(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月〜1890年3月)

題:(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月〜1890年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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19世紀後半、黄禍論(こうかろん)
  19世紀半ば〜20世紀前半にかけて、北アメリカ、ヨー
 ロッパ、オーストラリアなどの白人国家において現れた、
 黄色人種脅威論で、そこには、キリスト教に洗脳された
 白人の優越性と黄色人種の劣等生という考え方があり、
 洗脳された人種の差別論だった。
  アメリカやヨーロッパでは、黄色人種の台頭を懸念し、
 白人文明ないし白人社会に脅威を与えると恐れた。
  軍事、政治、経済、社会のいずれかにおいて、黄色人
 種の活躍が既成の白人支配体制に大きな影響を及ぼすと、
 宗教洗脳された白人社会に想像され・・、
  それによって「黄禍論」が唱えられた。
  13世紀のモンゴル帝国のヨーロッパ侵略の想像がある
 と論じるものもあるが、
  まったく裏付けのない宗教洗脳された非科学的な論理
 だった。
  その一方、日本では、アジア諸民族の連帯を説く「ア
 ジア主義」が主張された。
  黄禍論が・・人種的な言説が・・拡大したからという
 一面があった。
  そしてのちに、時は太平洋戦争へと至って行った。
  この様なことから、アジア太平洋戦争を「人種戦争」
 と捉える論説・作品は少なくない。
  人種的偏見が戦争へとつながって行った。
  さらに、他資料では・・、
  日清戦争末期の 1895年春頃から、ヨーロッパで唱えら
 れた黄色人種警戒論で、
  19世紀末に、ドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、
 アジア民族の移住と、労働力の脅威にふれて、黄色人種
 の人口が圧倒的に多いことが、将来の脅威となるであろ
 うと指摘した。
  そして、日本を極東に閉じ込めるべきだと主張した。
  さらに、別資料では・・、
  白人種の正当化理論として・・、黄色人種が、白色人
 種を凌駕(りょうが)するおそれがあると主張し、
  また、黄色人種が、やがて世界に災禍をもたらすであ
 ろうと主張し・・、
  アジアに対する欧米諸国の侵略と黄色人種の圧迫を正
 当化するために用いられた。
  ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が、画家に「黄禍の図」
 を描かせ、それをロシア皇帝ニコライ2世に贈ってから、
 黄禍論がヨーロッパで問題となり・・、
  日清戦争義和団事件などに際して、この言葉を用い
 たのが最初とされ、
  Yellow Perilという英語となって、
  とくに、日露戦争以後広まり、
  19世紀から20世紀初頭におよび、アメリカにおける、
 中国系移民や日系移民の排斥につながった。
  また、オーストラリアにおける、黄色人排斥の白豪主
 義にも黄禍論がある。
  キリスト教の宗教洗脳による有色人種蔑視を根底にし
 た黄禍論が、白人社会に広がり、戦争へとつながって行
 った。
1890年2月27日、浅草区で大火。
  東京・浅草三間町で大火、焼失1500戸。
  浅草区三間町から出火し、折からの北西の強風にあお
 られ寿町、駒形町、黒船町へと延焼し、全焼1469戸、焼
 損面積1万2828坪(4万2332平方メートル)
  この大火で、常備されて間もない蒸気ポンプが使用さ
 れた。
1890年2月28日、菊花紋章の乱用の禁
  商品などへの菊花紋章の乱用が禁止された。
  江戸時代より・・幕府の葵紋とは対照的に、菊花紋章
 の使用は自由とされていて、
  一般庶民にも浸透し、
  この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が
 作られるなど、各地に広まっていた。
  1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、
 提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止され、
  1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、
 社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の
 使用が禁止された。
  その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用が
 許され、
  1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般
 の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許さ
 れていた。
1890年3月4日、イギリスでフォース鉄道橋が完成(開橋)
 した。
  スコットランドエディンバラ近郊のフォース湾に架
 かる鉄道橋で、
  全長2530mのカンチレバートラス橋。
  トーマス・バウチは、スコットランドのテイ湾に架か
 るテイ橋を設計した人物であった。
  そのテイ橋は、1878年に開通した長さ約3kmのトラス橋
 で、
  バウチは、この功績でナイトの称号を与えられている。
  当代随一の設計者として知られていた。
  しかし、スコットランドは、風が強く、テイ橋は、完
 成した翌年・1879年に、強風で崩壊してしまった。
  運悪く通過中の列車が、テイ湾に落下した、そして、
 75名の犠牲者・死亡者を出した。
  この様な悲しい歴史があるスコットランドの橋だった。
  このフォース鉄道橋は、2015年に、ユネスコの世界遺
 産に登録された橋で、高さ100メートルという、大きな橋
 であるが・・、
  この建設に、日本人が関わっていた。
  スコットランドの強風にも耐え抜ける橋を造るべく、
 カンチレバーという構造が採用された。
  日本人の渡邊嘉一氏(長野県出身)は、現在の東京大
 学工学部を卒業すると、1884年に、グラスゴー大学に留
 学した。
  そして、卒業あとも、スコットランドにとどまり、
  当時、建設中であったこのフォース鉄道橋の建設工事
 監督を任された。
  2007年発行のスコットランド紙幣にも印刷され、現在
 でも使われている・・この橋・・、
  渡邊嘉一は、帰国後、日本土木会社の技術部長となり、
 そのあと、参宮鉄道、関西瓦斯、東京石川島造船所(石
 川島重工)、京阪電気鉄道会社、京王電鉄などの社長を
 務め、「日本土木史の父」と呼ばれている。
  フォース鉄道橋の前に、ダンディーンのティ・ブリッ
 ジという橋が建設されたが、強風で壊れ、走行中の列車
 とともに崩壊、多数の犠牲者を出したという惨事があっ
 た。
  その教訓からも、風に強い橋にすることが最重要課題
 だった。
  橋に使用された鋼材は50,000トンを越え、リベットの
 総数は650万個。
  そして、建設に関わった作業員は約4600人で、57人が
 建設における事故犠牲者となり、橋に尊い命を捧げた。
  この様な意味もあって、スコットランドの方々の思い
 入れの強い橋となっている。
1890年3月6日、東京駅前の三菱村と言われる地・・丸の内
 近辺の官有地が、岩崎弥之助に払下られた。
  岩崎弥之助が、政府から丸の内一帯の軍用地だった10
 万坪余りを(いわゆる三菱ヶ原)を譲り受けた。
  財源に苦しむ政府は、麻布に新兵舎を建設するための
 費用を捻出しようと、三菱会社(正式には岩崎久彌総代
 理人、岩崎彌之助個人)へ150万円で払い下げた。
  当時、一帯は、朽ち果てた古い大名屋敷のほかは、草
 が生い茂るばかりの荒れ地だった。
  三菱社、丸の内陸軍省用地、並びに、神田三崎町練兵
 場土地(353,000㎡余)の払下げを受け・・、
  1890年9月、丸ノ内建築所設置。
  1893年12月、三菱合資会社設立。
  1894年6月、丸の内最初の事務所建築である「第一号館」
   竣工。
  1923年2月、「丸ノ内ビル」竣工。
1890年3月15日、琵琶湖疏水びわこそすい)が竣工した。
  琵琶湖から京都市内に通じる水路・運河で・・、
  大津市三保ヶ崎から長等山などをトンネルで抜け、京
 都市東山区蹴上(けあげ)を通り・・宇治川に合流する。
  第一疏水は、長さ8.7キロで、1890年に完成した。
  並行する第二疏水は、長さ7.4キロで、1912年に完成し
 た。
  舟運・発電・上水道・灌漑の目的で、当初は開削した
 が、現在は、蹴上浄水場への供給が主目的。
  京都府知事の北垣国道が、舟運の利便性を高め、工業
 用水や農業用水、飲料水を確保して近代化を推し進めよ
 うと考え、1885年に、工事を着工し、
  1890年に、大津から鴨川までの第一疏水が完成した。
  日本初の鉄筋コンクリート橋、インクライン、疎水分
 線の水路閣などが、1996年に、国の史跡に指定された。
  西欧の近代的土木技術を学んだ日本人技術者による大
 規模土木工事であり、
  明治中期における日本の土木技術水準の高さを示す画
 期的な事業だった。
  田辺朔郎(さくろう)の設計、施工によるもの。
1890年3月15日、博文館から「日本文学全書」24冊の刊行が
 始まる。
  博文館は、1887年、大橋佐平が、東京本郷で創業した
 出版社で、創業にあたり、集録雑誌「日本大家論集」を
 創刊し、驚異的成功を収めた。
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  (今日の言葉)
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  題:ポーランドの孤児たちを・・シベリアの極寒の地から・・日本軍は救出した・・
    今でも・・ポーランドの方々は・・その行為に対し・・感謝をして戴いている・・
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1920年7月、日本軍が、ポーランドの孤児たちをロシア兵か
 ら救出した。
  この様な行為は、1922年にも、救出作戦は行われた。
  ポーランドに駐在した元大使が、ポーランドの方々か
 ら、大変、感謝されて感動したと記しています。
  http://shuchi.php.co.jp/article/1812
  当時、可哀想なことに、ポーランドは、領土を分割さ
 れ、国家を喪失していた。
  ロシアに占領され、ロシア領とされていた。
  そこで、ポーランドの方たちは、独立のために立ち上
 がった。
  しかし、鎮圧され・・、
  国の英雄となるべき方々は、ロシアによってシベリア
 へ流刑にされた。
  第一次世界大戦までに・・その数は5万人以上に上った。
  また、第一次世界大戦では、ロシアとドイツの戦場と
 なったポーランドだった。
  ポーランドの方々は、両軍に追い立てられて、流民と
 なって・・シベリアへ流れ込んだ。
  その様なポーランド人の方々は、15万人〜20万人にま
 で膨れ上がった。
  そして・・ロシア革命が起きた・・そして・・内戦が
 起きた・・、
  その戦火の中で、シベリアのポーランドの方々は・・
 凄惨な行き地獄へと・・追い込まれた。
  食糧も医薬品もない中を、多くの人々が・・シベリア
 の荒野をさ迷った・・
  彷徨いの中で、多くの方々が餓死した・・、
  そして・・病死した・・、そして、凍死した・・、
  生きるか死ぬかの中で・・食べ物を先に子供たちへ食
 べさせていた母親が・・ついに力尽きた・・
  また、その様な母親の胸にすがって涙を流しながら・・
 その子供たちも・・死にゆくという光景が・・あちこち
 にあった・・、
  親を失った孤児たちも・・大勢いた・・、
  1919年、そのあまりにひどさに・・、また、悲しい悲
 劇的な状況に・・見かねたウラジオストク在住のポーラ
 ンドの方たちは立ち上がった・・、
  当時、シベリア出兵中の日本軍が居た。
  シベリア出兵は・・アメリカも、イギリスも、フラン
 スも、イタリア軍なども・・居た。
  ポーランドの方々は・・、初め、アメリカや・・ヨー
 ロッパ諸国の軍へ救いの働きかけをした・・
  しかし・・、ポーランド孤児たちの窮状を救って下さ
 いと懇願するが・・、
  ・・救出の行為は・・得られなかった。
  最後の頼みとなった日本軍が・・その要請に応えてく
 れた・・その行動を起こしてくれた。
  救出要請の訴えを聞いた日本政府は、その対応は早か
 った・・
  わずかな日数の後には・・その救出の行動が決断され
 た。
  そして・・日本陸軍の支援とともに・・日本赤十字社
 が行動した。
  そして、救出されたポーランドの孤児たちは、1920年
 (大正9年)7月、日本の地へ・・敦賀経由で東京に到着
 した。
  この様な行動は、1922年(大正11年)にも行なわれた。
  最初に、375人の児童が救われ・・、
  第2回で、390名が救われた・・、
  シベリアで死の淵をさ迷ってきた孤児たちは・・栄養
 失調で身体も弱り・・腸チフスなどの病気が猛威を振る
 うこともあった・・、
  1921年(大正10年)7月11日には、孤児たちを必死に看
 護していた看護婦の松沢フミさん(23歳)が、腸チフス
 に感染し・・殉職された。
  孤児たちも・・彼女の死を悼み・・涙にくれたと記録
 されている。
  日本の民間の方々も、不憫(ふびん、かわいそうなこ
 と。あわれむべきさま)なポーランド孤児たちを温かく
 迎え、世話をした。
  東京でも・・大阪でも・・慰問品や寄贈金が次々と寄
 せられた。
  慰安会も、何度も開かれた。
  この様な献身的な看護と、温かい周囲の行動のかいも
 あって、来日当初は、飢えて、体力も衰えていた孤児た
 ちは、
  元気を取り戻し、全員無事に、ポーランドへ帰国でき
 た。
  横浜港や神戸港から出航する時、幼い孤児たちは、親
 身に世話をしてくれた日本人の看護婦や、保母たちとの
 別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどだった。
  苦難に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちに
 とって、これほどまでに温かく親切にされたのは、物心
 ついてから初めてということも多かったのでしょう・・、
  彼らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を
 連発し、「君が代」などを歌って、感謝の気持ちを表わ
 した。
  帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たちも、涙を
 流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けていた。
  (別史料も参考に・・)
  1920年から1922年にかけて、数回にわたり、合計765名
 のシベリアのポーランド孤児を受け入れ・・、
  さらに、孤児たちの世話役として65名のポーランド
 の大人も受け入れ・・、
  東京や大阪など日本各地で厚い保護の元、1年ほど生活
 をした。
  その後、孤児たちは、無事にポーランドへ帰還した・・、
  この中には、多くのユダヤポーランド人が含まれて
 いた。
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1945年12月、白洲次郎が、GHQ司令長官のダグラス・マ
 ッカーサーを怒鳴りつけた。
  白洲次郎しらすじろう)は、連合国軍占領下の日本
 で、吉田茂の側近として活躍した。
  終戦連絡中央事務局や、経済安定本部の次長を経て、
 商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。
  (参考)
  終戦連絡中央事務局:(しゅうせんれんらくちゅうお
 うじむきょく)は、
  太平洋戦争の終結に伴い、GHQとの折衝を担当する
 機関として、1945年8月26日に、終戦連絡事務局官制(昭
 和20年勅令496号)により設置された政府機関だった。
  白洲は、吉田茂の側近として、連合国軍最高司令官
 司令部と渡り合った。
  吉田政権崩壊後は、実業家として、東北電力の会長を
 務めるなど多くの企業の役員を歴任した。
  一時は忘れられた存在であったが・・、
  1990年代前半頃から、少しずつ再評価され、各種メデ
 ィアで取り上げられることが増えた。
  21世紀に入ってからは、「日本のプリンシパル」(有
 数の要人)と評価する書籍が多く刊行されている。
  この白洲が、この時・1945年12月に・・、
  昭和天皇陛下からダグラス・マッカーサーに対するク
 リスマスプレゼントを届けた。
  その時に、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼント
 がぞんざいに扱われた為に、白洲は激怒した。
  「仮にも天皇陛下からの贈り物を、その辺に置けとは
 何事か!」と怒鳴りつけた。
  マッカーサーは、持ち帰ろうとした白洲に慌てた。
  その白洲次郎が・・、
  占領が終わった後の『日本の親米保守派』のことを、
  「独立回復後の今日でもそうである。米語を話し、と
 にかく米国人のご機嫌をとらんと努力する。
  それ以外のことは考えない日本人が、残念ながら多数
 存在する」・・と。
  そして、この白洲の言葉を読んだ伊藤貫氏は・・、
  「この親米保守派というのは、『強そうな奴』に媚(
 こ)びへつらうだけのコラボレイショニストだったのか」
 と思ったという。
  それが、朝日新聞やNHKという記述もある。
  戦時中は、軍にへつらい、そして、戦後は、親米保守
 となってアメリカにへつらった・・と・・、
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2017年3月5日、中国の軍事費の伸び率
  驚くべきことだが・・次のような数字がある・・、
  中国政府の公表する数字がまったく信用が出来ないと
 いうが・・、
  それでも、中国の発表した軍事予算と伸び率を見ると
 ・・以下の様になる。
  2000年度、1200億元、前年比の伸び率・17 %
  2001年度、1400           16
  2002年度、1700           21
  2003年度、2000           17
  2004年度、2250           12.5
  2005年度、2600           15
  2006年度、2950           13.5
  2007年度、3500           18.5
  2008年度、4100           17
  以上の様に、毎年、二桁のハイ・ペースで伸び続け、
 5年〜6年で倍になるという・・驚異的な伸びとなってい
 る。
  その目的・・狙いは・・
  1)短期的に:台湾の有事の場合、アメリカに対する
        けん制。
  2)長期的に:アジアからアメリカの勢力を駆逐し、地
        域の覇権を確立する。
  そして・・近年の状況は・・驚異的な額となっている。
  最近の、2017年3月5日、読売新聞に、これに関連する
 記事が掲載されていた。
  中国の「国防予算」(軍事予算)が初めて1兆元(約
 16.5兆円)を突破することが確実になった・・と報じて
 いた。
  また、「強軍建設」路線を進む中国は、アメリカ軍と
 の対立も念頭に、最新兵器の配備を急ピッチで進めてい
 る・・と報じた。
  この記事を参考にして、以下に抜書きすると・・、
  ・中国の軍事費は、アメリカに次ぐ世界第2の規模で、
   2016年は、日本の防衛予算の・・約3.2倍だった。
   また、世界第3のロシアと比べても・・約2.5倍とな
   る。
  ・専門家は、「潤沢な予算で軍備拡張を進められるこ
   とが出来る」と言う。
  ・1月に就任したトランプ米大統領は、「力による平和」
   を掲げ、国防費を約1割増やし、軍備増強を図る方針
   を示している。
    中国の習近平政権も、「自国の安全に対する脅威」
   に毅然と立ち向かう姿勢を示している。
  ・3月3日に、北京で開幕した会議で、軍出身委員から
   軍備増強を求める声が相次いだ。
   「中国の軍事費は、アメリカの4分の1だ」・・
   「もっと増やす必要がある」・・と、まくし立てた。
  ・また、「建軍の父」と言われる朱徳の孫は・・、
   「中国は、米国に比べて低い」。
   「国際水準に並ぶまでにまだ大きな空間がある」と
   主張した。
    また、全人代の傳氏も・・、
   「中国は、GDPの1.3%なのに、北大西洋条約機構
   (NATO)加盟国は2%まで引き上げようとしてい
   る」と言った。
  ・全人代代表で、中国軍事科学院研究員の少将は・・、
   「海、空、ロケット軍、(宇宙とサイバー分野など
   を担う)戦略支援部隊」の建設に(予算を)傾斜配
   分すると言った・・、
    また、海軍強化の一環として、建設中の国産初の
   航空母艦について、兵器や装備の取り付けが順調に
   進み、まもなく進水予定である・・と言った。
  ・習政権は、陸海空軍などの統合運用と戦力精鋭化を
   進めてきた。
    新たな戦略に対応するための兵器の近代化や、情
   報通信システムの構築をするためには「膨大な予算
   が必要」と・・、
    1月には、習氏をトップに、軍事面の開発研究に民
   間の資金や技術を導入する。
    そのための「軍民融合発展委員会」を発足させた
   ・・と・・など・・、
   因みに、日本の防衛費は・・1%以下の0.93%・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive