(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年3月)

題:(増補版)394E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年1月26日、哲学会
  井上哲次郎三宅雪嶺西周(にしあまね)らが、東
 京大学哲学科の卒業生を中心に、哲学会を結成した。
  哲学会は、日本の学術研究団体のひとつで、
  ドイツ哲学中心の官学アカデミズムの濃い団体だった。
  哲学のみならず、歴史学、文学など幅広い領域を対象
 にしていたが、しだいに、東京大学哲学研究室を基盤と
 した哲学専門誌となった。
1884年1月、江戸町に石油会社が開業した。
  石油ランプの普及が始まった。
  当時の家庭用の石油ランプは、灯油価格が、菜種油に
 比べて半値であった事と、
  明るさも、はるかに明るかったので、急速に普及した。
  1872年には、初めて、横浜の神奈川県庁付近の街灯に
 ガス灯がともった。
  因みに、石油と石油ランプが、商品として輸入されて、
 日本に入って来たのは諸説があるが、1860年頃と言われ
 ている。
  1866年に結ばれた条約で、灯台航路標識の設置がある
 が、
  このため、イギリスより洋式灯台ランプが購入されて
 いる。
  また、石油については、日本書紀にも「燃える土」と
 「燃える水」が、
  天智天皇に献上されたと記されている。
  日本初の石油会社としては、1871年にできた長野石炭
 油会社がある。
  1867年(明治元年)の石油の輸入量は121キロリットル
 で、
  1875年(明治8年)は、10,000キロリットルを越え、
  1894年(明治27年)には、20万キロリットルに達して
 いる。
  因みに、日本石油(株)は、1888年明治21年)に、
 設立されている。
1884年2月2日、黒田清輝(くろだせいき)が、渡欧して法
 学を学ぶために、横浜を出発した(〜1893年
  のちに、画家に転向した。
  パリで、画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正
 出会い、
  1886年に、画家に転向することを決意し、ラファエル・
 コランに師事した。
1884年2月5日、農商務省が、塩業諮詢会を神戸で開催した。
  因みに、この年に、「興業意見(こうぎょういけん)」
 という意見書が出された。
  農商務省大書記官・前田正名(まさな)編纂(へんさん)
 の農工商業の実情調査報告と、停滞の原因、将来の振興
 策を述べた意見書(殖産興業に関する論策)で・・、
  府県に、地方勧業要務に関する実情データを収集させ、
 本省の資料と合わせて編纂したもので、
  外国の制度文物の輸入よりも、在来産業の保護・整備
 が富国策だと主張した。
  この意見書は、松方財政に批判的だった。
  また、この意見書は、非常に労作で、
  当時の産業計画の根幹となった歴史的文献となってお
 り、
  本書は、農談会、勧業諮問会の開催や農区視察員の派
 遣などを通じて準備が進められたもので、
  秩禄、金禄公債の所有の移動、士族の商法、および、
 帰農開墾の失敗事業、土地売買解禁後の農地移動状況、
 明治前期の物価変動状況、地租改正後の農家の経済状態
 などが、
  松方財政下の不況のなかで、各地の農工商業の実情を
 調べて、貴重なことが述べられている。
1884年2月8日、海軍省軍務局を、軍事部として改組した。
  軍務局(ぐんむきょく)は、日本の陸軍省海軍省
 設置されていた軍政担当部局で、
  軍務局は、軍政を管轄するとともに、
  省の政策形成、及び、兵員・予算を獲得することが最
 も重要な役目。
  軍務局長は、大臣・次官に次いで政治折衝の中心的な
 地位にあった。
  ただし、軍の公式な見解としては、軍務局、及び、同
 局長の政治への関与は、国務大臣の一員である軍部大臣
 の補佐を目的とした限定的なものであり、
  局長自身の権限によって行うものではないとされてい
 る。
1884年2月15日、学齢未満の幼児の小学校入学を禁じ、幼稚
 園設立を奨励した。
  小学校に、学齢未満の幼児が多数在籍していたため、
 1884(明治17)年に、学齢未満児の小学校への就学を禁止
 する通達が出された。
  1872年(明治5年)9月4日に、学制(日本の最初の近代
 的学校制度を定めた教育法令)が公布されたが・・、
  それ以後、経済的困窮から就学出来ない子供や、小学
 校に学齢未満の幼児が多数在籍していた。
  1882年に、文部省は、貧困層や労働者子弟を対象とす
 る簡易幼稚園(貧民の方たちのための幼稚園)を奨励し
 た。
  「貧民力役者等ノ児童ニシテ父母養育ヲ顧ミルニ暇ア
 ラサルモノ皆之ニ入ルコトヲ(奨励)」
  しかし、この普及は、あまり進展しなかった。
  学齢未満幼児の就学者対策としての幼稚園の設置が促
 されて行った。
  そして、この年・1884年に、学齢未満児の小学校への
 就学を禁止する通達が出された。
  この通達を契機として、幼稚園数も徐々に増加して行
 った。
1884年2月15日、朝鮮で、初めて電信取扱が開始された。
  日本によって設置され、運営された(日本〜釜山間)。
  世界へつながる電信経路の一つとなった。
  1871年には、ロシアのウラジオストク〜長崎(海底ケ
 ーブルの敷設)
  シベリア経由でヨーロッパ、さらに、大西洋横断電信
 ケーブルを経てアメリカとも通信可能となった。
  1873年、東京〜長崎に回線がひかれ、東京から海外と
 の通信が可能となった。
  1880年には、日本国内の大都市間がつながり、
  1890年頃には、全国の県庁所在地がつながった。
  因みに、1879年には、165万通の電報が打たれている。
1884年2月16日、陸軍卿・大山巌が、川上操六・桂太郎両大
 佐を従え、欧州兵制視察のため横浜を出発した。
  川上操六は、この時、欧州各国の兵制を視察し、
  1887年には、乃木希典と共に、1月から1年半、ドイツ
 に留学し、
  モルトケ、ワルデーゼーから、直接、軍事思想を学ぶ
 機会を得て兵学を学び、
  日本陸軍の兵制を、フランス式からドイツ式に転換す
 る重要な役割を果たした。
1884年2月17日、梅ケ谷藤太郎(初代)が横綱となった。
  1879年1月場所の新大関昇進を挟んで、
  1880年5月場所でも全勝を挙げた。
  この間、1876年〜1881年にかけて58連勝を記録し、若
 嶌久三郎に敗れて記録が一度止まるも、
  1884年5月場所まで、35連勝を記録した。
  同年・1884年2月に、横綱免許を授与された。
  1884年3月に行われた明治天皇陛下の天覧相撲では、伊
 藤博文が用意したまわし(自前のまわしが間に合わなか
 ったという)で土俵入りを披露した。
1884年2月24日、第一国立銀行と朝鮮政府の間で、朝鮮開港
 場における海関税取扱に関する条約に調印した。
  第一銀行釜山支店主任の大橋半七郎は、朝鮮総税務司
 パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフと、海関税取
 扱条約を締結した。
  因みに、第一銀行の前身は第一国立銀行で、1884年
 は、李氏朝鮮(後の大韓帝国)と契約して、関税取扱業
 務を代行した。
  そして、後に、民間銀行でありながら、同国の中央銀
 行の業務を代行した。
1884年2月、フェノロサが、古美術絵画を鑑定する鑑画会を
 興した。
  フェノロサは、この年、政府から宝物調査団に任命さ
 れている。
  そして、文部省職員になっていた岡倉天心と、再び、
 奈良や京都の古社寺の調査をした。
  そして、重大な発見を数々した(国宝:救世観音の発
 見など)
1884年3月2日、旧岡山藩主庭園「後楽園」が公開された。
  この年、池田家から岡山県へ移管されて、一般公開と
 なった。
  総面積:133,000平方メートル
  残念なことに、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲
 によって、延養亭など、江戸期から残されていた園内の
 建造物の多くが焼失した。
1884年3月3日、茶業組合準則が制定された。
  因みに、茶業組合規則は、1890年に制定されている。
  現:公益法人日本茶業中央会
  目的:
  お茶の振興に関する基本的方策を樹立し、
  安全で良質な茶の需給関係の総合的改良発達を推進す
 るとともに、
  茶文化の振興を図ることにより、
  茶業の健全な発展、及び、国民生活の豊かさの向上実
 現に寄与することを目的とする。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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