(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月〜1892年8月)

題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月〜1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時〜18時の12時間166㎜ 23〜24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日〜1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線室蘭駅(現:東室蘭)
 〜岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日〜1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日〜1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
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  (今日の言葉)
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  題:紀元1世紀〜2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
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紀元1世紀〜2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
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200年〜250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人ハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年1880年捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日〜1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーン奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
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1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日〜1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日〜1881年3月4日・・である。
.
1893年ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive