(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月〜1888年7月)

題:(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月〜1888年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年7月4日、千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)官
 制公布(農商務省から陸軍省へ移管)
  千作製絨所官制を公布し、農商務省から陸軍へ移管し
 て、軍用絨品の生産に切り替えた。
  東京都荒川区南千住にあったこの官営の工場は、明治
 新政府によって設立され、被服生地を製造していた。
  それまでの、明治維新から暫(しばら)くの間は、新
 政府の軍服・制服は輸入により賄われていたが、
  外貨減少を抑えるため、その国産化が必要であると、
 1875年(明治8年)9月、千葉県に牧羊場が設けられ、羊
 毛の生産が開始された。
  同年・1875年中に、被服製造技術を学ぶためドイツに
 派遣されていた旧長州藩士・井上省三の帰朝をもって、
  1879年(明治12年)9月27日、東京・南千住にあった、
 ただ葦が茂り人家がぽつりとあるだけの広い荒地(現・
 荒川区南千住6丁目)に千住製絨所が完成させ、操業を開
 始した。
  1883年、火災で主要設備を失ったが・・、
  この年・1888年明治21年)、陸軍省の管轄となって
 工場を拡張し、
  陸軍所要の布地類、毛糸等を生産・管理した。
  他官庁や民間から製造、研究の依頼、さらに、技術指
 導や技術者養成の依頼があったときは、陸軍大臣の認可
 をもってこれらに応ずることとされていたため、
  国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献した。
1888年7月5日、後藤象二郎が、信越と東北での大同団結運
 動展開のため出発した。
1888年7月10日、 「東京朝日新聞」 が創刊された。
  自由党の星亨の「めさ(ざ)まし新聞」を村山龍平が
 買収し、改名されて発刊した。
  それまでは、大阪から1日遅れで配られていた。
  因みに、朝日新聞の創刊は、1879年1月25日で、大阪で
 創刊第1号が出された。
  紙面は小型4ページ、総ふりがな・絵入りで定価1銭、
 1日平均部数は約1,000部。
1888年7月13日、大蔵省が、市町村制における直接税と間接
 税を分類区別し告示する。
  日本は、富国強兵の実現のために、1887年に、所得税
 法を導入した。
  当初、政府は酒税や煙草税などの間接税の増税によっ
 捻出しようとしたが、増税策は失敗した。
  一方、松方デフレの影響は深刻化していた。
  農村は疲弊していた。
  各省も予算が拡大傾向にあった。
  1881年明治19年)の土木費の国庫補助廃止して以降、
 地方税の改革が模索されてきていた。
  予算も拡大化して来ていた。
  所得税の立案方針が模索され、賦課方式がイギリス型
 からプロシア型へ転換し、明治20年(1887年)度におけ
 る新税導入による予算拡大を不可避とした。
  1887年1月、プロシア型の所得税法案が成立した。
  成立した所得税は、収入見積もりを下回る税収に終わ
 った。
  大蔵省の内部では、所得税の修正や資本税の導入、地
 租軽減の代替財源としての増税など、所得税に関わる改
 正の動きが出た。
  日本の優しい所は、この様な議論の中で、所得の少な
 い民の税負担の軽減を真剣に議論しているところである。
  どこかの国の様に、弱者であるがゆえに、弱者をいい
 ことに、その方々の土地を奪うなどという様な考え方は
 毛頭ない。
  この様な議論の中で、税の改善がなされて行った。
1888年7月13日、枢密院が、憲法草案審議を終了した。
1888年7月14日、海軍大学校官制が公布された。
  海軍大臣の直轄と定めた。
  海軍大学校(かいぐんだいがっこう)は、日本海軍の
 上級将校教育機関
  1888年明治21年)7月14日、勅令第55号により海軍大
 学校官制制定。
  同年・1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館
 に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長・井上良馨が兼任した。
  同年・1888年11月26日、授業開始。
1888年7月15日、磐梯山が大爆発した。
  会津磐梯山が、千年ぶりに噴火し、山体が崩壊した。
  発生した泥流などによって、461名(477名の説あり)
 が犠牲となった。
  午前7時に雷鳴が始まり、
  45分後に、大爆発が起った。
  磐梯山系の小磐梯山が爆発して消滅した。
  (発生した爆風と、岩屑なだれにより北麓の集落が埋
 没するなどの被害を受け、477人の死者が出た)
  山の上半分を噴き飛ばしていた、あとに大きな火口を
 残した。
  爆発物で長瀬川が埋没し、檜原湖などの湖沼群ができ
 た。
  大量の泥流が、麓の3か村を襲い一帯は全滅した。
  (噴火時に小磐梯が麓から湧き出していた温泉によっ
 て風化したのが原因で山体崩壊を起こしたという)
  下流の河川をせき止めた所に、100以上の湖沼が生まれ
 た(後に、長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖
 小野川湖、秋元湖、五色沼など・・大小さまざまな湖沼
 が形成された)
  同日、皇室は、罹災金3000円の下賜を決定した他、新
 聞社15社が義捐金を募った。
1888年7月18日、海水浴場での混永が禁止された。
  神奈川県の海水浴場の男女混泳が区分けされた。
1888年7月19日、山岡鐡舟が死去した(53歳)
  山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)、幕臣幕末の三舟
 の一人、幕末・明治前期の剣客、政治家、子爵、高橋泥
 舟の義弟(1836年7月23日〜1888年7月19日)
  1836年、600石の旗本・小野朝右衛門の長男として、江
   戸本所大河端に生まれた。
  1846歳、10歳のとき飛騨の郡代となった父とともに飛
   騨高山に行き、17歳まで、ここに過ごす。この間、
   儒学、書、剣を学び成長した。
   鉄舟は、若くして両親を亡くした。
   苦労しながら、幼弟5人を養育した。
  1855年安政2年)19歳、槍(やり)の師(刃心流山岡
   静山)に学び、山岡家を継ぐ、静山の妹・英子(ふ
   さこ)と結婚、妻に向かえる。
   また、千葉周作に剣(北辰一刀流)を学び、
   のち、一刀正伝無刀流を案出し、春風館を設立し、
   門弟を教えた。
  1856年(安政3年)20歳、幕府講武所で剣術世話心得と
   なる、
  1862年文久2年)26歳、清川八郎らと浪士組(新選組
   の前身)取締役を拝命、隊士を率いて上洛、
  1868年(明治1年)32歳、精鋭隊頭となり徳川慶喜の警
   護に当たる。
  同年・1868年3月、直々の命(勝海舟の使者))により、
   東征軍参謀・西郷隆盛を、駿府の大総督府に訪い、
   勝海舟との会談を周旋、
    徳川家救済と、江戸城無血開城に力を尽くした。
    彰義隊にも新政府への恭順を説いたが容れられな
   かった。
    維新後は、静岡藩権大参事、伊万里県知事などを
   歴任。
  1869年(明治2年)9月、33歳、静岡藩権大参事(ごん
   だいさんじ)
  1871年明治4年)35歳、茨城県参事を経て、
  1872年(明治5年)6月、36歳、明治天皇陛下の侍従に
   就任、ついで、宮内少丞(しょうじょう)・大丞と
   進み、、
  1881年明治14年)45歳、宮内少輔(しょうゆう)に
   進む。
  1888年、53歳で病没、東京谷中に自ら創建した禅寺全
   生庵に眠る。
   剣客との名がある通り武骨ではあるが、将軍慶喜
   明治天皇のいずれに対しても、意気に感じて誠実を
   もって応えた人。
    勝、高橋と共に幕末三舟と称される。
    <著作>『鉄舟随筆』(安部正人編)
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  (今日の言葉)
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  題:ルーズベルトは、『人種差別をする大統領』だった・・、
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1935年9月27日、アメリカ大統領のルーズベルトと、黒人の
 地位向上運動家の代表が会談した。
  ルーズベルト大統領は、人種差別をする大統領だった。
  リンカーンも、「奴隷解放した」という事から、人種
 差別をしない大統領だと言われているが・・?
  これは、プロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  リンカーンは、はっきりと黒人の方々を差別する発言
 を何度も演説で言っている。
  リンカーン擁護派は、政治家として「奴隷解放反対者
 に説明するためだ」とかと擁護するが、それは嘘だ。
  政治家なら、いかなる状況においても、自分の主義・
 主張と相容れない発言をしてはならない。
  また、当然、自分の主義・主張と「違う発言」をして
 はならない。
  このルーズベルトの場合も、はっきりした黒人の方々
 を虐げる大統領だった。
  ルーズベルトは、1935年春以来、第二期のニューディ
 ール政策を進めていたが、黒人の方々の地位向上は行わ
 なかった。
  1935年9月27日、黒人の「黒人の地位向上に取組む黒人
 運動家」が、この日、ルーズベルトに会い、
  「黒人の地位向上」を訴えた。
  レコードの録音盤が残っている。
  「戦争の危機が高まる今こそ、愛国的な黒人にも平等
 の地位を・・」と、訴える。
  当時、アメリカ陸軍は、人種分離政策をとっていて、
 黒人の方々の部隊は、分離され、白人と分けさせられて
 いた。
  そして、アメリカ海軍の場合・・、
  艦船上の分離が不可能という事から、黒人の方々は排
 除されていた。
  「奴隷解放したから黒人の方々を差別してない」と嘘
 宣伝(プロパガンダ)されているリンカーンも、黒人の
 方々を排除した。
  何度も、何度も、黒人のリーダーが、リンカーンへ訴
 えたが、黒人の方々の参戦を許可しなかった。
  やむを得ず、黒人の方々は、自主的に南北戦争に参戦
 し、忠誠を示した。
  ルーズベルトも、このリンカーンと同じだった。
  この会見の12日後、ルーズベルトホワイトハウス
 は発表した・・、
  「大統領と黒人指導者は、アメリカ軍の(人種隔離)
 政策を、今後も継続する事で合意した」・・と、
  これは、まったく酷(ひど)い嘘だった。
  こんな合意はまったくしていない。
  この黒人指導者の名は、「ランドルフ」と言ったが・・、
  ランドルフは、これを知って、びっくりした。
  ルーズベルトは、ランドルフの訴えた差別の存在を認
 識し、意識し、
  ルーズベルトは、その改善の道の具体的1例を口にした。
  例えば、艦船の食事担当などの可能性を言っていた。
  このルーズベルトホワイトハウス)の発表は、その
 会談の論調は、まったく消えている。
  リンカーンと同じく、まったく黒人の方々への理解を
 示さないルーズベルトだった。
  ランドルフは、抗議の手紙を、ルーズベルトへ出した。
  しかし、ルーズベルトホワイトハウス)からは、何
 の説明も、返事もなかった。
  ルーズベルト時代も、リンカーン時代と同じ「黒人の
 方々を差別する時代・考え方」だった。
  ルーズベルトが尊敬した、理想の大統領としていたウ
 ッドロー・ウィルソンもまた、人種差別の「がちがちの
 大統領」だった。
  第一次世界大戦の後、ウィルソンは、十四カ条の要求
 を示して進歩的だったが・・?
  「黒人の地位向上は、させるべきではない」とはっき
 り発言し、主張していた。
  強く黒人の方々を差別する政策をとる人種隔離政策の
 大統領だった。
  ルーズベルトは、このウィルソン政権のアメリカ海軍
 次官補として・・、
  アメリカ海軍の黒人差別の規則「人種隔離規則」を明
 文化することを担当し、働いていた。
  お粗末の話である。
  まったく憤りが湧く。
  アメリカは、日本の内政干渉をする前に、自国のこの
 様な『時代遅れの酷(ひど)い差別』を無くすことをし
 なさい。
  また、これを、ユネスコの世界記憶遺産に登録しなさ
 い!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive