(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)

題:(増補版)393E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年1月〜1884年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1884年、その他:
・上野〜熊谷間の鉄道が開通した。
  そして、この7年後の1891年9月1日に、現在の東北本線
 全線(上野〜青森間)が開業した。
  素晴らしい日本の技術力、明治の方々の功績だった。
・佐久間貞一が、活版工組合を設立した。
  この時は、草分け的な、組織化の労働運動の試みであ
 った。
  この様な試みは、1889年、1890年と行われたが、
  この活版工組合(かっぱんこうくみあい)などの職種
 別組合が組織化できたのは・・、
  1899年11月に、約2000名の印刷工を組織したときだっ
 た。
  この時、関東地方から近畿地方にかけて支部が存在し
 た。
  しかし、翌年・1900年(明治33年)に、治安警察法
 公布の前後から、経営者側の態度が硬化して、組合を離
 脱するものが増え、急速に衰えて行った。
  そして、1900年5月に、活動停止となった。
  鉄工組合、日本鉄道矯正会と並んで、日本における黎
 明(れいめい)期の労働組合組織を代表する事例。
・換券発行(氷川清話)
  この年に、兌換銀行券条例が公布された。
  この条例によって、日本銀行は、銀本位制の下で、銀
 と交換ができる「日本銀行兌換銀券」を発行した。
  1897年(明治30年)に、金本位制を採用し、金兌換券
 (日本銀行兌換券)となった。
  そして、1931年(昭和6年)に、日本銀行券の金兌換は
 停止された。
  そして、1942年(昭和17年)に、日本銀行法が制定さ
 れ、兌換制度が廃止された(管理通貨制度への移行)
勝海舟、皇居炎上の時、金・300両を献納したため、銀盃
 一個下賜(氷川清話)
勝海舟が伯爵になる。
  華族に対し、公・侯・伯・子・男の爵位にわけた。
  また、旧公家や旧大名だけでなく、維新やその後の功
 労者にも爵位が与えられた。
  赤坂の氷川神社の近くに住む勝海舟が、伯爵を賜った。
1884年1月4日、官吏の恩給令が公布された。
  恩給局が設置された。
  恩給制度は、1875年(明治8年)の太政官(だじょうか
 ん)や、「陸軍武官傷痍(しょうい)扶助及死亡ノ者祭粢(
 さいし)並其(その)家族扶助概則」、および、「海軍退隠
 令」によって陸海軍人を対象として発足した。
  そして、この1884年に、「官吏恩給令」によって、文
 官にも支給されるようになった。
  この他に、学校教職員、警察官などに対する恩給制度
 も制定された。
1884年1月4日、官吏非職条例が制定された(太政官達3号)
  第一条、官吏判任官以上並ビニ出仕御用係モ之ニ準ズ
   奉職中 各官庁ノ事務張弛其他疾病等ノ事故ニ因リ
   本属長官ハ其僚属ノ官吏ニ非職ヲ命スルコトヲ得但
   勅任官ノ非職ハ上裁ニ依リ奏任官ハ太政大臣ノ認可
   ヲ経テ之ヲ命ス・・
  第五条、(制定当初、非職中ノ俸給ハ現俸三分ノ一ヲ
   支給スと規定したが、明治24年)年勅令23号で削除
   した。
    政費削減の観点から、職務に従事しないにもかか
   わらず俸給を支給するのはおかしいということが問
   題とされた。
    但し、経過措置によって、同年4月1日現在の非
   職者については、俸給の4分の1に限り支給するこ
   ととされた)
1884年1月4日、賭博犯処分規則が制定された(太政官第1号
 布告)
  旧刑法の賭博罪の規定を停止し、博徒に対する徹底取
 締を図った。
  特に、幕末に、諸藩の統制力が弱まって、各地で公然・
 非公然に賭博が行われていて、それを一掃しようとした。
  1880年に制定された刑法(旧刑法)・治罪法(現在の
 刑事訴訟法)は、
  フランスの法制の影響を受けて、最高でも重禁錮1年
 以下・罰金100円と軽微だった。
  また、現行犯のみに適用された(第260条-262条)。
  そして、治罪法は、夜間の家宅捜索を禁止していた。
  賭博は、夜間に行われる事が多かったので、政府の意
 思とは反対に、賭博は事実上の野放し状態だった。
  博徒達は、旧来から武装しているものも少なくなく、
 1882年に、安場保和から太政大臣三条実美に提出され
 た意見書でも、
  博徒の中には、警察官を殺傷したり、法を巧みに利用
 して、警察官を不法侵入の罪に陥れる者がいると指摘さ
 れている。
  また、当時、高揚していた自由民権運動に反権力感情
 から参加する博徒も少なくは無かった。
  この法令によって、全国で、一斉に博徒の取締りが行
 われ、
  この年だけで、全国で、前年比25%増の約3万3千人が
 逮捕された。
  博徒達は、これを「大刈込」と呼んで恐れた。
  ところが、布告直前の太政官内務省などの調査では、
 非常に多くの博徒がいる。
  例えば、群馬県は10万人と報告している。
1884年1月9日、大阪市東区の大火(1440戸焼失)
  (詳細説明済、前記を参照ください)
1884年1月23日、近衛兵に軍旗を授与した(1874年説あり)。
  因みに、近衛歩兵第1連隊(東京)は、1874年(明治7
 年1月20日)に編成され、
  同年・1874年1月23日に、軍旗を親授された。
  編成に際して明治天皇陛下より・・、
  「近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旒ヲ
 授ク汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保
 護セヨ」との勅語を賜った。
  それに対し、連隊長が・・、
  「敬テ明勅ヲ奉ス臣等死力ヲ渇シ誓テ国家ヲ保護セン」
 と奉答した。
  また、1871年明治4年)に、東北鎮台第20番大隊(弘
 前町)が置かれ、
  1878年明治11年5月1日)に、連隊が編成され、
  1879年(明治12年1月16日)に、軍旗が授与された。
1884年1月24日、太政官文庫が設置された。
  のちの、国立公文書館
  内閣文庫の組織的な起源は、1873年に、太政官に図書
 掛が置かれ、
  太政官所管の図書を管理させたのに始まり・・、
  その後、1884年に、太政官は、太政官文庫の設立を政
 府の各官庁に通達し、
  政府が所有する和書や洋書などの図書一切を、太政官
 直轄で収集・管理させることとし、文書局記録課に所管
 させた。
  太政官文庫は、官庁の執務参考用図書を、一元的に管
 理する政府の専門図書館を設立の目的としていたが、
  政府の所有する図書を集中して移管させたために、
  旧幕府引継ぎの紅葉山文庫本をはじめ、和漢洋の貴重
 な図書の一大コレクションとしての性格も帯びた。
  1885年に、内閣制度の発足により、太政官は、内閣に
 移行し、文庫の名称も「内閣文庫」と改称された。
  書庫は、狭隘や、天災による損傷のため転々とした。
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  (今日の言葉)
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  『パクス・アメリカーナ』・・、
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  『パクス・アメリカーナ』の旗を掲げてやって来たと
 いうが・・、
  パクス・アメリカーナという『超大国アメリカ合衆
 国の覇権が形成する「平和」だというが・・?・・、
  その世界は・・どうなっているのだ・・??
  ローマ帝国の・・パクス・ロマーナ(ローマの平和)
 に由来すると言ったって、
  結局、腕力のある国が・・奴が・・「非情なる暴力」
 をふるってやる形になっている・・
  平和と言ったって、キリスト教の「シャローム」。
  違う考え方をする人たちを・・「異端」として、
  異端という捉え方をして・・異端と軽く捉えて・・
  安易に・・強烈な進んだ兵器で殺戮している・・、
  まさしく・・、
  キリスト教の歴史がこの様であったが、
  キリスト教の最高の会議だという「公会議」が・・
  この公会議というキリスト教の最高の会議でさえ、ロ
 ーマ法王の出席した会議でさえ、
  この会議が率先して・・、すぐに「異端だ」と判決し
 ・・「異端の殺戮をして来た」・・し続けて来た・・
  パクス・アメリカーナも、結局は、この様になった。
  数々の戦争があった・・、悲惨な戦争だった・・
  ベトナム戦争なんて悲惨の極みだった・・、
  パクス・アメリカーナは、このキリスト教の考え方の
 もとにあった。
  世界は、混乱が治まるどころか・・混乱は続き・・、
  何ら平穏な世界は来なかった・・、
  異端を殺戮し尽くして平和が来るというのは『妄想』
 なのだ。
  キリスト教のシャロームの平和は『ないのだ』。
  「平和」を求めたって・・この様な考えの下では平和
 はやって来ない・・、
  「世界の警察官」なんて言ったって、やっている事は
 警察官とはまったく違う行為だった・・、
  弱者を、自分の考えが正しいという基準で判定し、対
 象とした。
  結果は、殺しまくったと言える状態だけが現出した。
  「蛮行だけの結果」と言える結果が残る行為だった。
  イラク戦争の例を考えて見たって・・、
  「現代の十字軍だ」と言って・・近代兵器を使って・・
  戦いと、何ら関係ないイラクの方々が殺されて・・、
  警察行動だなんておくびにも言えない状況の中で・・、
  また、アメリカの若者たちが死んだ。
  言う事も、自分たちを「主人とした発言」で・・
  だから、自分たちの都合の良い事ばかりで・・、
  「大量破壊兵器があるから・・」と侵略し・・、
  その国の長を捕らえ・・、形ばかりの裁判の後の死刑
 (私刑)。
  まったく大東亜戦争第二次世界大戦)の東京裁判
 私刑・茶番劇と同じことをしている。
  お粗末な事に・・学者の間では・・東京裁判なんて、
 国際裁判の参考事例にもされない「お粗末さ」なのだ・・
  結局、イラクには大量破壊兵器はなく・・、
  アメリカの蛮行だけの罪が残った。
  そして、さらに、アメリカの罪は、この時に解体され
 たイラク軍隊が・・そして、将校たちが・・ISIL・イス
 ラム過激派組織(自称:イスラム国)となって・・、
  今・現在も、世界を大きく不安に陥れ、
  そして、多くの人々が殺されている・・死んでいる。
  この遠因を作ったのが、この時のアメリカの自分勝手
 な暴力・戦争にあった(警察権行使ではない)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive