失いながらも、1600年に、
 日本の豊後に至ったのだった・・その船がリーフデ号。
  徳川家康は、その船の航海長のイギリス人ウィリアム・
 アダムスを大阪に呼びつけ、オランダとイギリスとの貿
 易を許した。
  オランダは、すぐに応じて、ジャワを根拠地とした。
  そして、1609年、平戸に商館を建てた。
  イギリスも、1613年に、平戸に商館を建てた。
  そして、徳川家康から自由貿易の朱印状を得て、盛ん
 に貿易を始めた・・日本は開かれていた。
  ポルトガルは、独占的な対日貿易権を失った。
  それと同時に、ポルトガル系の日本イエズス会にも大
 きな打撃が与えられた。
  はじめポルトガルが、日本のキリスト教の布教を始め
 ていた。
  1585年1月には、ローマ法王教皇)の「日本布教は、
 ポルトガルイエズス会)がせよ」という命令も出てい
 た。
  しかし、その様な命令も無視され、スペイン系フラン
 シスコ会が日本に来て布教を始めた。
  この様な事で、キリスト教の会派同士の確執と争いが
 生まれた。
  この様な事からローマ法王教皇)は、1600年12月、
 前言を取り消して、再度、命令を出した・・
  「諸会派が日本で布教しても良い」・・と。
  ここに「ポルトガルイエズス会」の日本布教の独占権
 は破棄された。
  そこで、1602年、スペイン系の諸会派が、日本布教を
 始めた(ドミニコ会、アウグスティノ隠修士会)
  そして、1608年6月、また再び、ローマ法王教皇)は
 命令を出し・・
  「日本の布教は、完全に自由だ・・みんな勝手にやり
 なさい」・・と。
  誰がやっても良いぞーという中で、ポルトガルのキリ
 スト教会派とスペイン系の会派は、日本で陰湿な争いを
 始めた。
  この両国は、国民感情も対立していて、キリスト教
 派も対立が激しかった。
  いがみあいは、特に、イエズス会は、各会派から集中
 的に激しい論難が加えられていた。
  この対立は根深く、陰湿で、対立解消には至らなかっ
 た。
  家康は、キリスト教が素晴らしい宗教だから布教を許
 したなどという事では、当然、無く・・
  家康の目的は、貿易を独占的に行うことと、新しい西
 洋の技術を得ることにあった。
  1599年には、早くも家康は、江戸における布教を許し
 ていた。
  そして、浦賀を開港していた。
  そして、鉱山採掘技師を連れて来させたりしていた。
  1602年には、江戸及びその周辺の布教に拡大した。
  キリスト教プロパガンダ(嘘宣伝)で、日本の状況
 が陰湿な状況へ捻じ曲げられているが・・キリスト教
 悪いことをしなければ、日本は、大変、開明的だったの
 です。
  (参考)開明的:かいめいてき、優れた洞察に基づい
     て、新たな分野に積極的に取り組むさま。
     ・
     ・
1941年、アメリカは、日本を煽(あお)るため、アメリ
 軍艦に日本領海侵犯航行をさせた(今の中国みたいなも
 のだ)
  策士・ルーズベルトは、何としても最初の一発を日本
 に撃たせたかった。
  また、日本が、先に、撃った事にしたかった。
  アメリカの国民の方々は、8割以上が戦争反対だった。
  ルーズベルトは、その世論を無視して、日本を煽(あ
 お)るために、1941年に、アメリ巡洋艦を日本領海内
 に侵入させた。
  そして、日本と「衝突事件を引き起こそう」と不埒(
 ふらち)な事をさせていた。
  また、日本への石油の輸出を止めた。
  今・現代でもそうだが「石油が止まったら、国の息の
 根は止まる」・・ルーズベルトは、この様な戦争が起き
 かねない重大な事をした。
  そして、ルーズベルトがした事は、「ハル・ノート
 だった。
.
1941年4月、本当の日米開戦
  日本へ隠密に奇襲攻撃をするアメリカだった。
  アメリカ軍が、中国軍の振りをして日本軍を奇襲攻撃
 していた。
  これが、日本とアメリカの戦端が開かれた史実・事実・
 真実となっている。
  アメリカに擦(なす)り付けられた日本の奇襲の悪名
 は、この史実から・・『ない』と言える。
  既に、アメリカの奇襲による先制攻撃で、日本とアメ
 リカは交戦状態にあった。
  アメリカ軍は、卑怯にも中国軍を装って、実際はアメ
 リカ軍の航空師団フライング・タイガーで奇襲した・・
  軍籍を外したりして偽装した。
  このアメリカ軍が、中国戦線に投入され、日本軍と交
 戦していた。
  れっきとした日米の戦争状態で、アメリカは言い逃れ
 できない。
  アメリカは、卑怯にも、正式の宣戦布告などしていな
 い。
  卑怯で卑劣な事をするアメリカであるが・・、
  フライング・タイガーを、アメリカは、民間ボランテ
 ィアだと言い訳をした・・、
  そして、真珠湾では・・
  日本が真珠湾の攻撃をする前に、アメリカ軍が、航行
 速度が遅い日本の潜水艦は、先行して真珠湾に達してい
 て、この先行していた日本の潜水艦を攻撃した。
  日本の真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の軍艦を攻
 撃して、戦端を開いていたのだった。
  この時、アメリカは『あれはクジラだった』と、また
 また、アメリカは苦しい言い訳をした・・が・・、
  5隻の日本の潜水艦が未帰還になった。
  この5隻のすべてを、アメリカは「クジラだと言いたい
 のか?」。
  また、1隻に2人の搭乗員が居て、9名は戦死したが、1
 名の日本の搭乗員をアメリカは救助した。
  クジラから出て来た日本の潜水艦の搭乗員である。
  アメリカは、言い訳ができないのである。
  そして、また、この中国でのアメリカの日本への先制
 攻撃を、最近、アメリカ大統領が、直接、『許可を与え
 る』という命令をしている事が判明した。
  この様な、明確な行為を、アメリカ大統領がしていた
 事が判明した。
  攻撃許可は、開戦である・・交戦である・・戦争状態
 に入る事である。
  れっきとしたアメリカの宣戦布告なしの開戦である。
  アメリカの奇襲状態の開戦である。
  米国立公文書館に、この動かぬ証拠がある。
  逆に、アメリカは、日本に奇襲攻撃を既にしていたと
 いう事実をアメリカは国民に公表せよ・・、
.
1941年11月27日、戦争へ向けて暗躍するルーズベルト大統領
  第二次世界大戦の重要史料である「モンゴメリー・ハ
 イド文書」などが、100年後の2041年まで秘密にされた。
  都合が悪いから、秘密にする期間を延ばした。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  本・『操られたルーズベルト』より
  ・・・
  ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃の舞台回しをして、
 (日本軍の)来襲があることを知っていたことの最も反
 論できない証拠は、H・モンゴメリー・ハイド『3603号室、
 イギリス諜報機関の話』に出ている。
  この本は、ロックフェラーセンターの36階3603号室で
 執務していた、イギリス秘密機関長ウィリアム・ステフ
 ェンソンが、日本をアメリカとの戦争に引き込み、従っ
 て枢軸国との戦争へアメリカを引き込むことを、ルーズ
 ベルト大統領や他のアメリカ高官と謀議したその詳細を
 記述している。
  モンゴメリー・ハイドは、さらに詳細に述べている(
 以下、同書より引用)
  「ステフェンソンはイギリス籍で、日本で50年過ごし
 たエージェント(工作員)を、栗栖使節団に潜入させる
 ことにある程度成功した。
  このエージェントは、栗栖使節団のユキという人物に
 接触し、あらかじめ会話を盗聴する仕掛の設備をしたワ
 シントンのアパートで幾回か会った。
  この記録から得られた情報は、文書化され、そのコピ
 ーはステフェンソンによって、毎日、ルーズベルト大統
 領に届けられた。
  これは、当時、暫く前から傍受解読されていた東京と
 ワシントン間の外交電報を補強するものであった。
  1941年11月27日、ルーズベルト大統領は、彼の息子ジ
 ェームズ・ルーズベルトに、特別のメッセージを持たせ
 てステフェンソンのところへ送ったが、その意図は、イ
 ギリス外務省もワシントンのイギリス大使館もまだ分か
 っていなかった。
  その同じ日に、ステフェンソンは、それをロンドンに
 送った。
  彼の電報は、次のようなものだった。
  『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  私は繰り返します。
  電報は、『日本トノ交渉ハ打チ切ラレタ』。
  『軍ハ2週間以内ノ戦闘ヲ予期ス』
  想像されるように、この電報は、ロンドンに巨大な激
 動を与えた。
  そこで、ワシントンにいたハリファックス卿(訳注・
 駐米イギリス大使)に、直ちに、電報してその確認を求
 めた。
  他の至急報がロンドンから、今度は、ステフェンソン
 宛てに出されたが、それは、首相と閣僚が彼の情報源を
 知りたいというものであった。
  ステフェンソンは簡単に返電した。
  『(情報源は)アメリカ大統領(ルーズベルト)』
  2日後の11月29日に、コーデル・ハルは、ハリファッ
 クス大使に会い、そのニュースを公式に伝えた。
  その際、コーデル・ハルはこう言った。
  『日本との外交関係は事実上終わった。
  仕事は、既に、陸海軍の手に渡った。
  日本は、今や突然に動き、それも完全な奇襲の要素を
 持つであろう』」
  ヒルダーとルーズベルトの娘婿のドール大佐とのやり
 取り
  ◆ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付ロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、共和党から大統領候補として出たデューイはパー
 ルハーバーの真相を知っていた、と書いています。
  この記事でチェンバレンはデューイ知事に個人的にイ
 ンタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、次の日に、
 太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホワイトハウス
 は15時間以上前に知っていたことが分かった』と言って
 いた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  ◆ドール:12月7日のその日曜日の朝9時、奇襲攻撃の
 約4時間前に、スターク提督は、彼の部屋で14項目の日本
 の返事を受け取り、一緒にいたマーシャル将軍に向かっ
 て叫んだ。
  「大変だ!これは戦争だ」。
  「直ぐキンメルに知らせなくちゃ」
  ヒルダー:もし彼が電話でキンメル将軍に通報してい
 たとすれば、奇襲は避けられたでしょうか。
  ドール:はい、私はそう思います。
  ロバート・A・セオボールド提督は、『真珠湾最後の秘
 密』の中に、電話連絡はされなかったという事実を書い
 ています。
  今でも、アメリカの大衆に「完全には明かされていな
 い」、
  何らかの強い力、あるいは圧力が、キンメル提督に適
 切、迅速に警報することを止めたのです。
  キンメル自身が私にこう語りました。
  「スタークは、『我々はキンメルに無電を打って、警
 戒させなければならん』とマーシャルに言いましたが、
 彼はそれを止め『それはやめよう、そうすると日本人に
 気付かれ、事態を複雑にする。
  私は後から彼に電報しよう』。
  彼は、確かに、商業通信線を使う普通電報で私に知ら
 せたのです。
  至急便ではなく、普通便扱いで。(その結果)すべて
 の爆弾が落ちてしまって約2時間後、確かに、私は、マー
 シャルの電報を受け取ったよ」
  ヒルダー:マーシャルもCFRのメンバーですか。
  ドール:確かにそうでしょう。
  ヒルダー:マーシャルの行動はとても理屈に合いませ
 んね。
  日本人に探知されると事態を複雑にするから、キンメ
 ルへの通報を止めさせるというのは、大変不思議ではあ
 りませんか。
  ドール:もちろん非常に不思議です。
  (参考)
  12月8日を記憶せよ!
  「私は決して宣戦はしない。私は戦争を造るのだ。」
  カーチス・B・ドール著『操られたルーズベルト
.
1953年6月19日、この日の夜、ローゼンバーグ夫妻の死刑
 執行がアメリカ合衆国でなされた。
  ソ連のスパイとして、核機密を、ソ連へ漏洩したロー
 ゼンバーグ夫妻だった。
  日本で、この夫妻の無実を訴えて、救済運動に関わっ
 た共産主義者が多かった。
  そして、近年、夫妻が、本当に有罪だったことが確認
 された。
  それでも、「しらばくれる日本の共産・左翼の知識人
 たち」だった。
  反論すると墓穴を掘ると思うから、議論をしないとい
 う卑劣な態度をとった。
  この様な事は、キリスト教神学者や聖職者たちにも
 言える。
  最近、「ヴェノナ文書」が公開されて、ローゼンバー
 グ夫妻が、実際に、スパイ活動を行なっていたことが明
 らかになった。
  刑の執行は、ニューヨーク州シンシン刑務所で、同じ
 電気椅子で、最初に、夫ジュリアスが午後7時6分に執行
 され、次に、妻エセルが午後7時16分に執行されるという
 やり方で、それぞれ処刑された。
.
1960年代の半ば、エドガー・スノーは、中国のプロパガン
 ダに心酔し、中国共産党にべったりという状態になる。
  1960年代の半ば頃、そのあまりにもおかしいスノーに、
 ジャーナリストとして客観性を欠いていると批判が出る。
  そして、スノーもさすが自分が毛沢東に騙(だま)さ
 れていると、中国に対して懐疑的になった。
  「今日の赤い中国」で有名になるが、大躍進による大
 飢饉(中国国民の4000万人が死んだと言われている)を
 否定する。
  (そんなことは起きていない・・と)など、
  しかし、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批
 判され、スノー自身も、「後に自らの無知を認めている」。
  1970年〜1971年、エドガー・スノーは、妻を伴った最
 後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領
 は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述
 べている。
  ホワイトハウスは、このスノーの訪問に興味を示した
 が、スノーを信頼していなかった。
  しかし、この時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、
 スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇
 帝崇拝の伝統がある」と言った)や・・、
  革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・
 拷問された(周恩来の介入で、スノーは生還できた)こ
 となどにより・・、
  中国共産党率いる中華人民共和国に対して、幻滅の感
 を持つに至った。
  そして、中国へのゴマすり小説の『中国の赤い星』を
 書いたことを後悔していると妻へ語った。
  ユン・チアンとジョン・ハリディは、「マオ(誰も知
 らなかった毛沢東)」で、スノーを、毛沢東のスポーク
 スマンで、毛沢東の神話化に加担した、そして、共産党
 をロマンチックに描写していると批判した。
  また、ジョナサン・ミルスキーも、スノーは、周恩来
 や毛沢東からの信頼を得ていることに満足していたため、
 大躍進の(巨大な中国国民の死)の被害を見ることもで
 きなかったと述べている。
  しかし、それでも中国は、「スメドレー・ストロング・
 スノー協会」を組織し、プロパガンダ(嘘宣伝)映画も
 作り、せっせと世界を誤魔化している。
  2006年、ロイス・ホイラー・スノー夫人は、インタビ
 ューで、「彼は、今日の中国の姿を、決して是認しなか
 ったでしょう」と語り、中国の何事に対して、不誠実な
 姿を批判している。
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1972年、中国の「第二期対日解放工作要領」
  中国は、情報工作を必死にやって来た。
  「32年テーゼ」がある。
  (参考)32年テーゼ:1932年5月に、コミンテルンで決
     定された『日本における情勢と日本共産党の任
     務に関するテーゼ』のこと。
      日本から片山潜野坂参三、山本懸蔵らが参
     加し、討議している。
  また、強く日本へ影響を与えた1972年に出された「第
 二期対日解放工作要領」がある。
  この中には『日本をまるまる中国共産党の為に利用す
 るには、日本国民を心理的に取り込む必要がある」と書
 かれている。
  そして、1998年の「21世紀の中日関係の展望」でも「
 日本は、もはや政治大国になれないのだから、中国の為
 に日本の力、特に、その経済力や技術力を活用しなけれ
 ばならない。
  日本人をコントロールするため、日本人に歴史問題を
 突き付けて、日本人を後退させる」と書かれている。
  そして、日本国内の大学のあちこちに孔子学院を作っ
 ている。
  ドイツのメルケル首相が「儒教でも教えるのかと思っ
 たら、中国のプロパガンダ(中国思想の洗脳機関)だっ
 た」と嘆いたごとくだった。
  今、世界が、中国の嘘宣伝工作に気付いて来た。
  アメリカは、「孔子学院の閉鎖の大統領令が出された。
 アメリカでは、孔子学院が次々と閉鎖されている。
  しかし、中国の陰湿なしつこさは、「各大学に中国研
 究センターの類いを作らせてところだ」。
  非常に重層的に、中国は、世界の工作網を作っている。
  中国のプロパガンダの歴史は、非常に長い歴史がある。
  中国にとってこのようなレベルは、お手のものなのだ。
  日本では、「日本学術会議が取り込まれている」。
  日本学術会議は、「戦争反対を美しい名目にして、日
 本の防衛に必要不可欠な研究成果を使わせない」として
 いる。
  中国が喜ぶだけだ。
  日本学術会議が、中国に取り込まれる歴史は、非常に
 古い。
  その1例、1955年6月、日本学術会議は、多くの面々が
 顔を連ねて、東大総長を団長として、中国へご機嫌うか
 がいの北京訪問をする。
  そして、工作員上がりの郭沫若と会う。
  そして、挨拶で、「中国のお役に立てる研究者たちを
 連れて来ました。
  それが、何よりも一番の中国のお役に立つお土産にな
 ると思いまして」と挨拶する。
  日本の技術を欲しがっている中国の要望に応じるとい
 う日本学術会議となっている。
  公然たる「日本裏切り団」となっている。
  「産業スパイ団」となっている。
  また、これは、「チンコム(対中輸出統制〉違反」と
 なっている(1957年まで実施)。
  そして、この時、郭沫若は、繰り返し繰り返し強烈な
 毛沢東讃美演説をしている。
  日本学術会議の面々は、この様な中国共産主義思想の
 洗脳を受け、そして、タイコモチ化した日本学術会議
 面々が日本に帰って来た。
  この様な、中国のしつこい行為の繰り返しがなされて
 いた。
  1940年代の延安に逃げて、隠れていた中共は、ここで、
 中共が何をやっていたかを知っているはずの日本学術会
 議団なのに、洗脳されて、有り難がって日本に帰って来
 た。
  延安の中共が、中国国民の方々を、大勢、殺すという
 大粛清をしていることも知っていて・・、
  そして、目の前に居る人たちが、その様な虐殺行為を
 していることも知っているのに、まったく思い出せない
 という洗脳の輩状態となっている。
  そして、その後に、日本への裏切り行為をする。
  折角の研究成果を、日本に使わせないという、中国が
 喜ぶ行為をする。
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1979年、古田博司氏(筑波大学教授)は、若い時、共産主
 義にかぶれ、共産主義の本質がまだ見れていなかった。
  26歳の時、憧(あこが)れ続けていたソ連へついに旅
 立った。
  社会主義国の素晴らしさが見たかった。
  ソ連では監視員が付き、自由に見ることを拘束された。
  古田氏は、監視員をまいて、自由の身になって、裏町
 を見るのが好きだったので、勝手に歩き回った。
  すると、ソ連の街中では、失業者の群れに出くわした。
  社会主義国には、失業者は居ないと教えられていたの
 にと・・言われている事と実際がまったく違うという現
 実を見た。
  町の建物の壁には、「旋盤工を求む」とか、「ミシン
 工を求」とか、求人の貼り紙が張ってあるし、平等に皆
 に仕事があると聞いている話とまったく違った。
  食糧は、集団農場で、毎年、増産されているという話
 もデッチアゲで、野菜売り場には巨大な瓜があるだけと
 いう貧弱さ。
  色々と見て、今まで話に聞いていたことは、まったく
 のプロパガンダ(嘘宣伝)であるという事がすぐに分か
 った。
  共産主義国は、この様な話が満ちていた。
  ソ連は、その後、破綻するが・・、
  共産・中国は、今なお、中国共産主義独裁政権が政治
 を牛耳っている。
  ・・が、このソ連の例が、この国にも当てはまる様相
 になりそうだ。
  虚偽によって「世界をだぶらかせている」。
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1991年1月、橋本龍太郎蔵相が訪中した。
  この行動が罪作りで最低だったのは、中国が天安門
 件で、中国の自国民を戦車で轢(ひ)き殺し、また、中
 国人民解放軍が(解放軍なんて呼べないような行為をし
 た軍)、自国民へ向かって銃を乱射した。
  大勢の中国の方々が亡くなった。
  100万人の規模で集まった中国の現政権への不満を持っ
 た人々・・この様な天安門前の中国の民を卑劣なやり方
 で殺し、抑え込んだ。
  当然、全世界から非難の嵐となった。
  この様な残忍で凶暴な「人権弾圧への非難の嵐」の中
 国へ、国際社会が強く抗議し、制裁している中国へ、こ
 の馬鹿な日本の蔵相の橋本龍太郎は、最低にも、ゴマす
 り訪中をした。
  最初の先進諸国のトップ級の恥ずかしい訪問劇となっ
 た。
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2005年、中国の毛沢東の伝記「マオ(誰も知らなかった毛
 沢東)」(講談社)が出版された(著者:ユン・チアン
 氏)。
  この中で、毛沢東が、大躍進政策で約4000万人もの中
 国国民を死に追いやったと記されている。
  中国は、きちんとした説明はしていない。
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2006年10月、チベットの仏教僧侶が亡命しようとしたとこ
 ろ、中国の人民解放軍が銃撃して殺した。
  この映像が珍しくネットに流れた。
  しかし、この事件に対して、日本のNHKはじめメデ
 ィアは、まったく「ホッカムリ」して報道しなかった。
  報道したのは、僅(わず)かに「産経新聞」と「週刊
 新潮」だけだった。
  NHKはじめ日本のメディアは、中国を怖(こわ)が
 って報道しなかった。
  アメリカのオバマ大統領も北朝鮮の核が怖くて、しっ
 かりした対応ができなかった・・その結果、とうとう北
 朝鮮は、核を持ってしまった。
  だから今、トランプ大統領が大変な苦労をしている。
  正義をかざして闘う姿勢を示さない「NHKはじめ日
 本のメディア」の腰抜け状態。
  日本国民の方々は、まったく気づかずに置かれる状態
 になっている。
  NHKという放送局は、日本国内の殺人事件ばかり報
 道して、海外を報道しない傾向にある。
  「殺人事件好き(すき)」のNHKとなっている。
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2007年6月27日、アメリカ下院で、「慰安婦問題に関する
 対日謝罪要求決議」がなされた。
  日本は、アメリカのこの「2007年6月27日の『対日非難
 決議(アメリカ下院外交委員会)』を可決」は問題だっ
 たと「取り消し決議を要求するべきだ」。
  この決議案には間違いがあまりにも多い。
  多くの史実において間違いが存在する。
  また、卑劣な多くの史実の歪曲がある、そして、悪意
 ある捏造に満ちている。
  日米首脳会談の折の話し合いの議題の一つとすべきで
 ある。
  この様な決議が、アメリカ下院の外交委員会で可決さ
 れてしまう根本には「長年にわたる中国のプロパガンダ
 がある」。
  今・現代も続く、この様な中国の卑劣なプロパガンダ
 の存在を「アメリカに認識させる意味」でも、この様な
 「間違った決議を訂正させる行為は、重要なのだ」。
  「ただ単に、過ぎ去った過去の間違い決議の名誉回復
 のために『訂正を要求するという話』とは違うのである」。
  中国が捏造して、長年、行って来た中国の嘘の歴史の
 植え付けの洗脳行為を気付かせる行為は、『重要な外交
 会談の議題』なのだ。
  この重要性を、また、必要性を、御感じ戴きたい。
  アメリカの議会には、何度も事実に基づかない話が上
 程(じょうてい、議案を会議に欠けること)されている。
  日本を貶(おとし)める「中国のアメリカへの働きか
 け」は、しつこいのだ。
  この様な捏造の作り話に、日本は丁寧に、その総べて
 に反駁する必要がある。
  この様な日本を失墜させる行為には、必ず、事実を説
 明する必要が当然ある。
  馬鹿々々しい話が、黙っていることによって「本当な
 のだ」の話に代わって行くのである。
  例えば1例・・、
  「慰安婦の中には13歳という若さの少女や、自分の子
 供から引き離された女性も含まれ、彼女らは、自宅から
 拉致されたりした。
  さらには、多くの慰安婦は最終的に殺害されたり、交
 戦状態が終了した際には自殺に追い込まれた。
  その結果、歴史家は、20万人もの女性が奴隷化され、
 その内わずかしか今日まで生存していないと結論付けて
 いるという」と記されている。
  これは、まったくあり得ない・・完全な作り話である。
  この様な事を見過ごす日本外交は、あり得ない。
  これらの一つ一つに丁寧に反駁していくことが、『日
 本外交の最重要課題である』。
  他に最重要課題があるからと、この様な日本の一番大
 切な「日本の立ち位置を覆(くつがえ)されている状態
 を放置する事が無いようにせよ」。
  その一つ・・、20万人なんてまったくあり得ない嘘で
 ある。
  20万人と言えば、1945年3月10日、アメリカが、大規模
 で東京を大空襲した。
  この時、大勢の方々が焼き殺されたが、その犠牲者の
 倍である。
  広島の原爆の犠牲者よりさらに多い。
  その様な大虐殺を日本軍が、終戦時に行ったというの
 ならば、その史実的根拠を示せ!
  その責任は、『アメリカにはある』。
  ただ、中国から言われたから、プロパガンダされたか
 らでは済まない。
  アメリカは、その総べてについて根拠を示せ!
  そのことが出来ないなら、『アメリカは、訂正決議を
 せよ!』。
  過去の決議を破棄し、日本へ謝罪せよ!
  事実・史実・真実を先に言うのならば「事実無根であ
 る」。
  中国のプロパガンダの『そのままである』。
  また、日本の議会は、このアメリカの決議の『非難決
 議をせよ!』。
  国際司法裁判所へ「アメリカの名誉棄損を訴えよ!」。
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2016年、日本企業の海外進出ランキング
 1.中国--------- 32,313(55.1%)▲1,077(▲3.2%)
  2.アメリカ----- 8,422(14.4%) 573( 7.3%)
 3.インド------- 4.590( 7.8%) 275( 6.4%)
 4.ドイツ------- 1,811( 3.1%) 34( 1.9%)
 5.インドネシア-- 1,810( 3.1%) 113( 6.7%)
 6.タイ---------- 1.783( 3.0%) 58( 3.4%)
  7.ベトナム------ 1,687( 2.9%) 109( 6.9%)
  8.フィリピン---- 1,440( 2.5%)▲ 8(▲0.6%)
  9.マレーシア---- 1,362( 2.3%)▲ 21(▲1.5%)
 10.台湾---------- 1,152( 2.0%) 27( 2.4%)
 11.シンガポール-- 1,141( 1.9%) 25( 2.2%)
  12.メキシコ------ 1.111( 1.9%) 154( 16.1%)
  計 58,622(100 %)
  2016年の進出企業数、その%、前年比増減、伸び率
  中国への進出企業数が55%と圧倒的の多が、3%の減と
 撤退傾向にある。
  次に撤退傾向にあるのはマレーシア、フィリピンと続
 く。
  進出企業数の伸び率が高いのはメキシコで16%増。
  次がアメリカで7%増、
  その次が、ベトナムインドネシア、インドの6%台。
  そして、日本のNHKはじめマス・メディアなど一般
 紙も、中国に進出した日本企業が、どんなに悲惨な目に
 遭(あ)っているか、まったく報道しない。
  中国に進出した日本の銀行が、中国企業に貸した金が、
 次々に不良債権となり、金が回収できない。
  そこで、それを取り戻そうと裁判を起こそうとするが、
 卑劣な事に、「その裁判を起こそうとする事が禁止され
 る」。
  中国では、法も正義もあったものではないことが起き
 ている。
  中国の有利なように、何でもくるくる変えられてしま
 う。
  WTOに加盟した中国は、そのWTOの規約も何もあ
 ったものではない国と化している。
  しかし、日本のNHKや新聞は、これを報道しない。
  この様な事に限らず、中国共産党の熾烈(しれつ)な
 権力闘争も、まったく報道しないし、中国の本当の経済
 状態も報道しない。
  日本国民をまったくつんぼ桟敷に置いている。
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2018年、アメリカでは、ルーズベルトの評価が割れている。
  アメリカ経済をニューディール政策で復活させた聡明
 な大統領だと評価するグループ。
  しかし、その見方は浅い。
  ルーズベルトを評価しないグループの方々は、もっと
 深い見方をする。
  道路やダムなどの公共土木事業だけで経済を復活させ、
 人々の賃金を上げ、生活苦の人々を援助できる復活は無
 理だったと指摘する。
  しかも、その時は、史上まれに見る大不況・恐慌に見
 舞われていたのである。
  聡明なルーズベルト派もそのことを知っていて、且つ、
 ルーズベルトは、それまでの職歴から、戦争による経済
 回復の実例を良く知っていた。
  ルーズベルトは、確信的に戦争を起こしたいと思って
 いた。
  本格的にアメリカ経済を回復させるには、戦争による
 浪費と、それに伴う大がかりな生産能力の拡大と、経済
 の拡大しかないと・・。
  ルーズベルトは、ニューヨーク州の知事を勤めたが、
 それ以前は、海軍次官としてアメリカ海軍の増強に全力
 を挙げた。
  その時に、日本との戦争計画に密接に関わった。
  ルーズベルトは、当時のアメリカ政界で、対日戦争の
 計画(こんな計画がアメリカにあった)の中心に居た。
  それだけではなく、ヨーロッパへの参戦を含めて、戦
 争のすべてに、ルーズベルトは関われていた。
  戦争政治家そのものだった。
  そして、戦争によって、歴史が示しているように、景
 気の拡大は明らかにもたらされた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive