(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月〜1888年5月)

題:(増補版)462E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月〜1888年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年5月5日、札幌製糖会社が設立された。
  甜菜(てんさい・サトウダイコン)は、今、北海道が
 100%の生産。
  寒さに強い作物で、適温は25℃。
  1870年(明治3年)日本の甜菜業が東京に官営で始まり、
 同時に、この年、北海道紋鼈(もんべつ)に製糖所が設
 立された。
  1871年明治4年)に、現在の函館市で試作され、また、
  1878年明治11年)に、札幌農学校でも試作された。
  そして、1879年に、現在の伊達市(旧西紋鼈村)に、官
 営甜菜製糖所を建設・操業し、
  1887年(明治20年)に、紋鼈製糖株式会社設立し払い
 下げした後1896年廃止。一方・・、
  1888年に 現在の札幌市(旧苗穂村)に、同じく製糖工場
 (札幌製糖株式会社)を建設・操業した。
  台湾製糖の影響により、1901年に、両社は廃止された。
  (注)1896年に、紋鼈製糖所は、3階建大工場であった
    が、機械がフランス式で技術が悪く1896年に解散
    し、機械は台湾製糖に譲られた・・の、記述もあ
    る。
     そして、1921年に、日甜が、北海道糖業で生産
    を再開した・・とある。
1888年5月5日、特別認可学校規則が制定された。
  法令番号: 明治21年文部省令第3号
  明治二十年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規
 則第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法
 律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学校ニ関シ特別認
 可学校規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  明治二十一年五月五日 文部大臣子爵 森有礼
  特別認可学校規則
  第一条:本令ニ於テ特別認可学校ト称スルハ明治二十
     年七月勅令第三十七号文官試験試補及見習規則
     第十七条第三項文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ
     依リ法律学政治学又ハ理財学ヲ教授スル私立学
     校ヲ謂フ
  第二条:特別認可学校ハ修業年限三箇年以上ニシテ法
     理学法学通論憲法行政法民法訴訟法刑法治罪法
     商法国際法財政学理財学統計学史学論理学等ノ
     諸学科中七科目以上ヲ学修スル為メ一定ノ課程
     ヲ設クルモノタルヘシ但法律学ヲ主トスル学校
     ニ於テハ擬律擬判ノ課ヲ設クルヲ要ス(以下略)
1888年5月7日、初の博士誕生
  前年・1887年5月に制定された学位令の規定に依り、最
 初の「博士号」が25人に授与された。
  学位は、初めは、1879年(明治12年)に、東京大学
 学部卒業者を対象に「学位授与ノ規則」が制定され、
  学士称号を学位とみなした。
  そして、1887年(明治20年)に、博士学位制度が導入
 され、
  この年・1888年に、文部省が、学位令によって、加藤
 弘之・箕作麟祥・池田謙斎・菊池大麓・古市公威・鳩山
 和夫・高木兼寛ら25名に、博士号を授与した(日本初の
 博士号)
  因みに、夏目漱石は、1911年(明治44年)に博士号に
 選ばれたが、返上した。
1888年5月8日、枢密院の開院式が行われた。
  天皇陛下の諮問機関。
  この日、5月8日、枢密院開院式が行われ、臨席された
 天皇陛下が、皇室典範憲法草案諮詢の勅語を下された。
  (参考)諮詢:しじゅん、参考として機関などに意見
     を問い求めること、
  枢密会議において初めて皇室典範を議せ、
  皇室典範憲法諮詢の勅諭渙発された。
  (参考)渙発:かんぱつ、詔勅(しょうちょく)を広
     く国の内外に発布すること、
1888年5月8日、東京洋紙会社が開業した。
  1888年5月、岩崎家が経営に参画しKobe Paper Mill Co.
 (神戸製紙所、後の三菱製紙)となる。
  日本の製紙業黎明期の6社の一つである。
  1889年12月、製紙会社気田工場が、わが国初の亜硫酸
 パルプの生産を開始した。
  因みに、日本で最初の製紙会社は、有恒社、および、
 抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、パピール・
 ファブリック、神戸製紙所。
  また、この6社に加えて、大蔵省印刷局も製紙機械を導
 入して紙を抄いている。
  (三菱製紙株式会社、百年史などを参考にした)
1888年5月10日、日本石油会社が創立した。
  有限責任日本石油会社が、新潟県刈羽郡石地村に設
 立された。
  現:新日本石油株式会社
  新潟県にあった尼瀬油田の石油開発ブームを受けて創
 立された有限責任日本石油会社が前身。
  現在、石油・石油化学以外のエネルギー事業で・・、
  液化天然ガスや、石炭の輸入販売や、燃料電池・エネ
 ファームの開発を進めるほか、
  製油所・製造所併設の発電所や、油槽所に設置した風
 力発電設備などを使用した電力卸供給事業 (IPP) や、
 電力小売事業 (PPS) を展開している。
1888年5月12日、陸軍各条令大改正が公布された。
  鎮台制は廃止となり、新たに師団制が採用された。
  (1886年1月28日説あり)
  最初、鎮台制は、有力諸藩の兵士を天皇の親兵として
 結集した(近衛兵の前身)。
  そして、軍備の強化が必要と考えられ、旧武士を編成
 した。
  そして、さらに、徴兵制が制定されて国民皆兵となり、
 国内の重要拠点に置いた。
  国内の内乱対策や治安を意識したのが主眼だった(当
 該地方の警護)。
  1877年の西南戦争のとき、軍の近代化と兵制の改良の
 必要を痛感した明治政府は、富国強兵策をとり、諸外国
 の兵制を取り入れ、師団制をとるようになった。
  因みに、鎮台の歴史は・・
  1871年明治4年)4月、御親兵が設置され、
  1871年6月、東山 (石巻) 、西海 (小倉) の2鎮台が設
 けられ
  1871年7月の廃藩置県に伴い、1871年8月、これまでの
 鎮台を廃止し、新たに東京、大阪、鎮西 (熊本) 、東北
  (仙台) の4鎮台が設けられた。
  1873年1月に、名古屋,広島に新設された。
  そして・・、
  師団は、独立して行動出来るような編成に拡張された
 集団で、各種の兵種も備えていた(歩兵、騎兵、砲兵の
 全てを有していた)。
  そして、独自の作戦行動をとる事も可能だった。
  日清、日露戦争の時は、これが威力を発揮した。
  海軍は、主要な軍港に、鎮守府を置いて、連合艦隊
 だった。
  鎮台は国内向けで、師団は外国まで視野にいれた編成
 だった。
  (参考)
  1885年5月、鎮台の下に旅団が常設され、
  1888年5月12日、鎮台を廃止してこれを師団に改編した。
1888年5月14日、陸海軍参謀本部条例改正
  この年の鎮台が廃止され師団が創設されると、それま
 での鎮台の衛戍地域を大隊区に分けた。
  同年・1888年5月の「大隊区司令部条例」(明治21年
 令第29号)による。
  管轄区域は、1888年5月14日に公布された「陸軍管区表」
 (明治21年勅令第32号)によって定められ、
  所属する師管、旅管が指定された。
  必要に応じて、警備隊区が設置された。
1888年5月14日、「鎮台條例」 廃止
「陸軍参謀本部條例」、「海軍参謀本部條例」、「師団司令
 部條例」、「旅団司令部條例」
  この日、鎮台条例を廃止し、師団司令部条例、旅団司
 令部条例を公布した。
  これにより、鎮台は廃止となり、新たに師団が編成さ
 れた。
1888年5月14日、陸地測量部条例が公布した。
   (明治21年5月勅令第25号)
  この年に、陸地測量部が発足するまで、業務は輻輳
 ふくそう、物事がひとところに集中すること)していた。
  陸地測量部(りくちそくりょうぶ)は、日本陸軍参謀
 本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等に
 あたった、現在の国土地理院の前身の一つで国家機関。
  参謀本部の一局であった位置付けから、本部長直属の
 独立官庁として設置された。
  日本水準原点は、当時の庁舎敷地内(東京三宅坂国会
 前庭付近)に設置されたもの。
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  (今日の言葉) 中国に関係する話・・
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  題:中国の『化けの皮』が剥(は)がされて来ている・・
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1937年、「中国の赤い星」という本が出版された。
  これが曲者(くせもの)の本だった・・、
  共産圏の北朝鮮は、国家ぐるみで麻薬、偽札、マネー
 ロンダリング、他国民の拉致という犯罪行為を堂々とし
 ている。
  また、諜報活動に血道(ちみち)を上げている。
  また、国民監視の密告システムがある、また、国民抑
 制システムがある。
  そして、中国も同じ体質にある・・、
  しかし、中国は、それを分かりにくくしている点、注
 意を要する。
  2005年春の中国の「反日デモ」は、中国政府の指令に
 よる「やらせのデモ」だった。
  しかし、インターネットや携帯電話で集まった自然発
 生的なものだと思わせた。
  また、自然発生だと強く言うという工作まで行った。
  嘘の操作をするという「屋上屋を重ねる」バレバレ行
 為までした。
  巧妙に行なう所は、北朝鮮よりも始末が悪い。
  第二次世界大戦で中国の「撫順戦犯収容所」に捕虜に
 なって収容された日本兵を、徹底的に洗脳した・・、
  そのすさまじさの為、完全にその日本兵の生涯、中国
 の主張通りの事を言い続けるということが起きた。
  あらゆる洗脳がなされ、脅迫もなされ、延々とすさま
 じい洗脳の結果、
  帰国後も、中国を讃美し続け、嘘のデッチアゲまでし
 て、してもいない戦争犯罪まで自(みずか)らやったと
 告白して、懺悔して、日本を貶(おとし)め、中国を讃
 美し続けた。
  人間性を踏みにじられ、中国国家体制維持に利用され
 た元日本兵の哀れな姿があった。
  1937年に出版されたアメリカ人のエドガー・スノー
 本「中国の赤い星」は、
  毛沢東の半生記が書かれた本であるが、一面、これも、
 日本兵の例の様だった。
  この本は、後で判明した事であるが・・、中国関係機
 関にコントロールされて書かれていた。
  つまり、中国の体質が、逆から解る本ともなった。
  何と! この本は、毛沢東の検閲も受けていた。
  また、エドガー・スノーは、中国共産党が、探し出し
 た共産主義シンパのジャーナリストという事も分かった。
  中国共産党の情報部とも連絡を取り、
  コミンテルンとも気脈を通じている人物だった。
  中国共産党の本拠地の延安にも行くという人だった。
  そして、毛沢東から聞いた話をそのまま描いたという。
  確かめることもなく・・、
  中国共産党政治局も大いに関わっているという「デッ
 チアゲ本」だった。
  この本が出版された時、世界で大反響が起き、そして、
 信じられた。
  長い間、世界を欺(あざむ)き続けた。
  この化けの皮を剥(は)がしたのが、2005年に出版さ
 れた本「マオ」(ユン・チアンとジョンハリデイの共著)
 だった。
  「中国の赤い星」は、共産中国の政治目的を持って、
 世界を繰ろうとする巧妙な嘘の宣伝本だった。
  嘘の「毛沢東像」、嘘の「中国共産党政権像」が、世
 界中に、あたかも強烈に洗脳した状態にした・・
  いや、今も、世界は、その洗脳された状態にいる。
  中国共産党の本当の実態が隠されている。
  また、本当の毛沢東像が隠されている。
  多くの虐殺が隠されている。
  ちなみに、この嘘本「中国の赤い星」を書いたエド
 ー・スノーは、死ぬ間際の1972年に・・、
  「自分は騙された(そして、本を書いた)」と、
  そして、後悔しているということを言った。
  今や、世界は、「中国の文化大革命」で、多くの人々
 が殺戮されたことを知っている。
  本の嘘が世界に知れ渡って、やっと、この著者・スノ
 ーは、「自分は騙された」「あの本は欺瞞だ」と言い残
 した、口にした。
  しかし、この明確な嘘の事が、洗脳の恐ろしさからか?
 あまり一般化されていない。
  逆に、その洗脳の恐ろしさが分かる事例となっている。
  そして、中国では、この「スノー」を、大成功の対外
 宣伝作戦の模範だとされている。
  日本の某大学の中国専門課程では、このスノーの本を、
 今だに「推薦図書」としているから、注意したい。
  また、中国は、この逆もしている。
  日本の次期総理候補が・・中国にとって不都合となる
 と、失墜情報を工作する。
  中国工作が、日本のマスコミを利用し、また、日本の
 マスコミが利用されて、日本を繰っている・・繰られて
 いる。
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1989年、中国、天安門事件が起きた。
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2004年11月、中国の原子力潜水艦が、日本領海を侵犯した。
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  続きの(今日の言葉)
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  題:日本国内に1000人の活動家がいると・・中国外交官が・・、
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2005年、中国の外交官が亡命した。
  これが、ただの亡命なら何も問題なかったが、
  この中国の外交官は、「日本の国内には、1000人をは
 るかに超える中国のスパイがいて、盛んに活動している」
 と言った。
  2005年、この中国外交官は、オーストラリアのシドニ
 ー総領事館にいた一等書記官で、オーストラリアに亡命
 した。
  また、彼は、中国国内で、中国の民主化の活動をした
 活動家が、身の安全が危うくなり、海外へ逃れても、中
 国は、その活動家を拉致して、中国・本国へ連れ帰る事
 もしていると暴露した。
  約100年前、ロンドンにいた孫文が、当時の中国清朝
 府に拉致され。
  北京に連れ戻されそうになったが、その血が、今だに
 中国共産党政権にも流れている。
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  そして、また、続きの(今日の言葉)
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  題:完全に・・コントロール下にあった。
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2005年4月9日、中国の中国政府による「官製の反日デモ
  北京で、日本に対する大規模なデモの一部が暴徒化し
 た。
  4月16日には、上海でも、日本に対するデモの一部が暴
 徒化した。
  これは、中国政府の『ガス抜き行為』が正しい見方。
  2005年4月16日の共同通信社電でも、「ガス抜き狙いが
 裏目」と記している。
  ただ、「中国政府のコントロールがきかなくて、大き
 くなり過ぎた」と言うのは嘘。
  中国政府は、完全にコントロールできる状態にいる。
  このジャンルは、中国政府の『宣伝』と、『工作』が
 酷いジャンルだ。
  完全に乗せられている。
  中国の国民の方々は、酷い格差に、そして、社会に大
 きな矛盾を感じている。
  こうなるのは・・当然の帰結だった。
  中国が、改革開放路線に踏み出した時に、「先に、豊
 かに成る者は、先に、豊かになって貰おう」という路線
 だった。
  格差は、当然、生まれるという、公認のやり方だった。
  貧富の差は、さらに拡がった。
  内陸部の農民の方がたは、相変わらず貧しく、喘(あ
 え)いでいた。
  その恩恵に浴せない不満は鬱積(うっせき)していた。
  そして、失業者層の不満も高まっていた。
  暴動が頻発した。
  また、デモも頻発した。
  そして、中国語で「革命」を意味する「起義」という
 言葉が飛び出る状況、飛び交う状況だった。
  この状況は、中国政府にとっても脅威であった。
  ここで、「反日」「愛国」のデモをやらせて、下手に
 抑え込まないという手に出た。
  反日デモは、中国全土に広がった。
  しかし、政府のコントロールよろしく、どの都市でも
 警察の対応は、初めから「見てみぬふり」だった。
  しかし、政府のコントロール下にあるという事を証明
 する事があった・・、
  2005年5月4日の「五・四運動」の日だった。
  この歴史的抗日記念日には、気が抜けたような静穏の
 日の始末だった。
  まったく何も起こらず、静穏な時間が過ぎていた。
  これは、約1ヶ月前の反日デモが、国際社会から強い批
 判を浴びたからだった。
  中国は、『国際批判に弱かった』。
  中国政府も、「デモをするな」と公言した。
  だから、「ピタッとでもが止まった」、
  大事な記念日なのに、デモは起きなかった。
  中国政府の『完全なコントロール下』にあった。
  天安門のあのデモを強権で抑え込んだ中国。
  国民を弾圧した姿。
  この時の中国の品位のママが示された。
  いつでもどこでも、デモを抑えることなど簡単な事だ
 った。
  演技。
  そして、ガス抜き、
  そして、その使い分け、
  完全に・・コントロールしている状態。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive