(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月〜1887年2月)

題:(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月〜1887年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年、発明:
・ベルリナー(ドイツ出身)が、大量生産可能な円盤型の
 録音再生用レコードを発明した。
徳川慶喜と自転車:最後の将軍、徳川慶喜は、静岡にお
 ける自転車の開祖となった。
  この年、紺屋町の邸内で乗り回していた。
  この当時、鉄製だった車輪をゴム輪に改造させていた。
・ゴム印が発明された。
  ただし、高価のため、その普及は日清戦争後だった。
  (1886年説あり)
  日本に海外から、ゴム印が渡って来たのは1886年(明
 治19年)。
  日本は、すぐに彫刻ゴム印を作った。
  外国で使われている鋳造ゴム印より、美しく文字も自
 由に表現できた。
  字体も自由で、好きなように彫れた。
  外国人は、その日本の技術に驚ろいた。
  東京で、ゴム印の材料であるゴム板を最初に作った店
 が、佐々木商店であり、初代、佐々木浜太郎氏。
  佐々木氏は、当初、浅草の雷門で印材商を営んでいた。
  佐々木氏は、日本に伝わってきたゴム印に着目し、家
 にあったゴム製の潜水服の一部分を切り取り、これを板
 に貼り付け、ゴム印の材料とし、販売した。
  当時、とても貴重なものだった。
  星野印版工業という会社の初代社長であった星野福次
 郎氏が、1889年(明治22年)、アメリカ人からゴム印を
 作る方法を習得した。
  これが鋳造ゴム印だった。
  この翌年・1890年には、彫刻ゴム印を製造した。
  これが、日本で初の彫刻ゴム印と言われている。
  星野氏は、1894年(明治27年)、回転ゴム印をアメリ
 カから仕入れた。
  そして、同じ物を日本で作り、これが、日本最初の回
 転ゴム印だった。
・馬にひかせる蒸気ポンプができた。
  1884年(明治17年)6月、日本初の蒸気式消防ポンプ(蒸
 気ポンプ)が、警視庁消防本署(現・東京消防庁)に配置さ
 れた。
  そして、腕こぎポンプの龍吐水が廃止されるようにな
 ったが、
  輸入品のため非常に高価だった。
  1890年2月の浅草の大火で、蒸気ポンプの強力な消火能
 力を体験した消防署部内では、国産化推進の検討がなさ
 れ、
  市原喞筒(ポンプ)製作所に製作を依頼した。
  この日、警視庁消防署では、歴史上初めて、国産蒸気
 式消防ポンプの試作機性能試験を行い、
  有効証明書を発行した。
  価格も、輸入品の半額となる見通しがついて量産化が
 進められた。
  ちなみに、国産蒸気ポンプには手引きのものと、馬引
 きのものとの2種類があった。
  手引きの蒸気ポンプは、ポンプ車の梶に綱をつけて、
 消防隊員が引っ張り、火災現場へ向かった。
  一方、馬引蒸気ポンプは、馬を1〜3頭立てにし、ラッ
 パ(後に大鈴)を鳴らしながら、現場に急行した。
  各地への配備は、翌年・1900年(明治33年)、神戸市と
 函館市
  1908年(明治41年)には、横浜市
  1910年(明治43年)には、名古屋市などで、消防設備近
 代化の第一歩を記した。
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1887年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・先住民が、アイヌコロポックルかの先住民論争が起こ
 る。
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1887年1月1日、東京気象台が、中央気象台として発足する。
  管轄は内務省
  1870年(明治3年)、日本は、国土の測量の必要から、
 測量助師のイギリス人ジョイネル(明治3年に京浜間鉄
 道布設のために来日、明治4年に工部省測量司に移る)を
 招いた。
  このジョイネルが、気象観測の必要性を建議した。
  1873年明治6年)5月、工部省測量司は、気象台を設
 けることを決め、ロンドン気象台長に気象器械のあっせ
 んを依頼した。
  ジョイネルの上司・測量師長・マクビーンは、フラン
 スからイギリスに帰化したシャーボーの日本招へいに成
 功し、
  そのシャーボーに、気象器械の調達を依頼した。
  シャーボーは、15か月間にわたり、イギリスで、各種
 器械の購入にあたり、
  1874年(明治7年)7月、それらの器械を携えて来日し
 た。
  シャーボーは、「日本は地震が多いと聞いたが、測量
 の測点が移動しては困る、日本で測量をするには、まず、
 地震観測が必要だと考えた。
  そして、イタリア製の地震計を、気象器械とともに持
 参した。
  1875年(明治8年)5月、これらの気象観測器械と地震
 計の据付けが完了した。
  場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門
 2−10ホテルオークラのあたり)だった。
  そして、同年1875年6月から観測が開始した。
  当初は、御雇外人ジョイネルが、一人で担当し、1日
 3回の気象観測を行い、
  地震があれば、土蔵の中の地震計まで飛んで行った。
  間もなく、ジョイネルの要請により、
  同年・1875年9月から、正戸豹之助(地上・山岳観測、
 通信等多方面で事業整備に尽力、のち中央気象台統計課
 長)、
  下野信之(のち大阪測候所長)、
  中條信倫(馬場と改姓、のち商船学校教授)、
  大塚信豊(地震・火山業務を経て、長崎測候所長)、
  武林貞次郎(のち長崎測候所長)らが、ジョイネルの
 伝習生となり、徐々に観測に加わった。
  その後、1877年(明治10年)6月には、ジョイネルの満
 期解雇のあとをうけて、正戸豹之助が観測主任になった。
  1883年(明治16年)3月1日に、東京気象台で、初めて
 天気図を作成し、毎日の印刷配布が、
  さらに、翌・1884年明治17年)6月1日には、毎日3回
 の全国の天気予報の発表が開始された。
  東京気象台は、1887年(明治20年)1月に、中央気象台
 と改称し、
  1956年(昭和31年)7月に、気象庁となった。
  2001年(平成13年)1月の中央省庁等の再編に伴い、気
 象庁は国土交通省の外局として新たに業務を開始した。
 (気象庁、ホームページを参考にした)
1887年1月9日、ブッセとハウスクネヒトの両人が、帝国大
 学に着任した。
  ハウスクネヒトは、ドイツ人の教育家で、日本に、ヘ
 ルバルト派教育学を導入した功績者。
  1890年まで、東京の帝国大学文科大学で、当時、有能
 な教員を育成するために設けられた教育学科の特約生に
 対してヘルバルト学派(J.F.ヘルバルト)の教育学とドイ
 ツ語を講義した。
  谷本富(とめり)、湯原元一(もといち)らを教え、日本
 にドイツ教育学が入る端緒をつくった。
1887年1月17日、皇后陛下が、婦人の洋装を奨励する思召書
 を出し、華族婦人などに洋装が広まった。
1887年1月22日、東京で営業の電灯が点灯された。
  東京・麹町の鹿鳴館に、東京電灯株式会社が、白熱電
 灯を設置する。
  そして、移動式石油発電機を使って、白熱電灯を点灯
 した。
  これ以降、電灯設置営業が進んだ。
  因みに。初の電灯は、1878年に、虎ノ門の工部大学校
 で、初めて電灯「アーク灯」が点灯している。
1887年1月24日、地方制度編纂委員会が設置された(2月説
 あり)
  地方制度編纂の基本針である『地方制度編纂綱領』は、
 1887年に、閣議決定された。
  委員会は、山縣内務大臣を委員長とし、ほか4名の委員
 からなった。
  山縣は、国家の基礎を強固にするには、町村自治を整
 備すべきとした。
  また、地方の人材と財源を充実させてから自治制を実
 施すへきとし、実施が急務であると述べた。
1887年1月29日、大阪撚糸会社が設立された。
1887年1月30日、登記制度が開始した(2月1日説あり)
  1886年明治19年)8月13日、登記法(旧登記法)は、
 公文式明治19年2月26日勅令)によるわが国最初の法律
 (法律第1号)として公布された。
  そして、翌・1887年2月1日から施行された。
  旧登記法の制定の目的は、「第一ニ保護、第二ニ収入」
 で、第一に、国民の権利の保護、第二に、国の税収を目
 的とした。
  しかし、実際は、やはり税収第一だった。
1887年1月、長崎の馬町の西洋料理専門店「自由亭」が廃業
 した。
  後に、長崎地方裁判所が買収、し検事正官舎になった。
1887年2月3日、ルートヴィヒ・リースが、帝国大学史学科
 教師として着任し、ドイツ歴史主義を紹介した。
  約半年後の9月に、史学科が設置された。
  これまで、法学科と哲学科で、ヨーロッパ史と日本史
 に関する授業が行われていた。
  リースは、日本の「史学的地理学」の必要性を説き、
 その影響を受けた国史科の卒業生や在学生らが中心とな
 って、1899年(明治32年)に、日本歴史地理研究会(後
 に、日本歴史地理学会と改称)を設立した。
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  (今日の言葉)
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  題:大きな理念を達成するために・・
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1941年12月8日、日本は、大きな理念達成・成就へ向かって
 立ち上がった。
  世には、『白人絶対思想』『白人絶対思考』があった。
  キリスト教の「有色人種の蔑視の教義」によって、有
 色人種は虐(しいた)げられていた。
  日本だけに関してでも、「排日移民法1924年)」に
 悩まされ、侮辱を受けていた。
  有色人種は、世界各地で、白人たちに蹂躙(じゅうり
 ん、暴力・強権などをもって他を侵害すること)され続
 けて来ていた。
  キリスト教に洗脳された白人たちは、世界中で有色人
 種を差別し、虐(しいた)げ、殺戮し続けて来た。
  世界中のあちこちで、何千万人規模で、白人によって、
 ジェノサイド(集団殺戮)され、虐殺され、そして、そ
 の行為をされ続けて来た。
  20世紀に至るまで、それは語るに尽きないキリスト教
 に洗脳され、マインド・コントロールされた白人たちに
 よって、有色人種の悲劇は続いていた。
  その『白人絶対の時代』は・・、
  有色人種の誰かが立ち上がって・・、
  その有色人種の誰かの「実力」で、打ち破らない限り・・
 終わらない事態となっていた。
  白人と有色人種の差別のない正義を目ざし・・、
  「人種は平等なのだという、当たり前であるが・・崇
 高なる理念の主張」を・・、
  有色人種の誰かが・・
  「実力」でもって主張し、
  打破しなければならなかった。
  その様な状況の「白人絶対の世界」だった。
  20世紀に至って、その崇高な行為が・・行われた。
  日本は、その以前から国際会議で、「人種は平等であ
 るべきだ」「人種平等を目指すべきだ」と主張して来た。
  (日本は、「人種的差別撤廃法案」を、1919年のパリ
 講和会議で、ぜひ成立させたいと提出していた)
  そして、国際会議で、日本の「各人種は、平等である
 べきだ」の主張は、多数の意見となった。
  しかし、決定される方向にあった日本のその「人種の
 平等の主張」は、会議の議長国・アメリカによって成立
 を止められた、阻止された。
  アメリカは、この時、「多数決では駄目だ」と言って、
 成立を阻止した。
  議長国・アメリカの「議長特権」で、成立を阻(はば)
 まれた。
  この人道的な、当たり前の主張を、成立をさせなかっ
 た。
  アメリカは、「全員一致という条件」を持ち出した。
  このアメリカの主張は、「私・アメリカが、反対だか
 ら全員一致とならない、だから、廃案です、ダメです」
 と言っている様だった。
  これも、大東亜戦争第二次世界大戦)が起きる要因・
 遠因の一つとなった。
  日本は、遠い昔から、平等の意識を当たり前の様に持
 ち、また、常に、平等を尊んで来た。
  (平等院があるごとく、平等は、古くからの日本の理
 念なのだ)、
  そして、日本は、この理念の元に、已む無くこの不正
 義に対し、行動を起こして行く。
  この様にして、20世紀に、人類にとっての最大な事件
 は起きた。
  1941年12月8日の事だった。
  白人サイドから、白人側から、開眼して、事態が打開
 されるという可能性は、『まったく・・なかった』。
  キリスト教に頑(かたく)なにマインド・コントロー
 ルされ、洗脳された『宗教的理念となって』、『信仰的
 正義となって』、白人絶対・有色人種蔑視となって・・
 その日本の理念は・・阻(はば)まれていた。
  天から、時には駆けつける阿修羅のごとき憤怒でもっ
 て諭(さと)さねば、事態は打破できない所まで至って
 いた。
  改善された次なる事態が開かれない状況となっていた。
  また、人種差別の旧態が打破できない事態だった。
  「白人種が最優秀」という観念が、長い年月に連綿と
 続き、こびりついた「思い込み」は・・、
  我が身を顧みない行動によってのみ打破され、開かれ、
  その行動が無ければ・・諭され得ない状況となってい
 た。
  白人のかたくなな思い込みと、醜悪さの中にあった。
  「白い肌に生まれた人間でなければ・・成し得ない」
 という迷妄(めいもう、道理が分からず、事実でないこ
 とを事実だと思い込むこと)なる迷信に疎(うと・む、
 嫌って遠ざける、うとんずる)まれた社会だった。
  「優秀なる人種=白人」の思いの疑念に、まったく疑
 義(ぎぎ、意味・内容がはっきりしない点)すら持たな
 い迷妄なる状況だった。
  アメリカには・・、
  「白人女性が、有色人種と結婚するのは進化の法則に
 反する犯罪だ」・・という論文があり、また、考え方が
 あり、信じられているというアメリカ社会だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive