(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月〜1884年1月)

題:(増補版)389E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年12月〜1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、出来事:
天皇陛下山陽道行幸(氷川清話)
明治17年は、城山で死んだ西郷隆盛の7周忌だった。
  11月に、吉井友実元田永孚(ながさね)、伊地知正
 治、税所篤(ざいしょあつし)らが心配して、逆族とさ
 れた西郷の名誉回復が何とかならぬものかと、海舟の所
 に相談に来た。
  海舟も、実はそれを考えていたという。
  「今度は見送ろうか・・云々」の話の後、「とにかく
 任せなさい」と別れ、海舟は侍従だった山岡鉄舟に話し、
  山岡から有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひ
 としんのう)へ頼んで明治天皇陛下へ奏上してもらった。
  それで、天皇陛下も、西郷のことは気になっておられ
 たらしく、西郷の子供にお手許金で洋行させてやったら、
 という思召しであった。
  それで、西郷寅太郎(長男)を召して、ドイツに留学
 させ、陸軍軍人の修行をさせることにした。
  このことが公表されると、西郷隆盛の名誉回復のみな
 らず、
  その一族も、また、西南の役に賊軍扱いをうけた人々
 や、その遺族も、
  みな、晴天を仰ぐの思いをし、十年の戦争での怨恨は
 消え、和らげられる事になった。(氷川清話)
  勝海舟、西郷南州7回忌につき、遺族のため名誉回復の
 運動をなす(氷川清話)
・官吏恩給令制定
  この年、文官の恩給制度が正式に定められ、太政官
 恩給局がおかれて、発足した。
  給付財源は全額公費。
  この時はまだ、官吏、軍人、教職員などについて個別
 的に定められていた。
1884年、殖産興業(生産を増やし、産業を盛んにする):
  国の基本の「富国強兵策」の力を入れた要のところ・・、
・小坂・十和田鉱山・赤城炭鉱開掘
  小坂鉱山は、秋田県にある金・銀の鉱山で、この年の
 9月に、藤田財閥(現:DOWAホールディングス)の中核企
 業の藤田組に払下げられた。
  十和田鉱山は、秋田県十和田湖西岸に位置し、金・銀
 銅・鉛・亜鉛・硫化鉄の鉱脈がある。
・大阪商船会社が開業した。
  商船三井の歴史に、この年の5月に「大阪商船」が開業
 (資本金:120万円)とある。
  ますます活況を呈する瀬戸内海の海上交通の用に給す
 るため・・、
  瀬戸内の船主55名が93隻の船を現物出資して、設立さ
 れた。
  設立までの困難を、強い人間の意思と、情熱で克服し
 たと記されている。
・長崎・静岡・宮城県に紡績所が創立された。
  1872年に、群馬県富岡製糸場が創業したが、紡績は、
 日本の基幹産業として、日本を支えた。
  生糸は輸出の花形だった。
  殖産興業のため、輸出をさらに盛んにしたかった。
  そこで、紡績工場をはじめ、毛織物工場・製糖工場を
 造り、輸入品とも対抗していった。
  (外国製品に打ち勝って行かねばならない、大きな壁
 を乗り越えて行った)
  生糸生産の輸出拡大で、貿易収支が逆転でき、日本経
 済の自立的発展の基礎がつくられて行った。
  当然、生産性向上も目標の一つだった。
  明治の方々は、紡績工場で深夜操業をスタートさせた
 様に、国づくりを、日本人の勤勉さと供に、国を支えて
 築いて行った。
1884年、交通・運輸:
  運輸・交通関係の整備も、国の発展のかなめだった。
・1月29日:東京の浅草橋が鉄橋になり、渡り初め式が行わ
 れた。
  1874年に、浅草見附の石材を利用して、浅草橋が石橋
 に改架されたが、さらに、鉄橋に替えられた。
・5月1日:(上野〜高崎間開通)日本鉄道が路線を延ばし
 て高崎に達した。
  6月25日:明治天皇陛下が高崎まで往復され、上野駅
 戻って開業式が行われた。開業は(1883年)
  日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線として、1883年
 に、上野〜熊谷間で仮営業を開始したのが始まりで、
  立案当初は、上野〜高崎間の路線には、王子〜赤羽〜
 大宮〜鴻巣〜熊谷〜高崎という英国人技師ボイルの案と、
  千住〜岩槻〜忍〜熊谷〜高崎という米国人技師クロフ
 ォードの案の二案があった。
  当時の鉄道局長官・井上勝が、ボイル案を採用し、現
 在の路線が建設された。
  そして、1884年に、高崎、前橋まで延長され、全通し
 た。
  高崎まで開通した1884年6月25日に、明治天皇陛下の御
 臨席のもとに、上野駅で開通式が行われた。
  この時、明治天皇陛下は、上野〜高崎間を往復乗車さ
 れた。
1884年、特許・発明:
・我が国初の商標の制度が設けられた。
  そして、この年、出願されたその商標出願件数は883件。
  ちなみに、昭和63年は17万3000件。
  商標以前に制度が出来た特許は、この年まで0件だった。
  そして、明治18年に、425出されたが、これが最初。
  昭和63年は、33万9000件となっている。
・ヨーロッパ諸国が、フランスを中心に、特許に関する国
 際条約を締結した(パリ条約の発端)。
・カール・ベンツが、ガソリン・エンジン自動車を発明し
 た。
  世界初の実用的なガソリン動力の自動車だった。
  「メルセデス・ベンツ」の基盤を築いた。
  因みに、1879年に、エンジンについての最初の特許を
 取得している。
  1883年に知り合いになった実業家のM.K.ローゼ、技術
 者のF.W.エスリンガーとともに、マンハイムの地に内燃
 機関を製造する「ベンツ・ライン・マンハイム・ガス・
 エンジン製作所」を設立した。
  これが、後のダイムラー・ベンツ社の母体となった。
  ベンツには、かつて夢想した自力走行する車両を設計
 する機会が訪れた。
  自転車好きのベンツは、その知識を応用して自動車を
 作った。
  三輪車であった。
  ガソリンエンジンが備え付けられていた。
  ラジエターは無かった。
  水タンクへの自然対流式冷却の水冷だった。
  1885年に完成した。
  ベンツは、1884年に、オットーの4ストロークエンジ
 ン特許No.532を無効とする告訴が出され、1886年1月30日
 に、オットー特許がオープンとなり・・、
  そして、この前日の1月29日、ベンツの3輪自動車の特
 許が権利化され、世界初の自動車の発明の名誉を手に入
 れたのだった。
  因みに、1884年に、フランスで、ドラマール・ドブッ
 トビュが、ガソリン自動車の特許を得ている。
・マキシムが、マキシム式機関銃を発明した。
  イギリス人発明家マキシムが、大量殺人兵器の機関銃
 を発明した(アメリカ生まれ)。
  第二次ボーア戦争、マフディー戦争、 ダラーウィーシ
 ュ蜂起、義和団の乱日露戦争フィンランド内戦 第一
 次世界大戦、第二次世界大戦インドシナ戦争、ベトナ
 ム戦争などで惨禍をもたらした。
  1886年に、槍と盾が主要装備のアフリカ諸民族の方々
 に対して、その使用は、まったくの悲劇そのものだった。
  その破壊的な効果は、殺人鬼には与えてはならない兵
 器だった。
  これを良い事に、19世紀後半における、アフリカのヨ
 ーロッパ植民地化戦争において、卑劣な役割が演じられ
 た。
  1893年に、イギリス植民地部隊によって、ローデシア
 の第一次マタベレ戦争で使用された。
  ヤリと盾を武器にしたアフリカの方々・マタベレ族の
 戦士たちは、開けた地形での正面戦闘におびき出され、
  100分の1のイギリス兵に殲滅させられた。
  5000人のアフリカの方々が、一瞬に殺戮された。
  マタベレ族の方々の被害は悲惨で、「どれほどの涙を
 流しても、殺された戦士たちを悼むに足りない」と記述
 される大被害となった。
  イギリスは、大戦果に大喜びしたのだろう・・、
1884年、教育:
・私立縫製女学校が設立された。
・3月31日:東京商業学校(現=一橋大学)が開校した。
  沿革
  1875年8月に、森有礼が、東京銀座尾張町に商法講習所
 を私設した。
  そして、9月24日に、同講習所の開業を東京会議所から
 東京府知事に届け出た(この日が、一橋大学の創立記念
 日とされている)
  1875年11月に、商法講習所は東京会議所の管理に委任
 された。
  1876年5月に、木挽町に移転し東京府立となり、矢野二
 郎が所長に任ぜられた。
  1884年3月に、農商務省の直轄となり、東京商業学校と
 改称された。
  1885年5月に、文部省の直轄となった。
・5月17日、海軍の要望により、東京大学理学部に造船学科
 が付設された。
・万年筆:丸善が、万年筆を輸入し、発売した。
  少し前、ニューヨークのウォーターマンという保険業
 の人が発明していた。
・東大前の文房具店が、洋行帰りの教授のすすめで、大学
 ノートを製造し、販売した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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