(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)

題:(増補版)392E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、流行:
・海水浴場の開設(1885年説など、各説あり)
  海水浴場の発祥地は、大磯という通説がある。
  大磯海水浴場の開設は、陸軍軍医総監の松本順が、か
 ねてから海水浴に注目していた。
  海水浴の適切な海岸を探していた。
  1884年明治17年)に、大磯の海浜が海水浴に適する
 ことを発見した。
  地元の有力者に、海水浴の効能と、海水浴場の開設が
 大磯の発展に力を添えると説いた。
  翌年・1885年に、開設に至った。
  一方、富岡(横浜市金沢区)、保田(千葉県安房郡鋸
 南町)、二見が浦(三重県度会郡)、鎌倉など、「海水
 浴発祥の地」を標榜している地域は少なくなくない。
  片瀬海岸では、明治初期に、早くも外国人の海水浴が
 行なわれていたことが知られている。
 富岡は、1877年(明治10年)に、慶珊寺にアメリカ人医
 師のヘボンが逗留し、宮の前海岸で海水浴をしたと言わ
 れている。
  ヘボンは、リュウマチの治療に富岡の海水浴に来たと
 されている。
  このヘボンに影響されて、居留地の外国人が富岡に多く
 訪れたという。
  富岡が、外国人の海水浴場や、保養地として利用され、
 横浜の居留地で暮らす外国人の夏を過ごす恰好の地とな
 った。
  そして、1885年〜1887年(明治18年明治20年)頃に、
 湘南海岸の各地に、相次いで海水浴場が開設された。
  海水浴場ではないが、海水浴をしたという記述は、も
 っと時を遡(さかのぼ)る例がある。
  1872年(明治5年)、フランスの法律家ブスケは、カタ
 シエ(片瀬)で、夕食前に海水浴をしたとある。
  1876年(明治9年)には、フランスの東洋学者エミール・
 ギメも、片瀬の海で海水浴をしている。
  また、1877年(明治10年)に、アメリカ人エドワード・
 モースが、江の島で海水浴を行なったとされる。
  また、ドイツ人医師ベルツは、1879年(明治12年)、
 内務省の役人から、海水浴場に適する地について諮問を
 受けたとき、片瀬を適地として推薦している。
 日本最初の海水浴の公式記録は、1880年明治13年)、
 大阪鎮台の兵士が、脚気治療のため、明石海岸で行った
 とある。
 また、「横浜もののはじめ」という資料には、1882年
 (明治15年)頃、外国人をみならって、日本人も海水浴
 を始めたとある。
  この地は、現在の「新山下町地先」という。
・蝙蝠傘:伊勢参りに不可欠の菅笠(すげがさ、すげの葉
 で編んだ笠)を被る者が少なくなる。
  今・現在、傘を「洋傘」とか「コウモリ傘」という人
 もほとんどいないが・・、
  「和傘」という日本の傘と、イギリスやイタリアから
 輸入された「西洋傘}があった。
  そして、日本には、古く、仏教伝来とともに傘蓋(さ
 んがい)が伝わってきた記録がある。
  欽明天皇13年(552年)に、百済聖明王の寄進によ
 って、金の仏像、仏教書などとともに蓋(きぬがさ、法
 会のとき、高僧の歩行に際し、その上にかざす笠状のも
 の)が伝えられ、
  以来、布を張った長柄の傘が、きぬがさの名で、貴族
 や僧侶などの上流階級の間に広まった。
  そして、西洋傘が、日本に渡来したのは1804年(文化
 1年)に、長崎に入港した唐船が運んで来たとある。
  唐船の船載品目に「黄とんす傘1本」とある。
  形態は不明だが、記録としては最も古い。
  長崎の歴史のある洋傘店には、「唐傘」「南京傘」と
 いう言葉がある。
・和紙製ハンカチーフ:外科医が傷口を拭うのに衛生的で
 あるとして外国で重宝された。
  「日本人の清潔」というのは外国でも有名だった。
  鼻をかむチリ紙が関心を集めた。
  西洋人は、布製のハンカチで何度も使って不衛生であ
 った。
  不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く西洋人は、
 日本人から不快のかたまりだった。
  日本は、紙文化が発達した清潔好きな民族だった。
  『シュリーマン旅行記 清国・日本』で、 ハインリッ
 ヒ・シュリーマンは言う・・、
  「日本人は、男性や女性も、服の袖の中にポケットが
 ついていて、
  そこには、はなをかむための和紙[懐紙]を入れている。
  彼らは、この動作をたいそう優雅に行なう。
  彼らは、われわれが、同じハンカチーフを何日も持ち
 歩いていることに、ぞっとしている。
  また、『江戸幕末滞在記』フランス海軍士官スエンソ
 ン(慶応2年、 1866年来日)には・・、
  日本人の清潔好きは、オランダ人よりはるかに発達し
 ていて、
  これは家屋だけでなく、人物一般についてもいえるの
 である。
  仕事が終わってから、公衆浴場に行かないと一日が終
 わらない。
  公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗っておしゃべ
 りの要求も満足させる。・・・
  西洋人は、一日中不潔なハンカチをポケットに入れて
 持ち歩く。
  それが(日本人は)どうしてもわからぬというのであ
 る。
・ネクタイが作られる。
  帽子商の小山梅吉の手により、国産の「蝶ネクタイ」
 の第一号が誕生した。
  1884年10月1日の製造開始を記念している。
  小山梅吉は、中古市場で見つけた細長い布に目が引か
 れ、一本買求め、これを見本にして帯地を裁断し、ネク
 タイを作ったという。これが、最初のネクタイ。
・万年筆が売り出された。
  横浜のバンスタイン商会が、初めてアメリカ製の『カ
 ウス・スタイログラフィックペン』を輸入した。
  そして、丸善で販売された。
  そして、翌年・1885年に、丸善の「引き札」ちらしに、
 初めて「万年筆」の文字が出た。
  当時は、カウス・スタイログラフィックペン(針先万
 年筆)とダッシュアウェイ・フォウンテンペン(金ペン
 付き万年筆)の双方を「万年筆」と呼んでいた。
  因みに、この年に、アメリカのウォーターマンが万年
 筆の製品化に成功とある。
・男子に和服用の外套「二重回し」、
 そして、上流婦人に、洋服や西洋風の髪型「夜会巻」が
 流行した。
  二重回しとは、男性用の和装防寒コートで、ケープ風
 の袖がついている。
  また、夜会巻は、着物や浴衣などの和服の時も活用で
 き、上品さと華やかさを演出でき、うなじが見えるので
 色香のある大人っぽい雰囲気にもなると説明されている。
1884年、演劇:
・文樂座:大阪御霊神社境内に移転した。
  文楽座は、御霊神社の境内に移り、「御霊文楽座」と
 して全盛を誇り、
  他の人形浄瑠璃の劇場は次々と潰れていき、唯一の人
 形浄瑠璃の劇場となった。
  ここから、人形浄瑠璃を、以後、「文楽」と呼ぶよう
 になった。
・東京猿若座:浅草鳥越町に移転した。
  新劇場を、浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在
 の鳥越)に新築し、これを猿若座(さるわかざ)と改称
 した。
1884年、スポーツ:
1884年3月10日:東京の芝の延遼館の裏庭で、初めての
 天覧相撲が開催され、
  明治天皇陛下が、相撲を熱心に観戦された。
  延遼館(えんりょうかん)は、日本初の西洋風石造建
 築物で、
  幕末に幕府の海軍所施設として建造された建物が基礎
 となっている。
  1869年(明治2年)に、浜離宮内の迎賓館として整備さ
 れ、多くの国賓を迎えた。
  1892年(明治25年)に、解体された。
  そして、2020年の東京オリンピックに合わせて、延遼
 館を、浜離宮内に復元される事が決定した。
1884年10月:不忍池に競馬場:東京・上野公園の不忍池
 に競馬場ができた。
  1884年11月1日より、農商務省から7年間の借地を認め
 られた共同競馬会社の主催により、
  第一回不忍池競馬(秋季競馬)が開催された
  1884年から1892年まで開催された。
  不忍池を周回するコースで行われてたが、
  馬券は、発売されずギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典であった。
  明治天皇陛下をはじめ、華族、政府高官や財界人を含
 む多くの観衆を集め、華やかに開催された。
  不忍池の周囲を、11万7000円の整備費をかけ、
  天皇陛下玉座、外国公使や政府高官、および、夫人
 たちの観覧席、華族の観覧席、上等客の席、コースの整
 備、馬見場(メインスタンド)、厩舎などを作り、国家
 事業的規模として行われた。
  馬主には、日本人だけでなく、外国人も多くいた。
  騎手は、招魂社競馬や、吹上競馬で活躍していた騎手
 がいたが、旧大名や士族、軍将校などもいた。
  屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で、天皇陛下をはじめ
 華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆をあつめ、華
 やかに開催し、ひとえに、不平等条約の改正を目指す明
 治の涙ぐましい行動だった。
1884年、災害:
1884年1月9日〜10日:大阪本町で大火、焼失1500戸。
  「大阪明治17年の大火『本町曲がり焼』
  大阪の東横掘川は、本町橋と農人橋との間で、東西に
 少しずれているが、ここを本町の曲がりと言っていた。
  夜11時ごろ、ここの路地裏から出火した。
  延焼か所は、北は内本町通、南は両替町まで、東は善
 庵筋に及び、翌・10日午前6時に鎮火した。
  3人死亡、家屋焼失935戸、土蔵90棟、神社、寺院各2か
 所が焼失した。
1884年11月7日〜8日:盛岡で大火、焼失1800戸。
  盛岡明治17年の大火、豪商家の自衛消火活動生きる。
  午後2時半、下の橋ぎわの盛岡監獄署(刑務所)内の物置
 より出火した。
  折から西風が烈しく吹きまくり、塀を越えて飛び火し
 馬場小路の二、三の茅葺き屋根に移り、
  さらに、県令(県知事)邸(新渡戸稲造生家)と盛岡学校
 へと飛び火した。
  両建物とも茅葺きだったので、火勢を一気につのらせ、
 炎を市街地へと引き込んだ。
  まず、周辺の阿南地区を総なめにし、
  炎の勢いは、六日町、穀町、馬町、十三日町と次々と
 延焼、寺の下から餌差小路へと延び、
  呉服町の一部、肴町、葦手町の一部、生姜町と灰にし
 ていった。
  その後も、炎の勢いはとどまることを知らず、
  八幡町、同片原、志家の一部、小人町、川原小路など、
 江戸時代からの盛岡の中心部・河南地区のほとんどを、
 焦土として、
  翌・8日午前4時ようやく鎮火した。
  焼失したのは、家屋1432戸、土蔵46棟、学校3校、神社
 6か所、寺院10か所、その他の建物300余棟。
  江戸時代からの豪商、糸治(中村家)と木津屋(池野家)、
 両家の自衛消火活動によって、
  新穀町から惣門通にかけての東側の町並みが火災から
 逃れることができた。
  火災から逃れた建物などは、現在、国指定重要文化財
 や岩手県指定有形文化財に指定されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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