(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月〜1877年9月)

題:(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月〜1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1877年9月2日、静寛院宮が逝去された(31歳)。
  和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、
 弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)〜明治10年(1877年)
 9月2日)
  静寛院宮相州塔の沢で逝去(氷川清話)
  文久元年(1861年)11月15日に、和宮一行は江戸城
 の清水屋敷に入られ、
  そして、12月11日に、江戸城本丸大奥に入られた。
  文久2年(1862年)2月11日、和宮親子内親王(16歳)
 と将軍・徳川家茂(16歳)の婚礼が行われた。
  慶応2年(1866年)7月20日、家茂は大坂城薨去(こ
 うきょ)した。
  あまりにも早い逝去だった。
  結婚期間は、4年5ヶ月の非常に短い期間だった。
  夫婦の仲は非常に良かった。
  天皇陛下のご意向で帰京する様にと発令された。
  だが、すぐには江戸を去らず・・、
  江戸幕府の最終末には徳川家への寛大な処分や存続な
 どに意を配られ、関係された。
  明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都
 へと向かわれ、明治天皇陛下へご対面され、
  5月19日には、天皇陛下から京都在住の沙汰があった。
  御住まいを栄御殿と名が改められた。
  明治天皇陛下が、東京行幸され、東京遷都の後・・、
  東京に住まわれる天皇陛下の勧奨もあり、再び東京へ
 戻ることを決め、明治7年(1874年)7月に、東京に戻ら
 れた。
  そして、皇族や天璋院徳川家達をはじめとした徳川
 一門などと幅広い御交流を持たれた。
  そして、病気がちとなられ、
  明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療
 養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かわれた。
  箱根の地元民とも気さくにご交流をなされたりしてい
 たが、
  明治10年9月2日、病気のため療養先の塔ノ沢で薨去
 れ、若い一生を閉じられた。
  静寛院宮の「家茂の側に葬って欲しい」との御遺言を
 尊重する形で、葬儀は仏式で行われ、
  墓所を、家茂と同じ、東京都港区の増上寺に・・。
1877年9月7日、寺田屋お登勢(49歳) が没した。
  幕末期の寺田屋の女将。
  寺田屋薩摩藩の定宿。
  寺田屋騒動の時は、被害を受けたが、事件後、薩摩藩
 から見舞金を受け、即座に畳や襖を取り換え、営業でき
 るよう整えた。
  お登勢は世話好きで、坂本龍馬をはじめとする幕府か
 ら睨まれた尊王攘夷派の志士たちを保護した。
  龍馬から託されたお龍を養女とし、また、お龍の母に
 まで仕送りして、龍馬との約束を大切にした。
  龍馬や薩摩藩との関係などから、お登勢も幕府より危
 険人物と見なされ、牢に入れられかけたこともあった。
  龍馬は、何かとこのお登勢に頼み事や、泣き言を聞い
 てもらう手紙を色々と出している。
  龍馬は、姉の乙女への手紙も有名だが、このお登勢
 も色々と手紙を出していた、筆まめな龍馬だった。
  明治10年(1877年)9月7日に没し、墓所は、寺田屋
 近い伏見松林院(浄土宗鎮西派末寺)。
1877年9月8日 西南戦争で官軍が、鹿児島・城山を包囲。
  官軍の参軍・山縣有朋中将が、鹿児島に到着した9月8
 日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一
 として攻撃を第二とする」という策をたてた。
1877年9月10日 朝鮮京城に公使館を設けた(韓国公使に花
 房義質を任命)
1877年9月16日 モースが、大森貝塚を発掘調査した。
  助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、
  また、9月29日にも訪れ、
  10月9日から本格的な発掘を行った。
1877年9月19日 官軍の鹿児島・城山の包囲陣が成る。
  西郷の助命・・救命の動き・・、
  西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では、
 一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が、西郷
 の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意
 を説くためと称して、軍使となって・・西郷の縁戚でも
 ある参軍・川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえら
 れた。
  9月22日、西郷隆盛は、「城山決死の檄」を出し、決死
 の意を告知した。
  「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣は
 し候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を
 以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)
 に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、
 今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可
 有之候也」
  『後世に恥辱を残さないように・・』・・「士魂」を
 大切にせよ・・
1877年9月20日 官軍、鹿児島城山攻撃開始
1877年9月23日 西郷隆盛、城山にて訣別の宴
  この日、軍使・山野田一輔が持ち帰った参軍・川村純
 義からの降伏の勧めを無視し、参軍・山縣からの西郷宛
 の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
1877年9月24日、西郷隆盛が自刃、西南戦争終結
  この日の午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に
 官軍の総攻撃が始まった。
  このとき西郷・桐野・桂久武村田新八・池上・別府
 晋介・辺見十郎太ら将士40余名は、西郷が籠もっていた
 洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。
  進撃に際して、国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自
 刃した。
  途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が
 続き、島津応吉久能邸の門前で、西郷も股と腹に被弾し
 た。
  西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて
 「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将
 士が跪(ひざまず)いて見守る中、跪座(きざ)し襟を
 正し、遙かに東方を拝礼した。
  遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめん
 なったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介
 錯した。
  その後、別府晋介は、その場で切腹した。
  西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺
 見・山野田・岩本平八郎らは、再び、岩崎口に突撃し、
 敵弾に斃れ、自刃し、或いは、私学校近くの一塁に籠も
 って戦死した。
  午前9時頃、銃声は止んだ
  西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765
 人に及んだ。
  桐野利秋(39歳)、別府晋介村田新八 戦死、
  西郷隆盛(50歳)ら城山で自刃(西南戦争終結
  西郷隆盛が、不平士族の推されて西南の役を起こした
 が、
  敗北して城山にて自刃、西郷は政治的人間であったが、
 西南の役で部下のために死を決した・・、
  それを滅びの美学と称する者あり・・しかし・・、
  この様な状況の中で、西郷隆盛は「士魂」を示したか
 った。
  西郷隆盛反す、西南の役(氷川清話)
  戦費は、国家予算の半ばに達す(氷川清話)
  西郷隆盛は、「士魂」を示すために戦ったという話が
 ある・・、
  西郷隆盛は、負けると分かっていた戦いを・・、
  その戦いの「勝つ」「敗ける」より大切なものがある
 として・・、
  それを示したかった・・見せたかった・・、
  そこに、絶大な価値がある・・とした。
  その示した行為・行動・考えは、日本に永久に残る・・
 残したい・・とした。
  西部邁ゼミナールで、下村博文自由民主党衆議院
 員が、西郷隆盛の国家観の言葉を話されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=CA-tRKqnriQ&list=PLZ0F09jaasHNwh67iJd1l6gzSXutHh0_Q&index=3
  「国家の根源は、財政でも、軍事力でもなく・・、
  そこの国民の持つ颯爽とした士魂(武士の魂)にある」
 ・・と。
  「国民の士魂にあり」・・と。
  そして、西部邁氏がいう・・、
  ロシアと戦う4〜5年前に、中江兆民は言う、
  「ロシア討つべし、滅びを覚悟で戦え、大陸に覇を唱
 えよ」・・と。
  そして、さらに、西部邁氏は言う・・、
  「負けると分かっている西南の役を、西郷隆盛は担が
 れて、士魂は何であるかを示すため、戦った」と。
  そして、「士魂は、自分が死んでも残るだろう」・・
 ・・と。
  そして、話は・・国を守る話に至る・・
  「自衛隊は我が国の平和と独立を守り国の安全のため
 ・・」という自衛隊法第三条に話は至る・・、
  自衛隊
  (昭和二十九年六月九日法律第百六十五号)
  (自衛隊の任務)
  第三条:自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、
   国の安全を保つため、
   直接侵略及び間接侵略に対し
  我が国を防衛することを主たる任務とし、
   必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
  そして、西部氏は・・、
  「士魂」の持つ意味を考えて行くと、「自立と自尊、
 独立と自尊」が大事・大切なのだと言う。
  そして、日本に・・この点についての、「冷静な議論
 の土壌をつくらねば、日本がそのものが危うい」という
 論点を話す。
  そして、「デマゴーグ」ばかりで、本質論に至らない、
 その様な討論に終始してしまう日本を嘆く・・、
  そして、日本は・・、
  1940年代に至って、この士魂の行為をしている。
  (注)デマ:政治的な目的で、意図的に流す扇動的か
    つ虚偽の情報。
   デマゴーグ:このデマを用いる政治家。扇動政治家。
   デマゴギー:民衆扇動、⇒デマ。
1877年9月30日 前鹿児島県令・大山綱良、漸に処せられる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive