(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月〜1885年11月)

題:(増補版)416E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年9月〜1885年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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(追記)1885年1月9日、漢城條約(甲申事變善後約定)締
 結。
  この条約は、京城条約ともいう。
  1885年1月9日、特派全権大使の井上馨は、朝鮮全権・
 金宏集と漢城条約(甲申事変善後処理の条約)に調印し
 た。
  前年の1884年12月4日の甲申の変 (京城事変) に関して、
 日本と李氏朝鮮との間で取りかわされた条約で・・、
  甲申の変の事態収拾のため、日本は、全権大使として
 外務卿・井上馨を派遣し、
  事変の翌・1885年1月7日から、朝鮮の全権大臣・金弘
 集と交渉した。
  日本の全権大使・井上馨は、大局的見地に立ち、早期
 締結へ向けた提案をし、早期締結が実現した。
  そして、1885年1月9日に、条約は締結された。
  なお、1885年4月18日に、朝鮮問題に関し、日本と中国
 の清との間で取り決めた天津条約もある。
  朝鮮の甲申政変の結果、日朝間で漢城条約を1885年1月
 に結んだのに対し・・、
  天津において、伊藤博文李鴻章のあいだで締結され
 た天津条約は・・、
  朝鮮からの『日清両国軍隊の撤兵』、『両国軍事教官
 派遣の停止』、『朝鮮出兵の際の相互事前通告』などを
 取り決めた。
  これによって朝鮮出兵に関して日清両国の立場は対等
 となった。
  第二次世界大戦の時、アメリカは、日本に秘密にして、
 この天津条約で禁止されている様な「軍事教官の派遣」
 を中国に対して行っていた。
  また、アメリカは、さらに踏み込んで、攻撃部隊(武
 器と兵員)まで、中国・国民政府軍へ、日本に秘密裏に
 送り込み、日本攻撃して戦闘状態に入っていた。
  卑劣なアメリカの『秘密の参戦である』。
  日本の真珠湾攻撃を『どうのこうのと言う資格は、ア
 メリカにはない』(アメリカの卑劣なプロパガンダ
(追記)1885年6月28日、上野駅が開業した。
  1882年(明治15年)11月に、寛永寺の寺院跡約29,800
 坪(約98,512m²)を東京府より借り受け、上野駅の用地
 とした。
  上野駅の敷地は、寛永寺の僧坊があった場所で、
  維新後は、政府が官営地として所有していたものを借
 り受けた。 
  他の駅とは違って、初めから多くの線路、施設があっ
 た。
  1883年(明治16年)7月28日、上野〜熊谷間の仮開業・
 開通に伴い、上野駅を開設し、駅は仮開業で荷物扱い所
 を充てた。
  1883年8月、貨物の取扱いを始める。
  1883年10月、郵便物の取扱いも始める。
  1884年5月、上野〜高崎が開通。
  1884年6月28日、天皇陛下をお迎えして、正式な開業式
 が行われた。
  但し、駅舎は仮駅舎であった。
  1885年(明治18年)7月、煉瓦造2階建て、237坪(約783
 m²)の本駅舎が竣工した。
  これが、初代駅舎で、三村周が設計、毛利重輔が監督
 した。
  当時の汐留駅横浜駅を踏襲した形だった。
  また、1885年に、大宮駅〜宇都宮駅区間利根川
 河区間を除く)が開通すると、上野駅は、東京側のター
 ミナルとして繁盛するようになった。
1885年9月29日、郵便汽船三菱と共同運輸が合併し、日本郵
 船が設立された。
  支店が梅ケ崎町に開設され、
  長崎と中国、フィリピン、北南アメリカとの航路が結
 ばれ、九州唯一の外国航路の港となった。
1885年9月29日、東京法学校が、東京大学法学部と合併した。
1885年9月、東京師範学校が、女子部生徒の制服を洋服と
 した。
1885年9月、坪内逍遙が、「小説神髄」を発表する。
  坪内逍遥の文学理論書(上巻:小説の原理論、下巻:
 その技法論)
  著者名を坪内雄蔵とし、東京大学時代からの小説探求
 をイギリスの諸文献、『ブリタニカ』などから得た知識
 をもとに組織した日本最初の体系的小説論。
  人知と文化の発達とともに発達してきた文学の頂点に
 たつのは小説だとの基点に立ち・・、
  「人情」の模写を通して人生の因果の理法と、人間界
 の構造を照出し、
  小説における心理的写実主義を唱え・・、
  心理観察と客観的態度の尊重を説き・・、
  その中の芸術性を重んじた。
   そして、日本の小説は、改良されなければならないと
 提唱した。
  その結果、戯作や勧善懲悪の文学の衰退を招き、
  尾崎紅葉らの写実派の台頭に影響を与え、
  また、自然主義の作家たちにまで大きな影響を与えた。
  日本近代文学の黎明期における、最初の理論書として
 の役割を果した。
1885年10月1日、日本郵船が営業を開始(創業)した。
  日本郵船株式会社の発足。
  郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により、9月29
 日 日本郵船会社を設立、10月1日創業、資本金1,100万
 円、所有汽船58隻。
  (日本郵船ホームページより)
  当社グループは、海・陸・空にまたがるグローバルな
 総合物流企業グループとして、安全・確実な「モノ運び」
 を通じ、人々の生活を支えることを基本理念として、日
 々の企業活動を行っております。
  世界の人々の豊かで、安心できる暮らしに貢献するこ
 とを誇りに思うと同時に、その社会的責任を深く感じて
 います。
  (代表取締役社長・内藤忠顕氏挨拶より抜書き)
1885年10月1日、東京瓦斯会社が開業した。
  渋沢栄一大倉喜八郎ら、東京瓦斯会社を設立。
  後の東京ガス
  当社本月(10月)一日創立す、東京瓦斯局の払下を受
 け、資本金二十七万円を以て組織し、社名を東京瓦斯
 社と称し、本社を芝区浜崎町に置く。
  瓦斯料金は一千立方呎に付金三円とす。
  (東京瓦斯(株)データベースより)
  東京ガスグループは、1885年の創立以来、130年にわた
 り首都圏を中心とした地域への都市ガス供給を通じて、
 お客さまの豊かな暮らしや社会の発展を支えてまいりま
 した。
  1969年には、日本で初めて、LNG液化天然ガス)を導
 入し、
  その後、半世紀近く「LNGのパイオニア天然ガスのト
 ップランナー」として、LNGバリューチェーンの確立・強
 化と天然ガスの普及・拡大に努め、国内外からも大きな
 評価を得ています。
  東日本大震災を経て、2011年11月に策定・発表した「
 チャレンジ2020ビジョン」では、このLNGバリューチェー
 ンの一層の高度化を図り、日本の「エネルギーセキュリ
 ティーの向上、エネルギーコストの低減、エネルギーシ
 ステムの革新」に貢献するとともに、東京ガスグループ
 の持続的な成長・発展を目指すこととしています。
  (代表取締役社長・広瀬道明氏挨拶より抜書き)
1885年10月5日、フリーメーソン長崎支部奉献式が行なわれ
 た。
  支部は、下り松50番地に創設。
  フリーメイソンは、16世紀後半から17世紀初頭に、判
 然としない起源から起きた友愛結社。
  起源とフリーメイソンリーに関して、対外的な資料が
 少ないため、諸説存在する。
  因みに、関係すると言われる、オリンピックを提唱し
 たというクーベルタン男爵は・・、
  女性の参加は、男性にとって良からぬことであると考
 えていた。
1885年10月7日、高瀬真卿(たかせしんけい)が、本郷に、
 私立予備感化院を開設した。
  1886年に、東京感化院と改称した。
  高瀬真卿によって、日本最初の組織的な少年感化院が
 設立された。
  高瀬真卿は、明治〜大正時代のジャーナリスト、社会
 事業家で、
  仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた(茨城新聞や仙台日日新聞なども主宰)
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
  1882年(明治15年)の福島事件で、交友が処罰され、ま
 た、自身も獄中生活を経験し、感化事業に従事するよう
 になった。
  1884年(明治17年)東京集治監の教誨師となり、
  1885年(明治18年)私立予備感化院(のちの東京感化院
 錦華学院)を湯島(東京)に創設した。
1885年10月12日、事業主で作られた東京活版組合が、解雇
 職工の無断再雇用禁止を申し合わせた。
1885年10月15日、高崎〜横川間が開業する。
  鉄道局の高崎〜横川間の鉄道が開業。
  日本鉄道とあわせて東京と横川が結ばれた。
  関連事項:東京と大阪を結ぶ幹線は中山道経由とする
 ことが決定していた。  
  東海道経由に変更(1886年)  
  横川〜軽井沢間開通(1893年
1885年10月17日、東京・浅草公園六区に水族館が開館した。
  (10月11日説あり)
  浅草公園六区(あさくさこうえん ろっく)は、東京都
 台東区浅草にある日本の歓楽街。
  通称:浅草六区という。
  因みに、近くにある浅草花やしき(あさくさはなやし
 き)は、東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地で、
  1853年(嘉永6年)に、千駄木の植木商、森田六三郎に
 より牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園し
 た。
  当時の敷地面積は、約80,000m2(24,200坪)だった。
  江戸期は、茶人、俳人らの集会の場や、
  大奥の女中らの憩いの場として利用され、
  ブランコが唯一の遊具だった。
  明治に入り、浅草寺一帯を浅草公園地とした際、
  花屋敷は、奥山一帯と共に、第五区に指定された。
  しかし、敷地は縮小し、
  1885年(明治18年)に、木場の材木商・山本徳治郎(
 長谷川如是閑の父)と、
  その長男・松之助が、経営を引き継いだ。
  翌年・1886年勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板と
 して掲示した。
  この頃でも、利用者は主に上流階級者であり、
  園内は、和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。
  しかし、徐々に、庶民にも親しまれるようトラ、クマ
 など動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマ
 ーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示した
 りした。
  浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、
 動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸な
 ど)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
1885年10月20日メートル法条約に加入した。
  日本は、1885年のこの時に加盟手続を終わっていたが、
 公布されたのは、翌年・1886年4月16日であった。
  因みに、2013年8月時点の加盟国数は55、準加盟国数は
 38である。
  1795年に、フランスは、メートル法を制定し、
  1799年に、標準器を完成したが、その国内での普及は
 強い抵抗にあい、一時的に後退を余儀なくされた。
  1840年に至って、ようやく強制使用の段階に達した。
 その間、メートル法は1816年に、イタリア内の州により、
  1821年に、ベルギーを含むオランダ王国により採用さ
 れ、
  また、1832年には、K.F.ガウスにより地磁気の測定に
 応用されるなど、その使用は、徐々にではあるが確実に
 広まっていた。
  そして、メートル法による度量衡標準の国際的統一、
 および、その完成を目指して、1875年5月20日、パリで締
 結された条約。
  14ヵ条の本文と、22ヵ条の付則と、6ヵ条の過渡規定か
 ら成る。
  パリに、度量衡万国中央局を設置すること、国際度量
 衡委員会、国際度量衡総会その他を規定したもの。
1885年10月、神田に貸本屋が開業した。
  この年に、東京神田に開業した貸本屋の「いろは屋」
 の蔵書は、その9割が学術書であり、
  顧客の大半は学生で、
  1ヶ月の貸し出し冊数は、8000冊〜9000冊に及んだと
 いう。
  また、貸本屋の中には、閲覧室まで備えていたものも
 あり、
  居付き(いつき、その場所に住みつく)の貸本屋がこ、
 の様に繁盛したのは、公共の図書館が、まだ、ほとんど
 無かったため。
  因みに、明治20年頃までに、本屋の企業形態が変化し
 ている。
  それまで、書物問屋・地本問屋・絵草子屋・貸本屋
 ら、活版印刷による洋本屋・輸入翻訳本屋・新聞雑誌ジ
 ャーナリズムへと主役が交代して行った。
  そして、この変化と共に、日本橋から神田神保町への
 移動が対応している。
  江戸時代の本屋仲間は日本橋・京橋だったが、
  1906年明治39年)の組合員構成をみると、急激に神
 田の書店が増加している。
  また、1902年(明治35年)に、組合の正式な業務とし
 て、新古書籍の交換が始まり、これが、古書市場の始ま
 りとなっている。
   (参考:慶応技術大学、大内田鶴子氏論文より)
1885年11月3日、東京帝国大学の学生と横浜の外国人の間
 でボートレースが行なわれた。
  日本初の国際ボートレースとなる。
  別の史料に・・ボートレースの最初は・・
  1863年文久3年)10月5日〜6日に、開催されたグラン
 ド・ヨコハマ・インターナショナル・レガッタが最初。
  最初は、軍人が主体だった。
  1871年明治4年)頃から、居留民による競技団体が組
 織され、
  最終的には、横浜アマチュアローウィング・クラブ
 に統合された。
  因みに・・ヨット・レースの最初は・・
  ヨット・レースは、最初ボート・レースに付属して行
 われていたが・・、
  1886年明治19年)10月、横浜セイリング・クラブが結
 成され、これ以降盛んになり、
  1927年には、横浜ヨット・クラブと改称、この年には
 モスキート・ヨット・クラブもできた。
1885年11月9日、種痘規則が制定された。
  1798年エドワード・ジェンナー、天然痘予防のため
 牛痘種痘法を発表した。
  1849年、長崎に痘苗到着した。そして、日本の種痘が
 始まった。
  1876年、天然痘予防規則ができた。
  1885年、種痘施術心得書
  そして、この年・1885年に制定された種痘規則では、
 1歳未満と、5歳〜7歳の間に合計3回の実施が義務付けら
 れた。
  そして、1909年(明治42年)に種痘法が改正され・・、
  第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ、但シ痘瘡ヲ
   経過シタル者 ( 天然痘に罹ったことがある者 )ニ
   付テハ此ノ限ニ在ラス
  (1)第一期 出生ヨリ翌年6月ニ至ル間、但シ 不善感
   (種痘後、傷口にオデキができない場合 )ナルトキ
    ハ、翌年6月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  (2)第二期 数ヘ歳10歳、但シ不善感ナルトキハ、翌
    年12月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
  定期前2年以内ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看
  做ス・・ということで
  全感した場合、つまり種痘を植え付けた傷口に、「オ
 デキ」ができて成功した場合には、合計2回で済むことに
 なった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ大統領が、真珠湾攻撃前に、開戦の決定をしていた。
    アメリカ大統領のルーズベルトは、日本が攻撃す
   る前に、『日本を攻撃せよ』との指令を出していた。
   事実上の宣戦布告である。
   真珠湾攻撃前に、開戦決定をしていた、そして、攻撃した。。
    奇襲されたから戦争したなどは嘘の話だ。
    アメリカよ! 嘘をついてまでして、日本を貶(
   おとし)めるは、いい加減にしてくれ!
    嘘つき国家が、恥ずかしくないのか!!
.
1941年7月23日、ルーズベルト大統領を含む、米国首脳が
 フライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に、この
 日に署名し、事実上の宣戦布告をした。
  日本の真珠湾攻撃の前であり、
  日本が真珠湾攻撃をしてきたから、参戦したのだなん
 て『真っ赤な嘘』である。
  (この以前に、アメリカは、既に、中国で秘密裏に、
 日本攻撃をしている)
  日本を虐(いじ)めて、いじめて、いじめ抜いて、先
 に攻撃させる様にしよう(日本が先に戦争を始めたと見
 せかけよう)というアメリカ首脳陣の考えだった。
  先に、銃を抜かさせて、正当防衛が成立するという狡
 猾(こうかつな、狡(ずる)いキリスト教の考え方に洗
 脳されている。
  以上の様に・・、日本が、アメリカと戦端を開こうと
 開くまいと・・、
  アメリカは、先に、日本との開戦の方針を決定し、
 事実上の開戦の意思を公式のアメリカの意思とした。
  そして、アメリカの日本締め付けのより卑劣な行為が
 始められ、そして、続けられる・・
  その締め付けは・・立て続けに行われた・・、
  1941年7月25日、在米日本資産を凍結
  1941年8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
  1941年11月26日、ハルノート提示
  そして、日本はやむを得なく・・12月7日、真珠湾攻撃
 をする。
  どこの識者も、政治家も言う・・、
 「石油を絶たれたら、最悪であり、我が国も戦争に至る」
 ・・と。
  そして、このフライング・タイガーアメリカ戦闘機
 部隊)こそが、
  アメリカが、真珠湾攻撃以前から対日戦争に参戦して
 いた何よりの証拠だった。
  真珠湾攻撃よりも4ヶ月以上前に、アメリカによって
 日米戦争は始まっていた。
  (読売新聞、1991年7月8日)の記事で、アメリカの嘘
 の一部がバレているが、
  ビルマで、既に、日本機と戦って、撃墜したなどと書
 かれている、
  また、この戦闘部隊はアメリカの正規軍だと分かった
 などが書かれている・・
  しかし、読売は一部でアメリカを庇(かば)う・・、
  その記事の内容・・、
  大戦中の義勇軍「フライングタイガーズ」 
  正規の空軍部隊だった 米紙が報道
  【ロサンゼルス七日=桝井成夫】
  第二次大戦で、蒋介石総統の中国国民党軍に協力、中
 国南部とビルマ戦線で日本軍機を大量撃墜したことで知
 られる「フライングタイガーズ」は、
  日米開戦半年前の一九四一年春、米国防総省の承認の
 もとに、空軍基地から集められた戦闘機パイロット二百
 五十九人による正規の“エリート空軍部隊”だった、と
 六日付のロサンゼルス・タイムズ紙が報じた。
  同部隊は、これまで、民間義勇軍とされ、国防総省
 体、陸軍省や大統領とのつながりをいっさい否定してき
 たが、
  約百人の生存者が、国防総省に史実を認めるよう請願、
 このほど退役軍人として認められたという。
  同紙によると、「フライングタイガーズ」のパイロ
 トは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によっ
 て、
  当時の新米パイロットの五倍相当に当たる月給六百ド
 ルと、日本軍機一機撃墜ごとに五百ドルという破格の報
 酬で、全米各基地から集められた。
  全員は、農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビル
 マに集結。
  蒋介石政権が、米国に借金する形で資金を負担、弱体
 の中国航空部隊を裏で支えた。
  現地で飛行訓練を積んだ後、十二月の真珠湾攻撃直後
 から、国民党軍のマークが入ったP40戦闘機に搭乗、
 中国南部とラングーン周辺で日本軍機と交戦し、日本陸
 軍航空隊の戦闘機など日本軍機二百九十六機を撃墜した
 とされている。
  同紙は「フライングタイガーズ」研究家デービッド・
 フォード氏の証言として、
  当時のモーゲンソー米財務長官が取り決めた国民党へ
 の一億ドルの融資が役に立ち、
  ルーズベルト米大統領経済顧問のロークリン・カーリ
 ン氏が、計画全体の調整役を務めたとの見方を示してい
 る。
  さらに同紙は、「フライングタイガーズは、大統領と
 米軍中枢の承認を受けている」との米陸軍航空隊ヘンリ
 ー・アーノルド将軍のメモ(一九四二年)も見つかった
 としている。
  真珠湾奇襲の半年前に米側が軍事行動をスタートさせ
 ていたことを示すものとして議論を呼びそうだ。
.
  また、別史料の(読売新聞、1991年11月24日)による
 と・・、
.
  「真珠湾攻撃」の5か月前 米が日本爆撃計画 「大
 統領も承認」/ABCテレビ''
  米・ABCテレビが「米の責任」を論評
  【ニューヨーク二十二日=藤本直道】
  米ABCテレビは、二十二日夜の報道番組「20/20」
 で、日本軍の真珠湾攻撃の五か月も前に、
  フランクリン・ルーズベルト米大統領は、中国本土か
 ら日本への長距離爆撃計画を承認していたと伝え、
  同大統領は、日本を意図的に開戦へ追い込んだと論評
 した。
  真珠湾五十周年を前に、日本の奇襲を改めて強調する
 報道が多い中で、
  米国の開戦責任を米国側からまじめに論じたものとし
 て異色の番組。
  この爆撃計画そのものは、一九七〇年に公開された公
 文書の中にあったが、
  その後歴史家に検証されることなくやみに埋もれてい
 たという。
  同テレビは、当時のパイロットや大統領補佐官などの
 生々しい証言を伝え、
  米政府が日本への石油禁輸を決めた時期と、対日爆撃
 計画承認がほぼ同時期であり、
  大統領補佐官の証言からも、ルーズベルト大統領が、
 日本を開戦に追い込む意図であったと論評している。
  この計画は、JB355と名付けられ、一九四一年七
 月二十三日に、大統領だけでなく、当時の戦争長官、海
 軍長官なども署名。
  ビルマから中国への物資補給路を援護するため中国に
 雇われた米人パイロット・グループ、フライング・タイ
 ガースを率いるクレア・シェンノート氏がこのJB355
 計画にもからんでいた。
  米政府は、日本の弾薬工場や重要な産業施設を爆撃す
 るため、長距離爆撃機六十六機を供与するほか、
  数百万ドルにのぼる経費や兵員も負担することを承認
 していたが、
  これは当時の米国の『中立法に反する』という。
  シェンノート氏は、この爆撃により「日本の紙とマッ
 チの軸で出来たような建物を灰に出来る」と報告してい
 たが、作戦実施に手間取っているうちに真珠湾攻撃が始
 まった。
  (ここまでhttp://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18552735.htmlから転載)
  (評)アメリカも、当時の、アメリカ大統領のルーズ
 ベルトが、日本を戦争に追い込んでいたということが分
 かったと・・、
  そして、真珠湾攻撃の5ヶ月とか、6ヶ月以前に、既に、
 行動を起こしていたという事実が明らかになった・・と。
  なんだかんだと遅れて真珠湾の後になったという読売
 新聞の記事は「作り話記事」となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive